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理不尽とは、斜め上から向かい合う


乱暴に切られた電話に呆然としてしまう。
相手の話し始めから予感はしていた。怒りのこもった声色というのは、はじめの定型文を言い合う段階から、どうしたって察してしまう。


同僚が心配そうにこちらの様子をうかがう。平然とした顔を作る。今こんな電話がありましたと報告する言葉は口からぽろぽろこぼれ落ちるのに、心が停止している。身体と心がちぐはぐな状況を客観的に眺めながら、あぁこれは引きずるやつだ、と奥歯を噛む。


ほどいてみれば話は単純で、先方とこちらの担当者間で些細な行き違いが発生していたことが原因だった。先方はそれを知らない状態で、電話口の私に苛立ちながら不満を投げた。これまた行き違いを知らない私が一般的な回答をしたことで、先方がさらにおかんむり。怒鳴られたとかではないけれど、明らかに怒りを込めて投げつけられる言葉は、ぷつりぷつりと心を刺した。もうこうなったら逃げ場はない。どんなに丁寧に説明を尽くしたって、それは相手にとってさらなる燃料にしかならない。



つまりはもらい事故みたいなもの。避けようがなかった。最終的には、ミスに気づいた同僚が私にも先方にも平謝りしてくれて、全員の誤解は解けた。それで全て終わり。それなのに。



この救われなさは何だろう。この後味の悪さ。刺さった言葉が抜けないのだ。全てが終わったことは分かっている。悪意は私個人に向けられたのでなく、事象に向けられたということも。それなのに、なぜ。なぜ割り切れない気持ちに身体が傾いてしまうのだろう。

顔の見えない相手に、なぜあんなに嫌な言い方ができるのか。確かに同僚の手違いで相手に困惑させてしまったことは事実だ。応対したタイミングで気付けなくて申し訳ない。それでも、尋ねられたことに対しては真摯に回答したつもりだった。それでもなお怒りを抑えられないほどの出来事だったのかと考えると、そうは思えない。事態を飲み込めない中でも平謝りさえしていれば、相手は満足気に、静かに受話器を置いただろうか。


一般論として、理不尽にさらされたとき「この人はきっと私生活でストレスが溜まっているんだ」と思うことでその場を乗り切るという方法がある。なんとか気を紛らわせようと、その言葉を呪文のように心で唱えてみる。でも、何も救われなかった。相手を下げることで自分の心を保つのは、結局後味の悪さを残すだけだった。



くすぶる気持ちを消化できず、自宅まで持ち帰ってしまった。湯船で深く息を吸う。ふと、以前に書き留めた小説のフレーズが浮かんだ。

だって、悪意とかそういうのは、人に教えられるものじゃない。巻き込まれて、どうしようもなく悟るものじゃない。教えてもらえなかったって思うこと自体がナンセンスだよ。

傲慢と善良



あの日とは違う深さで、今日の私に言葉が沁み入る。確かに理不尽には自ら突っ込んではいかないし、人から教えてはもらえない。経験値は1レベル上がった気がする。そう思ったら頭がすっきり片付いた。きっと同じようなことが次に起これば多少は受け身を取ることができ、リカバリーだって早いだろう。


斜め上から、しかも自分本位で理不尽と向かい合うのは、人生のコツかもしれない。大切にしまってあった言葉のストックを、初めて活用できた気がした。


チャリラリラーン、とふざけた電子音を頭の中で鳴らしてみる。どうやら私はレベルアップしたらしい。自分の心を健やかに保つために、そういうことにしておく。

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