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【5月の終わりに100パーセントの筋肉に出会うことについて③】

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妻は細い腕でレバーを引いた。勢いよく水が流れた。
「流れるじゃない」
何も言わない僕をよそに、妻は用事があると告げ、簡単な身支度を整えて外出していった。部屋には僕だけが残された。
 
僕は混乱していた。夜の海にちっぽけな浮きが漂うように、どうしてよいか分からない闇に包まれた気分だった。
 
僕は筋肉の青年に連絡をとった。だが電話に出たのは受付を専門とする男の声だった。
「以前トイレ詰まりで対応してもらったのですが」
「住所を教えて頂けますか」
僕は住所と対応してもらった日を伝えた。また、当日はどういう対応をしたか簡単な報告書のようなものがほしいと言った。
受付の男は小声でぼそぼそと僕の言葉を復唱していた。メモを取るような音が聞こえた。
「では対応した者の名前はわかりますか」
 
名前?
その瞬間、僕は声を失った。彼は筋肉の青年であって、名前に興味はなかったし、それが必要だと思わなかった。
「名前はわからない」
少しの間、沈黙が流れた。
「名前は分からないのですね」
批判めいた言い方に聞こえたが、該当の時間の担当者を探すといって電話を切られた。
 
静寂が部屋を包んだ。なんとなくだが、筋肉の青年から、もう連絡はこない気がしている。
あの素晴らしい筋肉の青年は何者だったのか。
アリスを不思議の国へ誘った白ウサギのように、彼は筋肉の世界の使いかもしれない。
それなら、どうして彼はここへ来たのか。どうしてトイレは詰まらければならなかったのか。
 
ひどく腹が減っていた。冷蔵庫からハムとキュウリを取り出し、薄くバターを塗った食パンに挟んで食べた。まだ腹は満たされず、クラッカーにチーズを乗せて食べた。それは胃というよりも心の喪失を埋めるような食事だった。
 
食事を終えたとき、妻からメールが届いた。
「トイレが直ったなら、大家さんに断りを入れないとね」
 
きっと答えはトレーニングの先にある。すべては筋肉が足りないせいなのだ。
僕はもう一度レバーを引いた。勢いの良い水流が流れる。トイレはかつての輝きを完全に取り戻していた。
「やれやれ」
窓の向こうは初夏の太陽が輝いている。
 
(了)

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