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映画「箱男」について~見ているだけが幸せ

安部公房生誕100周年らしい。
小説「箱男」が出版されたのは、1973年(昭和48年)。
新潮社の「純文学書下ろし特別作品」だった。
この新潮社の書下ろしシリーズは、毎回箱入りの本になっている。

箱入りの本のタイトルが「箱男」
箱から出して、小説「箱男」が始まるのは、ちょっとおもしろい。
昨年、たまたま再読していた。
SNSのなかの匿名性と傍観者、そして一方的な発言の現在のことを考えていた。
そんな世の中をインターネットすらない出版当時に、安部公房は予言していたような内容におどろいた。

映画「箱男」は、そのSNSや匿名性ということを観客に直接的にうったえてくる。

ダンボールの除き窓の縦横の比率は、映画のスクリーンの比率と近くて、アップになったとき、スクリーンいっぱいに箱男の目になる。
その目を見ている観客は、見られている感覚にもなる。
映画の最後は、スクリーンの中の箱男が、映画館で見ている観客にうったえるシーンになる。
そのシーンを映画館で見ている私たち観客という不思議な構造。
これは映画館でなければ味わえない感覚だった。

一方的に見ているだけが幸せなのだ。
その方が楽でいい。
無責任に見ているだけ。
で、思ったことをコメントするだけ。
いいことも、悪いことも。
で、同じようなことをしている人から、指摘される。
なんか気まずい感じにもなるし、恥ずかしくもなる。
自分はあいつとは違う、と思ったりもする。
つまりは自分が箱男であることは、まわりには気づかれたくない。

映画の中で、箱男はニセ医者の箱男と戦う。
意外にも激しく戦う。
中腰で戦いし、思ったより早く走るし、階段から落ちたりもする。
それがどこか着ぐるみのようでもあって、かわいくも見える。
しかし、箱の中は見たい願望の強い男で、その妄想をノートに書き残し、書きなぐっているいる。
カメラマンであることも、そもそも見る側の人間なのである。

この映画の中でキーになってくる葉子の存在。
箱男は、この葉子に誘惑されて、窓から病院の中を覗き込むシーンがある。
この辺りで、観客の多くは(特に男性は)、この葉子に誘惑されていたはずだ。
つまりは箱男だったのだ。


葉子は病院の看護師なのだが、その制服の白色がきらきらしている。
病院の看板は掲げてなく、サビれた廃墟感もあり、幻想的でもあった。

映画「箱男」は、映画でしかできない表現をしているし、小説「箱男」は小説でしかできない表現をしている。
この小説は、箱男が書き残した体裁をとっている。
途中に写真を挟んだり、書きかけの文字のままだったり、実験小説でもある。

以前にも映画化が進んでいたが、撮影に入る直前に頓挫したらしい。
生誕100周年のタイミングで公開されたが、このタイミングで自分ごととして見る作品だと思う。

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