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#1 「自分の話」って難しくない?

私はどうも昔から、「自分の話」が苦手だ。
聞くのは好きだ。友達に「聞き上手だよね」ってお世辞を間に受けてデュフデュフしていた黒歴史もセットでついてくる。
ただ、よく考えてみると、聞き手に回ることが多いのは「自分が話さなくていいから」という非常に自己中心的な思考に基づくものであることが多い。

「自分の話」がとにかく下手くそ


近況の出来事、考えたこと、最近読んだ本から学んだこと、悩み、将来の話、とにかくジャンルを問わず「自分の話」が苦手なのだ。

「自分でそう思い込んでいるだけじゃない?」

そうであってほしいが、これまでの経験則によると本当に下手くそなのだ。

直近の出来事でいえば、幼馴染と久々に会えるということ「いっぱいおしゃべりしたいよね〜」なんて理由でファミレスに行くことになったのだが、とにかく会話が進まなかったのだ。

幼馴染は友達が多く話上手なので、相手の問題ではないようだった。

幼馴染の近況を聞いたり、他の友達の話を聞いたり、そう聞いたりしている時間は楽しかった。

問題はここからだ。

思い出せる会話を書き出してみる(幼馴染:A)

A「えび天は最近何してるの?」
私「う〜ん、本読んだりYouTube見たりカフェ巡ったりかな〜」
A「本好きだよね。どんな本読んでるの?」
私「えーっと、最近は大河ドラマの影響で源氏物語読んでて、うん、あー、面白いよ。」【終】

A「最近体調どんな?元気?」
私「うん、病気(躁鬱)も落ち着いた。どんなときに体調の変化が起こるかも分かってきた。」
A「へ〜どんな時?」
私「え、えっとーーーーーー、なんだろ、難しいな、うまく説明できないなーー(笑)」【終】

…笑ってんじゃねえよ。

自分でもびっくりした。私ってこんなに話ができなかったっけ?

こうやって振り返ってみると「自分の話」が苦手、というよりそもそも「話」自体が苦手なのではないかという疑問が湧いてきた。

根本を考えてみる

「私の話なんて興味ないだろう」という呪縛

考えてみれば、私は家族や友人・恋人に無条件に人として愛されて求められた経験があまりない。だからなのか相手の求めているものを察して、自分から相手に合わせに行くのが通常のコミュニケーションだった。

人の顔色ばかり伺って話を聞いて育ったからか、「私の話をしても興味ないだろう」「否定されるかも」ということから思い思いに自分の話をしてこなかった。そういう経緯から、いざ私が話さないといけないとなると「えっ!!何をどうやって話せばいいの!?」となって空回っていたのだろう。

面白く話したいというエゴ

「女の話は感情的でオチがなくて退屈だ」なんて戯言をいう輩がいる。
自分が論理的であると自負している人やオチを毎度求める人、「おもんないわ〜〜〜」とか抜かしてきた人、このあたりへの鬱屈はまた書くとして。

また私は芸人のラジオが好きなこともあり、「面白くない話をすること=悪」のような価値観が醸成されてしまっている。

だからこそ、「面白くしなきゃ!!」と思って頭の中で構成しながら話をするのだが、そもそも話法の基本すらできていない人間が頭をこねくり回したところで、空中分解が起こるだけなのだ。とっ散らかるのだ。
そうして悪循環が生まれるのは察していただけるだろう。

そもそも話したいことがない

最近会った面白いこととか、共感してほしいこととか、そもそもない。

正確には、自分的には面白い!と思うことはあっても自己完結することが多く、人に共有したい共感されたい等の欲求がない。Twitter(X)の下書きだけがひたすら溜まっていく超内向型である。

友達と話す時も、話したいことがなさすぎて自分みたいなキャラクターが抱えていそうなそれっぽい悩みをでっち上げしまい、結果別にそんなに悩んでいないので着地点がわからず変な空気になってしまうことがある。

流れを大事にするあまり勢いで嘘ついちゃう

好きだけどもう関わることないかもな〜という人とか初対面の人とかに自分の身の上や思想について聞かれた時、「これ闇深い話になっちゃうかも」「説明いっぱいしないといけなくて向こうも面倒かも」なんて考えちゃって、当たり障りのない嘘をついて思いの外盛り上がって深掘りされた時死ぬのが定期。もうやめてくれ。

自分に対する解像度、実は高くない

先述したが私は非常に内向的で、自分の感情や哲学的なことを考えるのは大好きだ。
ただ、最近気づいたんだけど、考えるって言っても私がしていることは特段論理的でもなく、ただ頭に浮かんだことをひたすらメモして書き起こしているだけみたいだ。

つまり、自分ってどういう人間なのかを常に考えているにしては解像度が低すぎる。日頃の言語化・構造化に対する怠慢が起こしている自業自得の結果なのだ。

会話はキャッチボールであって、的当てじゃない。

信頼のおける友人にやってしまいがちなこと。
ひたすら感情や悩み、思考回路をぶつけてしまう。相手に話しているようで、自分と対話をしているので、相手に入る余地を与えていないのだ。

藤井青銅さんの「トークの教室」にこのような文章があった。
(文脈とは違った切り取り方をしている点にはご了承ください)

ラジオなのにトークが一方通行にならないのは、聞いている人が「ふんふん、それで?」とか「わかる、わかる」「え!ホントに?」などの反応をする隙間があるから。それを織り込みながら喋っているのです。

トークの教室 / 藤井青銅 p80

そういう隙間というか余白を意識せず、ただただ自分が言いたい内容を一方的に喋ると、聞いている方はついていけなくなるのです。

トークの教室 / 藤井青銅 p81

本当に、クリティカルヒットでした。
もうやめて!えび天のライフはもうゼロよ!!

結局、なんなの?

こうやって書き連ねてみると、メンタリティ・話す内容・話す方法の3つの観点で問題を抱えていることがなんとなく分かった。
自分の問題を直視するとあまりに心が痛い。もう寝てやろうかな。

とはいえ私は話をしたいし、音声会話を通じて他者と心を通わせたい。
この思いはずっとある。

思いの外長くなってしまったので、「どうしていけばいいんだろう」というのはまた考えようと思う。

ひとまずここらで、🫡













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