トイレットペーパーが無くなるのよ

「トイレットペーパーが無くなるのよ」
 妻はひどく落ち込んでいた。実際に近所のドラッグストアにはトイレットペーパーもティッシュペーパーも売っていなかった。
「それはデマによって、一時的な買い占めが起こっただけだよ」
「そんなことは分かっているけど、また新しいデマに煽られてしまうかもしれない。実際、うちにもそれほどトイレットペーパーの備蓄はないのだから、次に入荷したときはある程度買った方がいいと思うの」
 この一カ月ほど、妻は新型肺炎に関する報道に敏感になっている。デマゴーグを信じない人が、デマゴーグによる煽動の結果を危惧して買い占め行動に走ることは容易に考えられる。その一端を妻に担わせるわけにはいかない。僕は冷静になるために妻に一つ提案をすることにした。
 
  ◆
 
「瞑想をしてみてはどうだろう」
 妻は首を傾げた。メイソウという言葉をうまく変換できなかったのかもしれない。
「国は迷走していると思うけれど、私は迷走したくないわ」
「いや、違う。仏教の瞑想のことだよ」
 妻は深いため息をついた。光の当たらない世界に住む深海魚のようなため息だった。深海魚がため息をつくのかどうかは知らない。だけどメタファーとしては悪くないはずだ。
「世界は今、危機的な状況にあるの。迅速な対応が必要なのに、なぜのんびり瞑想ができるの? それは思考停止よ」
「逆説的に言えば、迅速さを求めるあまり結果的に悪手になるよりも、ほんの少し対応が遅れても正しい対応をしたほうがいい。僕たちは幸い国家権力を行使する立場にないし、僕たちが誰かを指示するような立場にはない。そうだね?」
 一体何が言いたいのかしら、妻は訝しんでいる。
「君は今、不確かな情報の渦のなかで思考が蛇行している。いいね、落ち着いて冷静に状況を見極めよう。そのためには一度だけ瞑想をしてみないか。最初は2分で構わない」
「どうやったらいいのか分からないわ」
「イメージがつかなければ、目を閉じて深呼吸をするといいよ。4秒吸って、1秒止めて、8秒ではく。雑念は捨てて、無心でいることを意識しながら、深呼吸を繰り返すんだ」
「まあ、いいわ。2分ぐらいなら付き合ってあげるわ。それで何が変わるとも思えないけどね」
 妻は削りたての鉛筆のように口を尖らせていたが、言われた通りに瞑想を始めた。僕は2分間のタイマーをセットして、目を閉じた。
 
 ◆
 
「お疲れさま、どうだった?」
 無機質なアラームが部屋に響いた。
「最後の方に生きているのか死んでいるのか分からない感覚になったわ」
 僕は習慣的に瞑想をしているが、状態が良い時は同じような感覚になることがある。それだけ人間は常に頭のなかで何かを考えていて、何も考えない時間はないということだ。
「さよならを言うのは少しのあいだ死ぬことだ」
「それは何?」
「レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』という小説の一説だよ。死が永遠の別れなら、さよならを言うことは”相手の人生から”自分が少しのあいだ消えることなんだ。わかるかい?」
「わかると思う」
「瞑想も同じで、自分の思考が止まってしまうと自分が存在しないように思える。つまりそれは一度、自分の思考をリセットできると言うことなんだ」
「Windowsが再起動するように?」
 僕は頷いた。妻は自分が納得しているのかどうかさえ、分からないようだった。ひとことで言えば瞑想によるひと時の死は、分からないこともない感覚だけど普段使われていなくて、そんなものがあることを本人さえ気づかなかったような感覚を白日のもとに、まるで魚のはらわたを抜くように、ひっぱり出すことができたのだ。
「あなたの言うことは新手の詐欺師にように用心しなければならないけど、クールダウンするにはいいかもしれないわね」
「分かってもらえてよかった」
「とりあえず、今のトイレットペーパーの備蓄分を確認しましょう。いつまで持つのか、次に買うときは何個買えばいいのか。冷静に考えましょう」
 
 ◆
 
「君は少し前まで、『トイレットペーパーが無くなるかもしれなくて不安だ』と思っていた」
「そうよ、当たり前のことを言わないで」
 銃口から出る煙のように苛立ちを顕にした。
「それを客観視できていた?」
 妻は少し黙って、瞑想する前の記憶を辿っているようだった。
「考えていたかもしれないし、考えてなかったかもしれない。それは私自身のことだからもう誰も分からないわ。そんな無意味なことを聞かないで」
「いいかい、これは大事なことなんだ。」
 僕は間をおいて、諭すように妻に語りかけた。ハンカチ一枚を丁寧に洗濯してアイロンをかけるように時間をかけて説明する必要がある。
「『トイレットペーパーが無くなるかもしれなくて不安だ』と思っていることを自分が客観視できていれば、すぐにトイレットペッパーを買おうという気持ちにはならない。そうだね?」
「そうかもしれない」
「不安な感情に支配されると、感情で動いてしまう。でもその感情が自分の中で渦巻いていることに気づいたら?」
「それはそれとして、冷静に考えるかもしれないわね」
「それがマインドフルネスなんだよ」
「あなたの最近熱中しているマインドナントカね。あなたこそ、マインドナントカに感情が支配されているわ。少しは客観視でもしなさい」
 妻は興味のなさそうな顔をして、部屋から出て行った。窓からは暖かな日差しが注いでいて、新型肺炎によって世界が脅かされているようにはとても見えない世界が広がっていた。
「やれやれ」
 僕は少しだけ窓を開けて、外を眺めた後、トイレットペーパーとティッシュペーパーの在庫を確認しようと戸棚を開けた。一カ月ぐらいは持ちそうな気がした。部屋の中に柔らかい風が流れていた。

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