「祝福」のはなし②
こんにちは。とおあまりみつです。
先週はどうもこの夏の疲れなどが吹き出しまくったのか体調が悪かったのでほげーっとしてしまいました(苦笑)
酷暑や異常気象に加えてすっかり秋めいて朝晩は肌寒さも感じるようになって来たので調子がイマイチの方をたくさん見ます。
気を付けましょうね〜(泣)
で、今回は「祝福」のはなしの続きをしますね。
因みに前回の記事はコチラ。
もっと小さく表示されてほしいものです←
前回のおわりに書いたように、日本にも「祝福」に相当する理念がありました。
それを「マレビト信仰」といいます。
漢字では稀人、もしくは客人と書きます。
一応Wikipediaのリンク貼っておきますが、民俗学とか興味ない人は目が滑ると思います。私も目が滑ります←
ざっくりいうと、自分達が身を置く共同体の外部からやって来た人を歓迎しもてなす、という感じです。
昔の日本は今と違って交通の便が悪いどころのはなしではなく、インターネットどころかテレビも電話もないので外界との接触は極めて稀でした。
限られた土地の共同体の中では、当然限られた資源で生きることになるので、そこに属する人々の文化はどうしても滞ってしまいます。
これはもうそこに生まれた限りどうしようもないことです。
そこに訪れる旅人や行商人、旅芸人などは、その土地にいただけでは得られなかった知識や技術、物資、果ては(血が濃くならないための)遺伝子を運んで来てくれる貴重な存在だったのです。
だからこそ手厚くもてなし、物々交換や文化交流をしていたわけです。
お正月によく見る宝船もマレビト信仰と同様のものです。
福の神さまたちが宝船に乗って一方的に福をもたらしてくれるのではなく、宝船を呼び込むにはそれ相応のもてなしが必要なのです。
かさじぞうのはなしでも、売れ残りだろうと使い古しであろうと、笠とてぬぐいはおじいさんにとってのなけなしの財産でした。
にもかかわらずそれをお地蔵さんに施したからこそ、お地蔵さんはたくさんのお礼をしてくれたのです。
人と人との関わりは、まずこの理念ありきなのですが、現在これがすっかり抜け落ちてしまっている人がたくさんいます。
本来等価交換でなくてはならないところを私欲で買い叩くような人たちによってバランスが崩されているのが今です。
でももうそろそろそんな時代も幕を閉じるんじゃないかなーと思っています。なんとなく。
新しい時代の幕開けに取り残されぬよう、
祝福の心を忘れずに。
本日の音楽 ユニコーン 「車も電話もないけれど」
ではまた。
オレはいくらでも受け止める懐のでかい漢だ。