吐き出し
なんとなく、自分も普通の家庭に憧れてたんだなと改めて感じた。
これまで頑なな態度をとってきたが、できることならば、形式的ではない一家団欒というものを経験したかったのだろうか。
和解のチャンスはこれまできっと沢山あった。それでもこの態度を崩さなかったのは、過去への怒りと、苦しんだ自分を肯定するためだったのだろう。
思っていること、心の奥底にある言葉を誰かに面と向かって言おうとすると決まって涙が出るのは昔からそうだった。
他者からは泣けばいいと思われるのが嫌で、他者から見れば”その程度”で泣くのを笑われるのが嫌で、しまいには自分の本心を誰かに言うことはなくなった。
そもそも、自分の言葉をしっかり受け止めてくれる人間が周りにいなかったことも、余計に私の沈黙を助長させた。
未だに本心を話そうとすると涙が出るのか、自分でもよくわかっていない?
幸せになりたかった?愛されたかった?
それらは既に友人やパートナー、これまで出会った他者から沢山貰ってきたからもう十分なはずだ。
1番近くの人間に認められたかったのかもしれない。近しい人間に、1番に肯定されたかったのかもしれない。
そうだ。たぶんこれだろう。
かなり腑に落ちた。その証拠に、今文章を書いている私の目からは水が落ちている。
記憶する限り私は常に身内の人間から否定的な言葉を投げられ続けてきた。褒める言葉よりも、私の好きなもの、人、人格を否定される言葉の方が圧倒的に多い。
ネガティブな印象の方が強く残ると聞くから、もしかしたらその効果かもしれないが。
それに加え、都合や機嫌の良い時だけ、こちらへすり寄る態度を幾度となく見せてきた親だったため、信頼関係など築けるはずもなかった。
結局全ては私が悪いのだろう。
どうして産んだのだろうか。
1人目の時点でデキ婚出会ったとわかっていたならば。
人を育てる苦労は1人目で分かるはずだろう?
血が繋がっているから、なんだかんだここまで育ててくれたのだから、と周りは言う。
だからなんだ?
生き延びたとて、精神が健全でなければそれはやがて体をも蝕むのだ。
私は体も心も虐げられてきたというのに、気丈に振る舞う表面だけで、大丈夫じゃない、何が辛いの?と言えるその精神と想像力の乏しさには常に甚だ疑問を覚える。
第三者だから、自分の人生と比較ができるからそのようなことが言えるのだろう。
仮に生まれた瞬間から私と全く同じ環境で同じように育てられ、同じような人生におけるイベントを体験すれば、外野でとやかく言っていた連中も何が辛いの?なんて言葉は発せられないだろう。
自分の人生という比較対象があることによって相手の辛さや痛みを程度を測れる、と思い込んでいる。
物差しや常識、経験は人それぞれであり、それぞれに異なることを感じている。
関わる全ての人間にする必要は無いにしろ、近しい人間から発せられる言葉の背景はある程度汲み取り意図を吟味しながら会話をする必要があると思う。
しかし、この考えは大学で人間に関わり深い分野を学んだ結果知り得たものだから、彼らには到底理解されない、概念すらないのかもしれないが。
年々思考のひねくれ度合いが上がっている気がする。そろそろ考え方の一新を図らねば。
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