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ボルト男と珈琲

ありとあらゆる場面を、コーヒーと共有してきた。今もしみじみ美味しいコーヒーが手元にある。少しもありふれていない、非日常のひとときで飲んだコーヒーの事を思い出したので残しておく。

10年程前、少し変わった同居生活をしていた。今でこそ、シェアハウスなどおしゃれな暮らし方があるけれど、当時のそれは、リアルが充実している人間のライフスタイルとは到底言い難い。生活環境はもとより、登場人物が多いうえどれも胸焼けするくらい濃厚なキャラクターのオンパレードで、なにかしら些細な事件が日々持ち込まれるので、傍観者すら疲労困憊する。その生活に飛び込んだ以上は、やけくそでもひたすら面白がるしかなかった。文章にまとめたいと思いつつも、拙い表現力では手の付けようがなく、ちっとも書き進まない。

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終電間際で帰宅したら、その夜は皆出払っていた。疲れて1人になりたいタイミングと、全員が家をあけるタイミングが重なることは稀で、久しぶりのひとりの時間に内心狂喜した。生活リズムが異なる複数の人間と暮らすのは、どれだけ仲がよくても気を遣うものだ。

ゆっくりと時間をかけて疲れを流し、バスルームのドアを開けたら、電気の消えたリビングに知らない男が座っていた。チェーンはかけない常だが、鍵はかけたはずだった。いつからいたのだろう。誰だ。そして何故電気を付けない。あまりに驚くと、かえって冷静になるものだと体感しつつ、タオルを巻いたまま男を見つめ、向こうの出方を待った。

「初めまして、今日から住んでます」と男は言った。
初耳だ。そんな初めましても初めてだ。

「初めまして。コーヒー飲みますか?」
私がタオル姿で返した言葉はそれだった。

聞けば、同居人のひとりの紹介で、手術を控えており、足首のボルトを抜くまでここに住むという。言ってよ、とそこにいない同居人に対して思ったが、彼の連絡先を知らなかった。
着替えを済ませ、ボルト男と自分、2人分のコーヒーを淹れた。珈琲専門店でバイトを始め、コーヒーが好きになり始めた頃だった。深夜、よく知らないそのボルト男とコーヒーを飲みながら明け方までお互いの話をした。
それから3日後、私は引越した。その部屋で暮らして8か月が経っていた。

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順応性が高いというか、ばか素直というか。
それ以降、珈琲店で6年働き、いまもコーヒー販売に関わっている。
当時一緒に生活したひとたちは誰も、もうつながってはいない。
かわるもの、かわらないもの。


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