見出し画像

死後の世界ってなんのためにあるの?──仏教思想が持つ効力を検討しよう


1.死は生者に何をもたらすか?

信仰を失った現代日本において最も宗教が役に立っているのは、おそらく人が亡くなったときである。ブッダは一切皆苦、すなわちこの世のありとあらゆる全ての出来事は苦しみであるという思想を説いた。その暗闇に満ちた世界にあって、心から愛せる人に出会うという経験がどれほど得難く奇跡的なことか? 一切皆苦、四苦八苦、仏教の考え方では現世はひたすら苦しみ、苦しみ、苦しみ……それしかないというのに、私たちはときに他人の中に光を見い出す。人を愛おしく思い、相手にも同様に愛される喜び、こういう経験なしには幸福を感じることさえ難しいのが私たちの人間界なのだ。

にもかかわらず、その光さえいずれは失われてしまう。せっかく奇跡的に出会えた愛する人が突然失われるという現実はあまりにも理不尽で耐えがたい。家族を愛する人は彼らのために辛い仕事を頑張ってきたのだし、恋人を愛する人は彼と積み重ねた年月のゆえに自分の人生を肯定してきた。人は人を拠りどころとして生きている。愛する人を失うという経験は、常に自分の支柱を崩壊させるような致命的な出来事なのだ。

失われたものに対して私たちができることは何なのだろう? もし人は死んだら焼かれて骨になって終わりなのなら、そこに救いとなるものは何もない。生きているうちにしてあげられなかったことへの後悔ももはや行き場は無いし、これからさき光の消えた世界で生きていくための支えはどこにも見つからない。だから、人が死という現実を受け入れることができるとしたら、それは新たな拠りどころの発見と同時にしかあり得ない。死の克服は支柱の獲得と同義である。

また、死は本来的に断絶を意味する出来事である。人の人生が一本の線のように表されるとしたら、その線をある地点でざっくりと断ち切り、前後を永久に切り離してしまうことが死なのだ。それはもう二度と隣を並んで走っていた生者の線と交わることはないし、追いつくこともない。生者は後ろを振り返ることでしか死者の存在を確認できない。どれほど幸福だった思い出も死という出来事を隔てたその時から、(多かれ少なかれ)苦痛と共にしか思い出せなくなってしまう。
愛する人がふたたび自分の前に現れることはない。これまで有ったものがこれからは永久に無い。この不可逆性、取り返しのつかない断絶が絶望のもとになる。


そして、仏教の宗教儀式が目的とするのは「死という現実を日常の中に回収していくこと」である。仏教思想にはこの断ち切られた線を延命させるはたらきがある。死者の行く先に「つづき」があるという考え方はいくらか生者を楽にさせてきたのではないか。どれほど悔やみきれない後悔があっても、「あの人は天国(極楽浄土)で何もかも満たされて幸せに暮らしている」という幸せな終着点があれば、多少の生前の瑕疵くらいは取り返せる。終わりよければすべてよしと言うではないか。

あるいはまた、アニミズムと結びついた神道の思想も死者の魂に「つづき」の物語を与えるものとして有効であった。神道の考え方では死者はこの世に留まり、先祖の霊として家を守護する存在になる。死んでも現世から断ち切られたりはしないのだ。仏教にしても神道にしても、食事などのお供え物を大切にする風習は、死者を生者に見立てているからこそ行われるのである。亡くなったからといって突然食事を与えなくなることはない。まだ魂はこの世に留まっているのだから、突然話しかけなくなるようなこともない。そこには、ある程度生きていた頃と同じように扱うことで、徐々に日常の中に死を溶け込ませてゆく工夫が見られる。これが「線の延命」と呼んだところの本意である。



2.仏教と宗派についての基礎知識

仏教の開祖であるブッダには様々な呼称がある。ゴータマ・シッダルータ、お釈迦様、釈尊、仏陀釈迦牟尼、等は全て同じ人物を指している。彼の活動時期は紀元前500年頃であり、キリストと比べれば500年ほど前の人物ということになる。

ブッダが当時説いていた教えそのものを初期仏教と呼び習わす。彼の教えは弟子によっていわゆる「お経」にまとめられたが、現在普及している諸宗派にはこの頃の教えからはかけ離れて形を変えているものも多い。

まず起きた大きな分裂は「小乗仏教」と「大乗仏教」への二分化である。小乗では厳しい修行を積んだ行者しか悟りと救いに至れないと考えており、初期仏教の思想に近い。
大乗は一般の民衆が救いに至る方法を見出そうとする立場から生まれ、「修行をせずともお経を唱えれば全員が救われる」などといった触れやすい思想ゆえに広く普及していった。日本で支持されたほとんどの宗派は大乗仏教である。

民衆に広まった宗派の中で最も歴史が古いのは〈真言宗〉と〈天台宗〉である。空海の真言宗は、人は死後にではなく生きたままでも仏になれる(=即身成仏)という思想を説いたことが画期的であった。
一方最澄の天台宗は、小乗の考え方とは反する「すべての人間が成仏できる(=一切皆成)」という思想を説いたことに特徴がある。その後、天台宗の比叡山延暦寺で学んだ僧たちは実に多くの宗派を開いて独立してゆくことになる。

天台宗に由来を持ち、鎌倉時代に流行した諸宗派を「鎌倉新仏教」と呼ぶ。中でも特筆すべきは〈浄土宗〉と〈浄土真宗〉の流れだ。
浄土宗の法然は「南無阿弥陀仏とさえ唱えれば極楽浄土に行ける」という極めて明快な教えを説いた。ちなみに「南無」とは「〜に帰依します」という意味であり、キリスト教でいうところのアーメン(賛同します)と同じ意味を持つ。この分かりやすい教えは世情に不安を抱いていた民衆たちによく馴染み、急速に広まっていった。

浄土真宗の親鸞はそこから更に派生して、「人は誰でも死後救済されることが既に決まっていて、念仏を唱えるのはそれに感謝するためである」という思想のゆえに南無阿弥陀仏を唱えることを推奨した。「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(=善人が救われるのは当然のことで、悪人をこそブッダは救おうとする)という内容の悪人正機説が有名である。

初期仏教や小乗仏教の考え方とはかなり異なっているが、誤解を恐れずに言えばこれらの「易しい救済条件」が厳しい修行や節制を必要とする思想には帰依できなかった民衆を救うことになったのも事実である。


鎌倉新仏教には、ほかに〈臨済宗〉と〈曹洞宗〉がある。これらは坐禅による修行を重視するため禅宗と呼ばれる。栄西の臨済宗が坐禅と同時に戒律を守ることを旨とする一方、道元の曹洞宗はひたすら坐禅に徹し、その中にしか悟りはないと考えるという違いがある。

日蓮の〈日蓮宗〉は、「南無妙法蓮華経」の言葉(=題目)唱えることを最も重視する。これは法華経というお経に書かれてある教えを信じます、という帰依の言葉である。新宗教の創価学会もこの開祖を「日蓮大聖人」と呼んで崇拝しているが、正式の日蓮宗とは対立しているので注意が必要。


なお、「密教」は宗派のひとつではなくカテゴリーの呼称である。対義語は「顕教(けんぎょう)」であり、言葉や文字によって教えを伝えていく宗派がここに属する。密教は身体体験を主とする儀式・秘技によって悟りに至ろうとする性質を持ち、言葉での伝道を行わない。ただし、真言宗では「顕密一致」といって両方の修行方法を取り入れているなど、はっきりと区別されているわけではないケースもある。


3.仏教の死生観とその効果

ほとんどの宗派が「死者は四十九日かけて魂を次の世界へと移行させる」と考えており、葬式の後に法要が行われるのはその道ゆきを支えるためである。亡くなった人に白装束や脚絆などを着せることを「旅支度」と呼ぶのは、彼らが死後に長い旅をするからである。死者は七日ごとにさまざまな菩薩と如来に出会い、そのたびに魂を新たな段階に移行させる(宗派によって差異あり)。
このため、仏教徒は七日ごとに「初七日」「二七日」……「七七日」まで供養をしなければならない。俗にいう四十九日(しじゅうくにち)とは七七日のことである。

ただし、浄土真宗はこの習慣を持たない。死者は亡くなったらすぐに仏様になる(=成仏する)ため、四十九日の旅はしないと考えているからである。したがって旅支度を行う必要もないのだ。


仏教では輪廻転生の思想のもと、人はなんらかの形で生まれ変わると考えられている。仏教の世界観では、この世界には6つの階層がある。

1.天上界(極楽浄土のこと)
2.人間界(私たちの現世)
3.修羅界(争いの絶えない世界)
4.畜生界(獣たちの世界)
5.餓鬼界(飢え苦しみの世界)
6.地獄界(文字通り)

これらのいずれかの世界に生まれ変わるわけだが、生前の罪の重さによってゆく先が変わってしまう。生者や僧侶が供養を行うことには、読経によって故人の罪を軽減させて仏様によりよい世界に導いてもらおうという願いの意味も込められている。なお、この転生の輪から外れることが「解脱」である。


すなわち、四十九日までのあいだに「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」を唱えることは死者の道ゆきに祈りを捧げ、彼を手助けすることになる、という考え方なのである。「彼は亡くなったが、まだしてあげられることは残っている」という事実は後悔を抱えている人間にとって一つの希望になる。
遺された人間には四十九日ものあいだきちんと弔いをし、死者が浄土までの旅を終えられるようにこちらの世から支えてあげるという役目が残っているのであり、その重要な役目は無気力になっている人に時に立ち上がる力を与えもする。「線の延命」──これがひと月以上の期間続くことによって、ゆっくりと時間をかけて、人を死者の世界に送り出す心構えができるようになるのである。少なくとも死に際しての仏教思想は、生者へそうした心構えへの道筋を提示するものなのである。


4.終わりに

これまで仏教思想には「死は断絶を意味するわけではない」という考え方が練り込まれていること、そしてその思想の効力について見てきた。これは輪廻転生の考え方ひとつ取ってもそうであるし、亡くなった人が死者の世界に移行するまでに長い猶予期間が取られていることにもその特徴が見られる。
また、実際には日本では神道と仏教の思想は時に混同されながら民衆の習慣に馴染んできたのであり、「亡くなった人は自然の中に溶け合っていつも私たちを見守っているんだよ」という考え方は今日もなお根強く残っている。秋山雅史の「千の風になって」の流行は、仏教思想よりもむしろアニミズム的な大衆感覚を土台としたものであることが窺える(風、太陽、稲穂、星々の中に死者の魂は息づいているという旨の歌詞)。

しかしこの考え方においても同様に、死を断絶と捉えるのではなく「つづき」のあるものとして見る考え方が提示されている。自然は絶えることなく永遠である。終わりを迎えたはずの死者は、自然の中に組み込まれることによって永久に絶えないものへと変化するのだ。
そしてまた、生きていた時は輪郭を持つひとつの個であった人は、魂になれば自然のあるところ何処にでも遍在する普遍的な存在になる。そうなれば風に吹かれるとき、太陽の光を浴びるとき、星々の輝きを目にするとき、人はもう孤独ではないのだ。こうして世界は祝福に満ちたものになる。

死者と死後の世界に対する思想は、生者の切実な祈りから生まれてきたものである。宗教思想が衰退し、科学的思考が賞賛される現代にあって、これらの「非科学的」な思想が人に与えてきた効力を見落としてしまえば、私たちには圧倒的な断絶という絶望しか残らなくなるのではないだろうか。



とても頑張って生きているので、誰か愛してくれませんか?