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あなたの2Q21の物語(下)

[2021/6/30 夜]

「その部屋から出て行ってほしいの」
妻が僕に声をかけた。その瞳からはとても強い意志を感じたし、それに抗うことは無理筋であることは容易に推測できることだった。負けるとわかっている戦いに挑むことは無謀なことななのかもしれない。だけど僕は慣例的かつ儀礼的な態度をとることにした。

「この部屋は僕の仕事部屋なんだけど、出ていってほしいと言ってるんだね」
当たり前じゃない、物覚えの悪いインコに辟易するような態度で妻は首を振った。

「君は7/1から未経験のIT企業に入社するし、しばらくはリモートワークだと聞いている。そうしたら確かに仕事部屋はいるかもしれないね」
「そうよ、だから出て行って、と言っているの」
妻は頑として譲らない。僕は少し間をあけてから続けた。

「君がリモートワークであることは承知しているし、部屋が必要なことも事実だろう。でも僕もリモートワークなんだ。ここは折衷案を考えるべきなんじゃないかな」
深海に潜んでいる目のない魚のように妻はじっとしていた。やがて大きなため息をついた。

「私はあなたより年上なのに未経験でIT企業に転身することができたのよ。これから先は分からないことだらけの世界が待っているの。それはわかる?」
わかると思う、僕は答えた。

「そのためには自宅の仕事環境はしっかりしたいの。あなたの仕事は明日から急には変わらない、だから仕事部屋を変えても仕事はできるはずよ」
「そうかもしれない」

要するに妻は、今僕がリモートワークの時に使っている仕事部屋の立ち退きを要求しているのだ。急に言われても困る部分はあるが、できない相談ではない。
だけど僕にはどうしても分からないことがあった。
僕たちの家にはもう一つ仕事ができるスペースがある。リビングのなかの一角だが、机もあるし椅子もある。今まではそこで勉強や就職活動をしていたのだ。なぜそこではダメなのだろう。
雛鳥が初めてその羽を広げて空を飛ぶように、僕は恐る恐る妻に尋ねることにした。

「一つ聞いてもいいかな、どうして今の仕事スペースじゃダメなんだろう」
「あなたは今が令和だっていうことは知っているわよね」
抑揚のない声で妻が言った。ごうごうと音を立てて激しく燃え上がる怒りを抑えながらゆっくりと喋っているようだった。

「多分知っていると思う」
「令和のワークスタイルはリモートワークに移行しつつある、リモート会議もやることになる。その時にはカメラで自宅が映ることになる、分かる?」
僕は黙っていた。妻の言わんとすることを理解するように富岳のような演算処理を脳内で動かしていたつもりだ。

「今の私のスペースは背景が雑多なのよ」
「確かにごちゃごちゃしているかもしれない」
「そこだとリモート会議に生活感が写り込んでしまう」
「でも、リモート会議ツールには背景効果を設定できるはずだから、それで解決するんじゃないかな」

「デモもパレードもないのよ!」
妻は怒りは頂点に達した。ナイアガラの滝のように勢いよくまくしたてた。

「リモート会議で嘘の背景を設定するなんて非常識よ! ふざけいてると思われるわ。令和はオンとオフの境目が曖昧になってきているの。背景効果なんていつまでも使えない。自宅の仕事環境を完璧に整えて、背景も映せる場所で仕事することが大事なことなの。ありのままの背景でリモート会議に参加することが令和のスタンダードなのよ!」

これ以上、話しても何も解決はないと僕は悟った。程なくして妻に部屋を明け渡すことになったのは改めて記す必要もないだろう。

[7月-9月]

7月1日、妻は新しい会社で働き始めた。妻に言わせるとこれが僕の誕生日プレゼントだった。確かに僕はそれを受け取った。大事なものは目に見えない、有名なフランスの作家もそう言っていたと思う。

働き始めたと言っても最初の数ヶ月は研修だったので、穏やかな日々だった。

「ねえ、とても素晴らしい会社なのよ」
妻は自分の勤める会社の魅力について語り始めた。
「上司はとても良い方で残業もしなくていいし、現場に出る場合は先輩社員が必ずついてくれるから安心していいと言ってくれるの」
妻は目を輝かせて話していたが、僕はごく自然な違和感を覚えていた。

「君はそういうふうに感じるんだね」
「そうよ、とても良い会社に入ったわ」
「だけどいいかい、まだ研修中だから残業はないのは当然だよ。プロジェクトに入れば当然場合によっては急ぎの仕事もあるから残業もあり得るよ」

「でも上司の方は残業はないと言っている」
「それはご新規さんに向けた常套文句じゃないかな。実際に残業は少ないのかもしれないが、0ということはないよ」

「私は残業しないわ」
「残業しないように仕事をすることは大切なことだけれど、頑なに残業をしないというのは違うと感じてしまうんだ」
会話にならないといったふうに妻は呆れていた。
「とにかく良い会社なのよ。私は残業しないし、仕事があっても定時になったら帰るだけよ」

その宣言通りに7月は残業もなく平和に過ごしていた。研修といっても九割型自習のようで、不定期に直属の上司と面談があるのみのようだった。
妻が自分探しを始めてから一年数ヶ月、ようやく家庭にはひとときの平和が訪れた。それはかけがえのないものだったし、僕はそれを求めていた。この時に永遠に続けばいいと思っていた。

家庭の平和とは裏腹に世間では新型肺炎の患者数は上がり続けていた。来週にはオリンピックの開催日が迫っており、メディアは毎日のように菅政権を批判ばかりしていた。

「本当にオリンピックをやるつもりなのかしら」
妻は怒っていた。
「今から中止はないだろうね」
「この状況でオリンピックをやることが世界の恥晒しになることは気づかないのかしら」
売り言葉に買い言葉になることは分かっていたが僕は続けた。

「この状況だからこそ、オリンピックをやり切ることで世界から評価されるってことはないかな?」

「本当にあなたは体制派ね。知ってるかもしれないけど私は小さい頃から、しんぶん赤旗を読んで育ったの」
「君が共産党支持者であることは知ってるけれど、冷静に考えられないかな」
「私の体には革命の真っ赤な血が流れているのよ!」
激昂した妻の前では、冷静な議論など砂漠に水を撒くように意味のない行為だった。

「ねえ、目を覚まして。日本政府のコロナ対策の失策を見ればわかる通り、今こそ政権交代が必要なのよ。暴力革命ではなく公正な選挙による革命が必要なのよ」
「オリンピックは腐敗して商業主義になったり政争の具になってしまうことは事実だと思う。でもこの機会に日本人はオリンピックについて深く考えることができた。今回のオリンピックはミニマムな形でもなんとか最後までやりきり、そこからオリンピックの意義について再考すればいいんじゃないかな」

「本当に戦前に軍部と同じ考え方ね!」

妻は吐き捨てるように言った。僕はそれ以上何も言わなかった。
妻の就職により、収入面や仕事の安定により家庭には平和が訪れたが、ここ最近は政治的思想によって衝突することが目立った。妻からすれば僕は、フランス極右政党党首のマリーヌ・ル・ペンのように見えるだろうし、百田尚樹のように見えるのだろう。
妻の反対をよそにオリンピックは予定どおり開催された。

「ねえフクヒロペアの試合観た?」
妻は興奮冷めやらぬ様子で言った。
「何のことかな」
フクヒロペア? セキュリティ用語だろうか。僕は本当に何のことか分からなかったのだ。

「オリンピックのバトミントンよ。ハイレベルな試合でとても興奮したわ」

僕はひどく混乱した。なぜ妻がオリンピックの話を話を好意的にしているのだろう。
「僕の記憶だと君はオリンピックに反対じゃなかかったのかな」
「オリンピックの開催に反対だけど、オリンピックの試合は別よ。当たり前じゃない」

遠い宇宙からやってきた遊星人が地球を見ると、昆虫が地球の覇者のように見えるという。妻と僕の間にはまるで遊星人と地球人の認識のギャップが存在している。

「次の試合が楽しみだわ。あなたはどの競技に興味があるの」
妻は楽しそうだった。
「いや、僕は見ないと思う」というと妻の顔が曇った。
「僕が興味あるスポーツはセントラル・リーグのプロ野球だけだよ」
「信じられない。あなたはあれだけオリンピック開催に前向きだったのに!」
「僕はオリンピック開催には賛成だけど、オリンピックの試合内容には興味がないんだよ」

妻は軽蔑するような目つきに僕をみた。僕が妻のオリンピックの対する考え方を理解できないように、妻もまた僕の考えを理解できないのだろう。

僕と妻の間ではたびたび衝突はあったものの、大きなトラブルもなく進んでいった。野球という競技で日本は金メダルを取った。プロ野球は好きだが、国際試合に興味がない僕はその結果もニュースで知った。そのことも妻に怪訝な目で見られることになったことは言うまでもない。

[10月-11月]

とうにオリンピックも閉会していた。妻の会社での研修期間も終了した。ほぼ放置という形だったようだが三ヶ月の自習を経て、妻は現場に派遣されることになった。

「明日から千葉まで行かなくてはいけないの」
「それは遠いね」
「調べると1時間半ぐらいでいけるわ」
そう言いながら妻はバッグに3台のパソコンを詰め込んでいた。
「持っていくパソコンも多いようだね」
「そうなのよ、自社用、現場用、会議用、と3種類のパソコンが必要なのよ」
僕は23歳からIT業界にいるけれど3台のパソコンが必要とする仕事は初めて見た。

「私は明日から初めて現場というものに行く。だからあなたに言っておかなくてはいけないことがあるの」
「それはなんだろう」

「仕事に専念するから、家事はできない、ということよ」

僕は首を捻った。今さら何をいうのだろうと思ったからだ。僕はその疑問を妻に伝えた。

「家事は前からやっていないじゃないか」
「なんて失礼なことを言うの」

妻は怒り始めた。去年から妻は家事を放棄し、自分探しに専念していた。それまでは僕が掃除を担当し、妻が料理を担当していたが、ここ一年は全て僕がやっていた。なぜ今更また家事をしない宣言をするのだろう。

「私は先週にトイレ掃除をした。それは家事じゃない、って言うのね!」
妻にわかるように話さねばならないと僕は気を遣いながら話し始めた。

「ねえ、いいかい。家事に終わりはないんだ。毎日部屋は汚れるし、毎日何かを食べる。トイレ掃除を一回やってくれることは有り難いけれど、家事はそれ以外にも多いんだ」
僕と妻に間に沈黙が流れた。実際のところ10秒ぐらいだったろうが、僕にはとても長く感じられた。

「ねえ、私が学生時代にイギリスに留学したことは知っているわよね?」
なぜ、急に留学の話が出てくるのだろうか。よくわからなかったが話を聞くことにした。
「それが何の関係があるんだろう?」
「イギリスでホームステイし、イギリスの文化に触れ、いろいろな勉強をしたわ。あなたは、毎日部屋が汚れる、と言ったわね」
僕はうなづいた。

「私がイギリスで一番勉強になったことはなんだと思う?」
わからない、と僕は言った。妻は少し間を空けてこう言った。

「床はゴミ箱ってことよ」

妻は宣言通り、毎日千葉まで3台のパソコンを持って通い始めた。帰宅時間も22時を過ぎることが多かった。妻はやつれた顔をして帰ってきた。
妻は食事にこだわりがあり、なるべくオーガニックなものを口にした。コンビニや外食をすることは極力避けていたので、遅い時間に帰宅してもコンビニ弁当を買ったり、外で食事を済ませることはなかった。

僕は妻の帰る時間に合わせて、簡単な食事を用意した。そうしないと夜22時から大掛かりな料理を始めて寝る時間が遅くなってしまうという理由もあった。

僕は妻が自分探しを始める前まで料理はしなかったが、妻の家事放棄宣言を受けてから料理を始めた。YouTubeでお手軽なレシピを見つけてその通り作った。
今まで見向きもしなかった料理酒やみりんといった調味料も使うようになった。レシピ通りに作れば美味しい料理が作れるということも僕にとっては新鮮で料理が少しずつ楽しみになっていった。

切れればいいと思っていた包丁も、わざわざお気に入りを探しに出かけたり、ル・クルーゼの鍋も買ったりして、どんどん料理が楽しくなっていった。
僕は自分の仕事が終わったら、二人分の料理を作り、先に自分の分を食べ、妻が帰宅時間に合わせてそれを温めた。なんだかんだ言って上手く生活は回っていたと思う。

[12月]

まるで世界中の冷蔵庫を開けてしまったように寒い日だった。2021年ももうすぐ終わってしまうし、そろそろ大掃除でもしよう、そんなことを考えていた。

「ねえ、私はフランス発のエンジニア養成である42 Tokyoをやってみようと思うの」

42 Tokyo?

突拍子もないことをいう妻にはもう慣れてしまっていて、新しいワードを聞いてもさほど反応しなくなっていた。

「それはなんだろう」
「無料で受けられるエンジニア養成プログラムなんだけど、とても難しいの。1週間で脱落する人も多くいる」
「それはやろうっていうんだね」
「強化ブートキャンプみたいなものだから集中してみようと思うの」

妻とこういう話をするといつも胸に自然な違和感を覚えてしまう。それを口にするといつも喧嘩になってしまうのだが、また僕は言ってしまった。

「君は毎日忙しく働いている。そんな強化ブートキャンプに取り組む予定はあるのかな」
「全人類等しいものは時間なの。その時間をどう使おうと私の自由であり裁量次第なのよ」
「そうかもしれない」
「42 Tokyoは完全リモートできる。いつもチャットが繋がっている。何か質問すれば誰かが見て何か返してくれる」
「そういう人たちが集まっているんだね」
「でも参加者は若い人が多い、これからIT業界に行こうとする人や学生がメインよ」
「それなのに今会社のプロジェクトに従事している君が参加するんだね」
「今はそうだけど、もうすぐそうじゃない」
妻は意味深にそう言った。

「今のプロジェクトは来年には離任することになった。戦力外通告よ」
「そうなんだね」
「だから何かを始めるのよ」
「それは悪くはないと思うけれど、君は今インフラエンジニアとして採用されて会社に勤めている。そうだね?」
そうよ、妻は言った。

「今少し調べてみたけど42 Tokyoはアプリ寄りのように見えるけれど」
「当たり前じゃない、私はセキュリティエンジニアになるんだから」

コロナ禍前、妻は日本を練り歩くボンオドラーであると同時に新舞踊の踊り手であった。何のコネクションもない地元の町内会に営業をかけて盆踊りの演出を提案し、それを実現させたこともあったし、定期的に新舞踊の舞台に出演していた。

その時は別の仕事をしていたが、着物を自然に着れるようになりたいという理由で夜に木曽路という高級すき焼き屋でアルバイトを始め、着物で接客していた。その後はアクセサリー作家活動を始め、自分の商品を売り、結婚式には自分のウェディングドレスも作るといって、材料を揃えていた(ちょうどタイミング悪く体調を崩してしまいウェディングドレスは結婚式に間に合わなかったけれど)。

コロナ禍前の妻の活動は、周りの人たちが妻よりも年配の人がほとんどだった。そこで妻はよく可愛がられた。だから僕は「妻は年上に可愛がられる素質があるんだ」と思った。

だけどコロナ禍になってからは逆のことをしている。
セキュリティエンジニアになると言い出して、自分よりも一回りも若い人たちの中に身を置き、一緒に勉強している。僕はWiFiやBluetoothの設定もままならない妻がセキュリティエンジニアに慣れるはずがないと決めつけていた(今もWiFiとBluetoothの設定は苦手だけれど)。

でも今は慣れるんだろうと思っている。

僕は2021年、お金持ちになるための本を読んだ。そこには知恵がなくても「金持ちになりたいという意思」が大事だと書いてあった。妻にはそれがある。もちろん道は順調じゃなけれど、去年の今頃から比べると確実に妻はステップアップしている。

妻が何か新しいことを始めるとき、僕はつい反対意見を言ってしまうが、結果としてそれは妻の原動力になっていたんじゃないかと思う。妻は筋金入りの天邪鬼であり、反対されると強烈なモチベーションが湧き上がるらしい。見返してやる、という気持ちだ。

だから僕はこのまま見守りたいと思う。来年の今頃はどうなっているのか。最後になるけれど、皆様の2021年が良い年であったと言えますように。そうではない人も2022年は良い一年になりますように。

                     『あなたの2Q21の物語』 <了>

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