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柄谷行人著『探求Ⅱ』読書メモ

『探求Ⅱ』については、すでに四回に分けて投稿済でしたが、今回は、それらをまとめた上で、目次を追加しました。

第一部 固有名をめぐって

第一章 単独性と特殊性

P16
・・・・・ライヴァルがいなくなれば、情熱恋愛は終わる。要するに、情熱恋愛においては、この相手(他者)が問題なのではなく、第三者(他者)あるいは一般者が問題なのだ。そこでは、この他者というこだわりがあるようにみえて、実はこの他者が徹底的に不在である。

P19
 「この」性あるいは単独性は、客観的にあるのではないが、主観的にあるのでもない。
・・・・・しかし、文学が「この私」や「この物」をめざすようになったのは近代小説においてにすぎないのであって、それは文学の本姓とは無縁である。そして、近代小説に生じたことと並行している。

それはアレゴリーのように一般概念を先行させるかわりに、個物をとらえようとする。しかし、それはけっして単独性としての個物に向かうのではない。その逆に、それはいつも単独性を特殊性に変えようとするのだ。

いいかえれば、特殊なもの(個物)を通して一般的なものを象徴させようとするのである。近代小説とは、ベンヤミンがいったように、そのような象徴の装置である。たとえば、われわれはある小説を読んで、まさに「自分のことが書かれている」かのように共感する。このような自分=私は、「この私」ではない。

第二章 固有名と歴史

P28~P29
 現代物理学によれば、個体を指示する表現として、固有名と記述(確定記述)ある。たとえば、「富士山」は固有名であり、「日本一高い山」は確定記述である。(中略)

 しかし、上の例からいっても、「日本一高い山」というとき、「日本」という固有名が残っている。それを地球上で緯度いくらの地点に広がる列島といいかえても、実は「地球」そのものが固有名なのだ。そして、ある意味では、宇宙そのもの、物質そのものが固有名なのである。固有名をとりのぞき一般的な自然法則を見いだそうとしてきた物理学の先端は、それが「この宇宙」という歴史に属するものでしかないことを見いだした。

自然科学も「歴史」に属する。つまり、窮境的に固有名をとりのぞくわけにはいかないのだ。ウィトゲンシュタインの言葉をもじっていえば、宇宙のなかに神秘があるのではなく、「この宇宙」があることが神秘なのである。

第三章 名と言語

P43
 つまり、あるものを「これ」としてとらえるときには、すでにその直接性は廃棄されており、媒介的なものとなる。すると、ラッセルは「これ」を主語としてもちだしたとき、けっして言語の外部をもちだしたわけではない。その逆に、いかなるものも言語のなかで可能であるということをいっているのである。

 ラッセルが「これが在る」(xがある)というとき、彼はそれを文法からではなく意識=言語において見いだしている。現代論理学は、一見そうみえないけれども、私的な「内省」にもとづいているのである。ラッセルを批判したウィトゲンシュタインが、その独我論に焦点をしぼった理由がそこにある。

その批判を、言語が共同的な制度であるというような意味でうけとってはならない。独我論とは、私しかないという意味なのではなくて、「私」がどの私にも妥当するという考えなのである。そして、それを支えているのは、まさに「私」が言語であり、共同的なものだということなのだ。

P46~47
 固有名が攻撃されるのは、それが言語をものの名とみなす考えの源泉となるからである。しかし、一般名は名ではない。ラッセルのいう論理的固有名も名ではない。「名」とは本来固有名だけである。

一般名とはそれを不正確に拡張したものにすぎない。一般名といういい方は、言語をものの名とみなす考えを生みだすだけではなく、実は固有名の特性を見うしなわせるのだ。言語をものの名から、したがって対象から切り離そうとするとき、ひとはそもそも「名」がなんたるかを問うことを忘れるのである。

P47
 便宜的に、名と言語を区別する。(1)「誰か(何と呼ぶのか)(2)「何であるのか}という問いの区別である。それらの答えとして「(1)これはソクラテスである。(2)これはソクラテスである」という答えの場合、一見すると両者には何の違いもない。しかし、この同一性は、(1)は「誰か(何と呼ぶのか)(2)「何であるのか」いう問いの差異が消されていることによるのだ。

第四章 可能性と現実性

P59~60
・・・・・「可能世界」が現実世界から考えられるということは、実は「現実世界」がすでに可能世界から考えられているということと同じである。固有名を確定記述に置き換えると可能世界で背理が生じるということは、固有名がすでに可能世界をはらむ現実性にかかわるということを意味するのである。

 たとえば、夏目漱石という「これ」は、「他ならぬこれ」である。つまり、他である可能性のなかで「他ならぬこれ」として固定されている。したがって、それが可能世界においても固定されるというのは当然である。

「『猫』を書いた作家」というような確定記述(単称名)はそうではない。それらの差異は、たとえば、可能世界において、「漱石は小説を書かなかった」というのと、「『猫』を書いた作家は小説を書かなかった」というのとの差異として顕在化してくる。つまり、現実性をラッセルのように経験的なものとみなす考えは、可能性をもってくると背理に陥るのである。

第五章 関係の偶然性

P85~86
 それは、二者の関係において、その両方にあるいは前後に同時に立つことができないような関係のおいてのみありうる。つまり、それこそが、「売るー買う」とか「教えるー学ぶ」といった非対象な関係なのである。ここでは”結果”の優位性はありえない。クリプキは、ここに全知の神でも見通すことができない不透過性をみとめた。かくして、個体(単独性)の問題は、固有名の問題であり、さらに、固有名は偶然性(可能性)にかかわるが、それは究極的に社会的(非対称的)な交通の問題に帰着するのである。

第二部 超越論的動機をめぐって

第一章 精神の場所

P111
 デカルトが「精神」の自律性を主張しているのに、彼の機械論によって精神がおびやかされると考えることは奇怪である。デカルトの”二元論”を攻撃する者こそ、二元論なのである。「精神」は、われわれが属しているシステムの外に立つことを要求する。

だが、それは”私”的であった、何一つ根拠をもちえない。「精神」であることは容易なことでもないし、望ましいことでもない。ドストエフスキーは、人々は「自由」など望んでいないといったが、同様に、”精神”であることを人々は望んではいない。自分はめざめて現実を直視し、ほかの人々は幻想に支配されていると説くあの連中のように、夢みていることを望むのである。

第二章 神の証明

P118
 神の存在証明は、それまで、異教徒または無神論者に対してなされてきている。後者はキリスト教圏の外にあるというよりも内にある。具体的にいって、それはギリシャの哲学である。中世西欧の哲学者は、イスラムを経由してギリシャ哲学を継承しているので、一方でそれに対してキリスト教を擁護せざるをえなかった。

一般の大衆にとって、「証明」などは不要である。しかし、ギリシャ的な知に発する哲学は、基本的にキリスト教的な「神」に反するがゆえに、哲学者自身が何とか哲学の範囲で「神の証明」をなす必要があったのである。

第三章 観念と表象

P139
 スピノザは、ここからはじめる。デカルトを批判するために、スピノザを対置させる者は注意しなければならない。スピノザこそ、デカルトに反してさえデカルトを読み、その可能性の中心において思考した人であったのだから。スピノザにおける「外部的実存」はデカルトより徹底している。

彼はデカルトのように一時的な亡命者ではなく、キリスト協会はいうまでもなくユダヤ協会からも破門されて、どこにもない「間」に生きたからだ。あるいは「間=差異」そのものを世界として。

P140
 スピノザにとって、神とはこの「世界」のことである。しかし、ここに共同体から二重に疎外された者の生をロマンティックに思い描いてはならない。スピノザが結果的にこのような生を選んだのは、なによりもデカルトの方法に震撼されたからである。彼がはじめて出版し且つ彼を有名にした書物は、デカルトの哲学を「幾何学に構成」した『デカルトの哲学原理』である。

そこにおいて、スピノザはデカルトの観念をさらに磨ぎすませる。いいかえれば、観念と表象(想像知)の区別をはっきりさせる。たとえば、神とはこの「世界」のことであり、それは観念としてのみ見いだされる。この「世界」の外に考えられるような神は表象にすぎない。デカルトは、まさにそのような神=世界を見いだしながら、なお一方で神をそれをこえた人格として表象していた。この混乱をスピノザは見のがさなかった。

第四章 スピノザの幾何学

P165~166
 数学において、ある公理系が、一つの解釈モデルでは真であり、別の解釈モデルでは誤であることがありうる。それは公理系が不十分な場合である。そのときは、公理系が修正されねばならない。スピノザは、いわばこうして得られる十全な公理系を「観念」とよんだといってよい。

 つまり、あるもののすべての特質を導きだせるような「観念ないし定義」とはこのような解釈モデルに対しても妥当するような公理系に対応するといってよい。したがって、スピノザの例でいえば、「神は最高完全な実体である」という定義は一般概念であり、「神は無限な実体である」という定義は観念である。

 スピノザは観念によって表象を批判する。ここからみれば、彼の演繹的な公理主義には必然性がある。つまり彼の「幾何学的叙述」は必然的である。

第五章 無限と歴史

P171~173
 スピノザが「われわれが神あるいは自然と呼んでいる永遠にして、無限なる存在者」について語るとき、あたかも歴史がないかのようにみえる。だが、実はその逆なのだ。それは一切が歴史的であることを意味するのである。永遠というとき、ひとは無限についてと同様に、この世界を超えたものと考えてしまう。

しかし、スピノザのいう「永遠」は、逆にそのような外部(超越)がないことを意味している。いいかえれば、歴史(出来事)にそれをこえるような理念、目的、物語はありえず、それらはたんにこの自然史のなかに属し、かつそこから生み出される表象でしかない。

 聖書そのものが歴史に属すると、スピノザはいう。むろん、このことが当時どんなに斬新だとしても、今やひとはすこしも驚かないであろう。今日の聖書学はほとんどこのスピノザの方法でやっているといってもいい。

しかし、彼の「自然」論が今日の自然科学と違うように、これは今日の歴史学とも違う。スピノザがすべてが「歴史内的」であることをいいえたのは、そのまえに、一切の外部(超越)がありえないような「無限」の観念をもちこんだからである。この観念ゆえに、物語=表象がそのようなものとして提示されうる。

第六章 受動性と意志

P185
 スピノザは、身体からくる受動感情(情念)を”意志”によって克服しようとする姿勢を否定する。感情に対しては、われわれはその原因を知ろうと努めることしかできない。感情にとってかわるのは、意志ではなく、もう一つの感情である。

いいかえれば、意志そのものが、われわれが複雑すぎるがゆえにその原因を知らないところの欲望(意識された衝動)にほかならない。くりかえしていうが、スピノザはそのような感情や欲望の不可避性を承認しようとするのであって、それを理性や意志によって克服しようとする態度を否定するのである。

第七章 自然権

P195
 たとえば、ホッブスは個々の人間は「自然状態」あるかぎり互いに狼であり、これをまぬかれるためには、国家(レヴァイアサン)に各自の自然権を譲渡しなければならないと考えた。これは社会契約論の原型であり、また個物から出発する論理の一典型である。

P197
・・・・・ホッブスのような考え方は、個から出発して類に至ろうとするかぎり、不可避的である。(中略)しかし、社会契約論が批判さるべきなのは、それが全体(システム)の先行性を認めないからではなく、暗黙にそれを前提してしまっているからである。

要するに、社会契約論は、近代国家の優位を正当化するための論理にほかならない。スピノザがいう「契約」はそういうものではない。ホッブスにおける契約が「共同体」(国家)に個人が内属することを正当化するのだとすれば、スピノザのいう契約は、譲渡しえない単独性としての個体間の「社会的」な関係を指しているといってもよい。

P198~199
 こうして、スピノザがいう国家は、ホッブスのいう国家とは異質である。マルクスはそれを国家に対して「市民社会」と呼んでいる。それは、国家(共同体)に内属するものではなく、共同体を超えた、つまり社会的な関係と交通の網目によってあるような交通空間である。

くりかえしていうが、単独者は孤立的な個人ではない。しかし、それは「社会的」である。というより、単独者だけが「社会的」なのだ。スピノザが考える国家は、その意味で社会主義的(共同体主義)である。

 われわれは、個ー共同体という対と、単独者ー社会という対を区別しなければならない。ほとんどすべての社会学や政治学の理論は、この区別をもたない。それはいつも個ー共同体の円環のなかで争っているにすぎない。というのも、個ー共同体は、個ー般性と同様に、極めて文法的・論理的にわかりやすい考えだからである。

スピノザはそれこそを表象とみなした。そして、それを表象とみなしうる根拠は「観念」にしかない。それは普遍性としての神=自然=世界であるが、何度もいうように、それは単独性の対になっている、単独性においてのみ、普遍性がありうるのである。

第八章 超越論的自己

P204~205
 今日、あるいは昔から、特に日本において支配的なデカルト的主体への批判は、一つには、主ー客分離をこえて主ー客合一の境地へ至るというような類のものである。そして、西洋における「主体」批判の言説がそこに援用される。

しかし、それは個としての私を、たえず共同体の中に回帰させようとする支配的な言説(文法)に強制されているのではないか、と疑ってみることができる。そのように疑う私が、いわば超越論的な自己である。それは個人としての私ではなく、外部性・単独性としての私である。

P206
 しかし、このことはデカルトに限ったことではない。デカルト的な主体を否定するマルクスやニーチェを読む者は、あたかもすべての言説を超越するメタレベルにいるかのように考えてしまう。そこに再び「主体」が出現するのだ。つまり、マルクスやニーチェにあった外部性がうしなわれ、超越論的自己が超越的な立場になってしまう。

P210
 超越的な自己は、したがって自己意識ではない。自己意識は、たしかに自分に属している世界をこえる。しかし、それは反省にすぎず、つまり鏡像のなかにあるにすぎない。したがって《超越論的》であることは、たんに自己関係(自己言及)的であるのではなく、共同的なシステムに対して自己関係的であるのでなければならない。

P215
 これはありふれた問題機制である。結局、これは個別性ー一般性という水平軸にかかわるものだ。そして、せいぜい独我論のパラドックスに帰着する。しかし、《超越論的》であることは、そもそもこのような機制から出ることだったはずである。

 たしかに超越論的自己は、「ひとりの」私ではないが、一般的な・共同主義的な自己でもない。それは単独者であり、いわば「この私」なのだ。重要なのは、単独性と個別性(特殊性)の区別である。

第九章 超越論的動機

P230~231
 超越論的動機は、「旅」や「探検」への動機と異質である。つまり、差異や多様性を経験したいという動機と正反対である。だから、レヴィストロースは「旅人と探検がきらい」と書きだすのである。

だが、超越論的動機が、「旅」や「探検」と切りはなしえないことも事実である。デカルトは旅人であり、探検家的であった。旅なくしては、彼のコギトはない。しかし、彼は旅に憧れたのではなかった。旅をすること、さまざまな他者に出会うこと、それは必ずしも”他者”に出会うことではない。そのことが、自分の経験的な自明性を徹底的に疑わしめるものでないなら。

 デカルトのコギト(絶対的な唯一性)は、たんに相対的な他者や異質性ではなく、いわば絶対的な他者性や差異性を体験することなしにはありえない。むろん、絶対的な他者が在るのではない。他者の他者性が絶対的であり、けっして自分のなかに回収できないということなのだ。旅や探検好む者は、その逆に、他者の他者性を奪うこと、差異を吸収すること、自己の内に所有することをめざす。

P233~234
 むろん、これを「歴史学的」に読んではならない。これは、「一般性ー個別性」という思考自身に対する《超越論的》な遡行なのである。キルケゴール、マルクス、ニーチェはそれぞれ、他者との非対称的な関係、あるいは交換=コミュニケーション関係を超越論的な構造として見出している。

それは、彼らが他者を主体が構成しえないものとして見出し、逆に主体とを他者との非対称的関係のなかで見出したということである。別の言い方をすれば、彼らは、個別性ー一般性という軸からはなれることによって、単独性ー普遍性という軸を見出した。それは超越論的主体性の問題を徹底させることにほかならなかった。

第三部 世界宗教をめぐって

第一章 内在性と超越性

P238~239
 フロイトは、ストレインジなもの、あるいは不気味なものは、もともと親密なものといっている。それは、異者はもともと内在的であって、それが”疎外”されたものだといういうことを意味している。共同体の内部の者と、異者は、本来同質的であるといってよい。異者がどんなに超越的に見えようと、それは内在的なのである。

 フォイエルバッハが、神は人間(個々人)の類的本質の”自己疎外”であるというとき、神と人間の本来的な同一性が前提されている。これは、ヘーゲルがキリストに関して、神が人間としてあらわれたということは人間が神的であるということだと言ったことの延長にすぎない。

フォイエルバッハは、神の超越性を否定する。だが、それは超越性を人間(個々人)に内在させることでしかない。いいかえると、この種の思考は、類ー個(一般性ー特殊性)という回路のなかにある。超越的なものは「類」なのである。ヘーゲルのように類(概念)を先行させない者、つまりノミナリストも、これとさほど違っているわけではない。

第二章 ユダヤ教的なもの

P260~261
 この「ユダヤ人」は、フロイトにとって、ユダヤ教やユダヤ人の共同体を意味していない。それは、いかなる共同体の偏見(偶像)をも拒否し、したがってそこから排除されざるをえない在り方である。つまり、「ユダヤ的であること」は、いかなる共同体にも帰属せずその「間」に立つことである。

むろん、それを「ユダヤ的」という固有名詞で呼ばなければならないわけではない。しかし、その在り方が、たとえばモーゼの「偶像崇拝の禁止」において典型的に開示されたことは疑いがない。

なぜなら、いかなる共同体の神々に即すことをも禁じるからである。フロイトが固執するモーゼであって、ユダヤ人に儀礼や戒律を与えたモーゼではない。あるいは、外国人(他者としてのモーゼであって、「民族の英雄」としてのモーゼではない。フロイトはユダヤ民族のアイデンティティ(選民としての)を否定するが、ただ「ユダヤ的であること」のアイデンティティは確保しようとするのである。

第三章 思想の外部性

P293
 われわれはソクラテス自身について知ることができない。しかし、プラトンが完成したのは、ソクラテスを通して、外部的な思想を内面化することによって排除するというだったといえる。ヘーゲルの哲学と同様に、プラトンの哲学にはそれ以前のすべての思想が「内面化」されている。

いいかえれば抑圧されている。プラトンの弁証法(ディア・ロゴス)は、他者性を排除することによって成立し、したがって自己対話(モノ・ロゴス)となる。知は「想起」となる。

第四章 精神分析の他者

P316
 しかし、リビドーは、感情転移関係においてのみ根拠をもつ概念であり、しかるに分裂病者が感情転移してこないとすれば、フロイトはどちらかを選択しなければならない。

つまり、リビドー理論を貫徹すれば、分裂病を退行とみなければならず、分裂病者を他者として見れば、リビドー理論を放棄しなければならないのである。ユング学派も、反精神医学も、それぞれ違った意味においてだが、フロイトを批判すると同時に、彼が見出した「境界」そのものを洗い流してしまったのである。

第五章 交通空間

P330
・・・・・すなわち、「図表モデル」でしか語りえないような交通空間を「世界」として開示したものこそ世界宗教である。

第六章 無限と無限定

P335~336
 アリストテレスあるいはギリシャ哲学において、無限とは、無限定という意味である。つまり、無限はいつも有限から、有限の否定として考えられている。それゆえに、限定されたコスモスの方が、無限定のカオスより優位におかれる。

P343~344
・・・・・それが、創造神の名によって告げられようと、空の名によって示されようと、肝心なのは、それが内部/外部の区分を廃棄してしまうことによってひとを「他者」に向きあわせることだ。

それは、天国であれ地獄であれ、神や神々であれ、輪廻であれ、「外部」を否認する。それは、また「外部」に在る超越的・神秘的諸力を否認する。さらに、そのような諸力を獲得しようとする一切の「修行」を否認する。内部(有限)に対して想定されるような外部(無限)は、たんに「世界」の内部にあるにすぎないからである。

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