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【2021.2月の備忘録】日々は面倒くさい

冬うつという言葉を思い出す2月。冬場に気分がふさぎがちになるのは、短い日照時間に関連があるらしい。数か月も続いている寒さにいいかげん飽きてくるこの時期。なんとなくただ耐え忍ぶだけの消化試合のようなこの月と、未だなかなか仲良くなれないままでいる。

日照時間云々でいえば、東京の冬は相当ましなはずである。雪国である地元では3ヶ月以上、まともにお日様が出ないことも多い。東京に暮らしていれば冬でもたいてい晴れてるし、スニーカーで歩けるし、洗濯物も外に干せる。

なにはともあれ、とにかくすべてが面倒くさいと感じていた。面倒くさいという言葉をあまり使いたくないけれどそれしかいいようがない。朝起きるのも、ごはんをつくるのも、仕事に行くのも、お風呂に入るのも、髪を乾かすのも、食器を洗うのも、洗濯して干すのもたたむのも、掃除をするのも、お金を支払うのも、連絡を返すのもただただ面倒くさい。人に会うのが面倒なのは季節問わずデフォルトで、コロナのおかげでその機会が減っているのはありがたいのだけど、それがないのに日々の営みすべてが面倒で大変で億劫で仕方なかった。
大量に育てている植物も、冬場はほとんど世話がいらないとはいえ、水を2週間以上やらずにいて萎れさせたり、あわてて水をやったり、枯らしてしまったりした。

好きでやっているはずのことが好きだとは一切思えず、何をやりたいかもわからず、仕事を始めれば逃避で眠気に襲われ、ただ眠りに逃げることが多かった。

面倒くさい暮らしの中で気づいたことは、すべてが結局面倒くさいということだった。面倒だと感じる深みは違えど、ぜんぶ面倒ごとであることにかわりはなかった。今までもそうだったしこれからもそうなのだ。何をやるにも自分が手や足や頭を動かさなければ何も変わらない。ただ動いていれば1つずつ終わる。そのくりかえしで日常が出来ているのだということ。ものすごい幸せや喜びはおまけみたいなもので、ささやかな幸せのほうがずっと身近で多くて、しかも自分でいくらでもつくれて感じられるものだということ。

すごい念力や洗脳で思考をねじまげるのはちょっと違うと思うけれど、面倒くさいと思うことは当たり前で、罪悪感を覚える必要はないと思うようになった。どうせなにやっても面倒くさいのだ。面倒くさいと思うことが多くても幸せはつづく。

3月になり、1周回ってややメンタルが回復したので、そろそろ春も近いなと感じている。

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