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Journey Find Yourself 2020

BOOK1 [5月-7月]

「私はプログラマーになるわ」
 ゴールディンウィークが過ぎた頃、あれは昼下がりだったと思う。妻が私にそう言った。私は冷めたコーヒーを口をつけ、少し時間をおいた。窓の外では新型肺炎が流行っているとは思えないぐらい穏やかな風景が広がっていた。
 
「ねえ、それは君にとってどうしても必要なことなのかな」
 妻は黙って私を見ている。まるでブラジルから11年ぶりに帰ってきた困りもののおじさんの理不尽な頼みに呆れているような顔つきだった。
 
「そうよ、私にとってともて必要なことなの」
「君はIT業界未経験だし僕よりも年上だ。Bluetoothの設定も僕にやってもらっているから、君はITに向いていないと思っているんだ」
 妻は聞いているのかいないのか分からないが私は話を続けた。それはある種の使命感にも似た思いだった。
「今はコロナ禍で失業者で溢れている。小さな会社だけど、君はプランナーとして正社員として働いている。それでも仕事を辞めると言っているの?」
 当たり前じゃない、野党のくだらない質問に辟易する日本国首相のように妻はため息をついた。
「もう一度聞くけど君は今の仕事を辞めて、未経験のIT業界に飛び込もうとしている? そうだね?」
妻は大きく頷いた。
「やれやれ」
 
 ☞
 
 翌月、妻は宣言通りに仕事を辞めた。私は少し気になったので妻に尋ねた。
 
「ねえ、普通は退職する前は次の仕事の目処をつけているものではいのかな?」
「そうね、”普通”はそうかもしれないわね」
「でも君はしていない、そうだね?」
「これがニューノーマルじゃないかしら」
 
 その日から妻はプログラマーになるために独学で勉強をはじめた。私が最も伝えたいポイントは”独学”であることだ。気になった私は部屋にこもっている妻の様子を少し覗いた。誰かの喋り声が聞こえた。
 
無職の僕がプログラマーで2000万稼げた理由
社畜解放! プログラマーで自由に生きる
フリーランスのプログラマーで幸せに
 
 妻は熱心にノートパソコンでYouTubeを試聴している。私が入ってきたことも気づかずに。
 
「ねえ、それはなんなのかな」
 妻は鋭い目つきで私を観た。まるで肉食獣が獲物を捉えたように。
 
「プログラマーの勉強に決まっているでしょ」
「巷に溢れているYouTuberに見えるけど」
「まずはイメージを持つことが大事なの。そうでしょ、イメージもなしに仕事はできない」
「イメージ」
 私はオウムのように繰り返した。妻はYouTube動画の視聴を再開した。私の存在などないように。
 
 翌週になると大量の本を抱えて妻が帰宅した。
「ねえ、それは何なのかな」
「プログラマーになるための本よ。図書館で借りたきたの」
 分厚い本から薄い本まで、六冊の本が机に並べれられた。貸出可能な最大冊数を借りてきたようだ。
「そんなに読めるのかな」
「読むしかないじゃない。私はプログラマーになるんだから」
 
 ☞
 
 六月になり雨の日が続くようになった。気温も低く肌寒い。六月になると在宅勤務による体の影響が出始めた。私は腰と首がとても痛くなったので整骨院に行くと「症状的にはヘルニアですね」と言われた。施術と痛み止めを処方してもらうと幾分楽になった。一週間に一回は整骨院に通うことになるだろう。なるべく首と腰に負担をかけないように在宅勤務環境を改善し、机や椅子、モニターを調達した。妻が無職のため、この出費は家計に応えるが体を壊しては仕方がない。

 妻はプログラマーになると宣言してからずっと部屋に篭っている。YouTube動画と図書館の本で勉強をしている。私はすぐに飽きるだろうと思って、妻を放置していたが一向に変わる様子はない。私は妻の部屋(正確には私の仕事部屋だったのだが)を尋ねた。妻は本を読みながら一人で喋っていた。
 
「Hiroki likes watching baseball games」
「ねえ、何をしているのかな」
「英語の勉強よ」
 
 私はひどく混乱した。妻はプログラマーになるために勉強していたはずだ。どうして英語の勉強をしているのだろう。
「どうして英語なのかな」
「プログラムが日本語で書かれていると思うの?」
 妻は呆れたといったふうに言った。
「プログラムはすべて英語で書かれているの。そして私は残念ながら英語ができない」
「君は英語ができない」
「だからプログラムを書くためには言語の勉強をしなければならない。だから英語の勉強をしているの。当たり前のことよ」
 そう言って妻は英語の勉強を再開した。
「やれやれ」
 
 ☞

BOOK2 [8月-9月]

 じめじめとした雨が続いた七月が終わったと同時に、灼熱の太陽が街を照らした。まるで時の政権に天候が操作されていると言われてもおかしくない変貌だった。
 去年であれば妻は仕事が終わるとすぐに浴衣に着替え、盆踊り大会に出かける時期だ。一つの盆踊り大会では満足できずに、一日に三件の会場を”はしご”したこともある。だが今年はコロナ禍の影響で盆踊り大会は中止となっている。妻は一歩も外に出ず部屋に篭っている。私は心配になり、妻に尋ねた。
 
「ねえ、少しは外に出たらいいんじゃないのかな」
「いやよ暑いわ」
「毎年浴衣に着替えて外を歩き回っていたじゃないか」
 妻は呆れたように大きなため息をゆっくりと時間をかけた吐き出した。冬眠した熊が長い眠りから目を覚まして動きだすような時間だった。
「いい、世界は変わったの。たった一つのウィルスによって」
「世界は変わった」
 妻の右目はネズミを狙う猛禽類のように鋭く、左目は今にも獲物を狩るジャガーのように研ぎ澄まされている。
 
「私は今まで明日世界が滅びるかもしれない覚悟で生きてきたの。今までずっとよ。あなたはそれに呆れていたけど、今まさに世界は大きく変わろうとしている。私の考えは間違っていなかったの。同じことをしていてはいけないの」
「そうかもしれない」
 私は独り言のように呟いた。
「いいかい? 君が何を思って何を考えるのも自由だ。でも目の前には片付けなくてはならない問題がある。例えば君が無職になったのでその分の収入がなくなった。そうだね」
 妻は頷いた。何かを考えているようだった。
「以前住んでいた所沢と違って、台東区のこのマンションの家賃は少し高いと思ってる。二人で共働きすることで家賃を払えるから、通勤の時間を短縮して都内に引っ越したんだ。そうだね?」
私は自分の口調に熱が帯び始めていることを感じた。聞いているのかいないのか、妻は虚空を眺めている。
「食費もかかるし、君の保険料や年金も払わないといけない。確実に貯金は少しずつだけと切り崩している」
「あなたが言いたのは目先の生活費の話ね。それなら心配いらないわ」
「心配いらない」
 私はオウムのように繰り返した。私は何度もオウムになる。
「じきに私はプログラマーになり、すぐに稼ぐようになるわ。そうすれば今の生活費の問題なんて笑い話になる」
「ねえ、いいかい。プログラマーなんてすぐに慣れるものじゃないし、向き不向きがある。申し訳ないけれど正直言って僕は君がプログラマーに向いているとは思えないんだ」
 まるで愚問だというふうに首を横に振った。
 
 ☞
 
 九月になると気温は一気に下がって秋の空になった。七月、八月、九月と一ヶ月単位で急に気温が変わる。やはり時の政権に気候までコントロールされているのかもしれにない。
「ねえ、私はガンダムが観たいの」
 妻が私に挑戦的な眼を向けた。私はその眼光の鋭さに戸惑いを隠せずに狼狽していると妻は続けた。
「あなたがガンダムを観たことがあるのは知っているの。だから観たいの」
「どうして急に観たくなったんだろう?」
 私は至極真っ当な質問を投げかけた。それによって妻の機嫌を損ねることになるなど誰も想像できなかっただろう。
「あなたは私が何を目指して毎日を必死に過ごしているか知っているの?」
 口の中が乾いた。思うように言葉が出てこない。
「たしかプログラマーじゃなかったかな」
「そうよ」
「プログラミングの勉強をしていて、言語を読むために英語も勉強している認識でいる」
「そうよ、分かっているじゃない」
 私は頭が真っ白になり、次に紡ぐべき言葉が思いつかなかった。ガンダムがなぜ関係するのだろう。
 
「私はプログラミングの勉強をしている。関係する本を読んでいる。そしたらプログラマーは皆ガンダムを観ているの。だから私もガンダムを観なければならないの」
 
 私は絶句した。プログラミングのために英語を勉強することは1万歩譲って受け入れたとしてもガンダムを観ることがプログラマーの道とはとても思えなかったからだ。
「それは正気だろうか」
「正気よ、読む本の要所要所にガンダムが出てくるの。そこの内容が分からないの。だからガンダムを観なければならないのよ」
「ねえ、知ってるかい。ガンダムってシリーズがたくさんあって、とても長いし、映画もある。一体どこから手をつけるんだい?」
 妻は大きくため息をついた。
「だからあなたに聞いているのよ。私にどのガンダムを観るべきか見繕って教えてちょうだい」
 一体私が何をしたというのだろう。なぜこのような責め苦を味わっているのだろうか。それは私の前世まで遡ってでもみないと見当がつかない。
 
「ちなみにガンダムはどれぐらい知っているのかな?」
「アムロ、シャア、ガンダムは聞いたことがあるわ」
「それぞれどんなキャラが知っているのかい?」
「アムロは青二才で、ガンダムはロボットよ」
「シャアは?」
「シャアは青い顔した悪いやつよ」
「青い顔?」
 
 私は脳に保存されてる記憶をスーパーコンピュータのようなスピードで検索しながら処理をした。シャアは赤い彗星と言われていて赤がイメージカラーだ。なのにどうして青がでてくるのだろう。妻は何も疑うことなくシャアは青い顔の悪いやつだと言っている。妻の尊厳を損なうことなく指摘しなければにならない。私は必死で考えた。
 
「それは…、宇宙戦艦ヤマトのデスラーじゃないかな」
「ヤマトとガンダムは違うのかしら」
「違うんじゃないかな」
 
 沈黙が流れた。それは永遠にも似た長い長い時間だった。
「そう、とにかくガンダムが観たいの。シャアが出てくるやつを観せてね」
 その日から私たちはアマゾンプライムビデオで『機動戦士ガンダム』を一話ずつ観ることになった。
 
 ☞

BOOK3 [10月-12月]

 十月になると妻はハローワークへ足を運ぶようになっていた。どうやら職業訓練校の説明会に出かけているようだ。Javaのコースなどいろいろあるようだが人数に限りがあるようで、希望した全員が受講できるわけではない。
 世帯年収の低い順に受講生が決まっていくので、妻は「自分は受講生の枠から外れることが濃厚だ」と言った。とはいえ希望するコースがないだけで、選ばなければ受講できるものはあるので、その中から選んでくれればと私は思っていた。
「どっちがいいと思う?」
 妻は二つのパンフレットを私に向かって差し出した。二種のパンフレットにはジーズアカデミーとセキュ塾と書かれていた。
「これは何かな」
「私が受けたいスクールのパンフレットよ」
「これは無料で受講できるのかい?」
「無料じゃないわ」
「職業訓練校じゃないのかい?」
「レベルが低い学校に行っても仕方ないし、そもそも感染対策もなってない。満員電車のようにぎゅうぎゅう詰めの教師で授業するの。当然オンライン授業はないそうよ」
「公的な施設だとそうなのかもしれないね。でもこれは何?」
「これは無料じゃないけど政府の支援を受けているの。入学金は払うけど卒業して、一定条件を満たせば七割は戻ってくるの」
「つまり入学金がいるってこと?」
「そうよ」
「いくらかかるのかな」
 
「入学金は88万よ」
 私は絶句した。私は妻に入学金を請求されているのだ。
「いいかい? 君は五月に無職なり、それ以来うちの収入は減っているんだ。節約すればなんとかなるが、貯金もできない。新型肺炎騒動で飲み会などの出費は減ったけど、二人分の生活費でマイナスになっているんだ」
 妻は大きなため息をついた。何度この問答を繰り返してきたかはわからない。
「私はついに見つけたの。自分が勉強したいものを。私はこのスクールを受講してセキュリティエンジニアになりたいの」
 私は頭が真っ白になった。セキュリティエンジニア? 妻は五月からプログラマーを目指していたのではなかったのだろうか。確かに英語の勉強やガンダムを観ていて、例えばJavaやRubyのような勉強をしていた様子は見たことがない。とはいえどうしてセキュリティエンジニアを目指しているのだろうか。
 
「ねえ、君はプログラマーを目指していたのではなかったのかな」
 妻は少し間をおいた。何を考えているようだった。
「いい? 世界はIT化なくして前には進めない。それはわかる?」
「わかると思う」
 私は答えた。
「世界のシステムは常にハッキングの脅威に晒されている。私たちの個人情報もダークWeb上に公開されているかもしれないの」
「そうかもしれない」
「だったらもう分かったじゃない。私はそれらからシステムを守りたいの。私はホワイトハッカーなるの」
「そのために88万円が必要。そうだね?」
 妻は大きく頷いた。妻に何もいうことはない。妻は定期的に自分探しの旅に出かける冒険家なのだ。海外旅行が趣味の人はコロナ禍になり旅に出かけれないという。でも妻にはそれは関係がないのだ。世界が未知のウィルスの脅威に晒されていようと、妻は自分探しの冒険に出ると決めたのだ。その熱意を止められる人はいないのだ。
 
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 十二月も半ばとなり、もうすぐ世間はクリスマスを迎え、そのあとは2020年も終わりを告げる。それぞれの人がそれぞれの2020年を過ごしたと思う。私はとても刺激的な一年を過ごしたと思っている。コロナ禍で職を失う人も増えているし、健康面に問題が出ている人もいる。今ある仕事を大事にして家族の時間を増やそうという風潮もある。
 
 だが妻は自分探しの冒険に出かけた。私はそれを見守ろうと思う。
 妻は無職になり勉強に専念しているため、家事はできないという。私は家事をして生活費を稼ぎ、妻の冒険を見守っている。もうその生活にも慣れてしまった。私は私で好きなことをしている。それで構わない。これが世界の転換期であり、ニューノーマルなのだ。
 世の中のインフルエンサーたちは無料の動画を作って、こう呼びかける。
「いくつになっても挑戦できる」
 それは一面的には真実なのだろう。ただその裏にはその挑戦に振り回される人もいて、その人の理解も必要だ。「いくつになっても挑戦できる」は簡単はことではないのだ。だが私は妻を見守ることに決めた。いつか妻がセキュリティエンジニアになって未知のウィルスから世界を守ってくれる、そんなニューノーマルが訪れることを信じて。
  
<Journey Find Yourself 2020 終わり>
 

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