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令和の「救済の物語」はどうあるべきか? 〜野木亜紀子による世界クソデカピタゴラスイッチ論〜


光の人間が他者の魂を救済する物語が好きじゃないオタクとか居ます??(主語デカ発言)


いや、人類は古今東西どんな時代も救済のあるストーリーが好き。米津玄師のアイネクライネやLemonがこれほどの支持を得ている現実を見ろ!!!!!! ずっと薄暗い日陰を歩んできた人間が他の誰かに「あなたは私の光」と言えてしまうほどの希望を抱けることを、私たちは魂のレベルで求めている。


①社会の変容

物語のあり方は、人々の価値観の推移とともに時代によって変容する。近年顕著に見られるのは単純な「勧善懲悪」ものの衰退である。これは、確かにそうした分かりやすいストーリーは気持ちよく受け取ることができるものの、現実にはそんな簡単にはいお前が悪! バサーッ!!(両断)だけで片づけられることはあんまりないよね………という人々の疑念からくる要請に応えた結果だと考えられる。

現代人は、複雑化する社会のなかで単純に「これが悪、これが善」と切り分けることが難しくなっているのだ。この社会生活上での判断基準の複雑化は、物語における善悪にまで影響を及ぼした。

とすれば、その複雑化が「救済」の理念にまで及んだとしても不思議ではない。
ここでいう救済とは、いわゆるストレイシープ(迷える子羊)状態の人間にもたらされる魂の救いを意味する。救世主的な光の人間がその闇を救う、などという直接的なストーリーは、確かにドラマチックで幻想的だ。たったひとつの出会いがその人の人生すべてを変えてしまうくらい劇的なものになるとき、私たちはそこに希望を見るのだろう。


だが現実はそれほど単純にはいかないよねという話がここにも伝播してくる。筆者は以前こうした救済を「メシア・ストレイシープ概念」として考察したが、言わずもがなこれは聖書になぞらえたものである。
お前が光!!お前が闇!!奇跡起きました!!ピカーーー!!!!(救済の光がさす音)
これは確かにめちゃくちゃ気持ちいい展開ではあるが、現実とはかけ離れている。いやむしろ、かけ離れているからこそ私たちは憧れを抱くのかもしれない。しかし物語においてリアリティを追及するとき、救済はいつまでもこのように直接的なものであり続けることはできないだろう。理想は理想として存在していて良いのだが、社会的な価値観の変容に対抗していく作品もまた必要とされてくる。


②物語はどう対抗していくのか

そこで、野木亜紀子が恐らくMIU404という作品を通して新たに示そうとしているのが世界クソデカピタゴラスイッチ論である。

キャプチャ

綾野剛と星野源が喧嘩しながら都内を疾走する令和最強バディものMIU404を見ろ!!!!!!!!!!!!!!!!!


※以下6話までのネタバレが含まれます。
ピタゴラスイッチを比喩的に用いた表現は3話で初めて登場する。警視庁第4機動捜査隊の志摩(星野源)は、即席のピタゴラ装置にパチンコ玉を転がしながら、新人の九重(岡田健史)に対してこう述べる。

「ルーブ・ゴールドバーグ・マシンって知ってる? ピタゴラ装置とも言う」
「連鎖的に運動する仕組みのことですか」
「たどる道は真っ直ぐじゃない。障害物があったり、それをうまく避けたと思ったら横から押されて違う道に入ったり。
そうこうするうちに罪を犯してしまう。………何かのスイッチで、道を間違える」
「(中略)この人の行く先を変えるスイッチは何か。その時が来るまで、誰にも分からない」


世の中には膨大なスイッチ(障害になるものも背中を押すものも含めて)があって、その全部が複雑に絡み合いながら当人に影響を及ぼしている。最終的に道を選ぶのは当人ではあるが、障害がいくつあるか、手助けがいくつあるかは人によって全く違って、だから道を踏み外すリスクの高さは誰しもが平等なわけではない。「誰と出会うか、出会わないか」が決定的な転換点になることもあるというのだ。

この発言のあと、不穏なBGMの中で床に落ちてゆこうとしたパチンコ玉を、志摩の相棒である伊吹(綾野剛)は見事にキャッチする。


対して、3話のラストシーンは九重がその玉をふとした拍子に床に落としてしまうという象徴的なシーンで締めくくられる。これは当該話中で九重だけが犯人を捕らえ損ねるという致命的な「スイッチ」を見逃してしまったことを示しており、伊吹とは表現が対比されているのだ。残酷~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!(IKKO)



③現代における救いとは何か?

3話で描かれたのは悪い道に逸れてしまう可能性を示すものだが、スイッチ論では人生における救済もまた同様のものとして考えられている。もしその人が胸を苛む後悔や苦しみから救われることがあるとするならば、それは救世主的なだれかによって救われるのではなく、世界クソデカピタゴラスイッチがぴったり噛み合ったときに訪れる「こともある」と。


ところで、MIU404では6話で志摩(星野源)が抱えている過去のトラウマが明かされる形になった。

え?

救うんですか??????????


え?

救えないんですか?????????



このときの動揺を察してもらいたい 公式アカウントと脚本家が喧嘩してるのかと思った

それはそれとして迎えた6話。志摩が「相棒殺し」と罵倒されているのを聞いた伊吹は、その真相を調べようと勝手に奔走する。志摩はかつて相棒を失ってしまったことにPTSDに近いくらいのトラウマを抱えており、そのせいもあり自らの死に対する恐怖が極端に薄い、どこか闇を抱えた人間だった。


メシア・ストレイシープ概念では、救済はそれまでのすべてを覆すような圧倒的な質量を持つ。キリストが奇跡によって病人を治癒したように。最後の審判ですべての善き人が天国に至るように。
確かに、そういう劇的な何かが起きて、今も苦しみのなかに居る志摩がその過去も全部をよかったと言えてしまうような救いがあればいい。だが現実にはそううまくはいかないのだ。


6話では、2つのピタゴラ装置が時間を隔てて同時進行している。1つ目は志摩の当時の相棒で、新米刑事である香坂(村上虹郎)の人生を導くもの。彼が事故で亡くなったのは6年前のことである。

そして、事故だったけれども、「捜査で失敗しなければ・志摩がそれをカバーしていれば・もし多量の酒を飲んでいなければ・その日屋上に志摩が来ていれば……」その膨大な選択肢のうち、どれか一つでも違えば防げたかもしれない事故だった。奇しくも香坂の死因は高所からの転落である。いくつもの要件が揃ってしまった香坂はブレーキのないその装置の上を走り続け、ついには転落してしまった。


「………行かなかった。俺はどっちにも行かなかった。
チャンスはあった。何度も。だけど声をかけなかった」
「あれから何度も何度も何度も何度もなんっども、頭の中で繰り返す。あのとき声をかけていたら。あのとき屋上に行っていたら。もっと前、俺があいつの異変に気づいていたら。スイッチはもういくらでもあった。
だけど現実の俺はそれを全部無視した。見ない振りした」


志摩は、直接背中を押したわけではなくともそこに関与したことに自覚があり、だからこそ裁かれることを求めていた。香坂を導いていたピタゴラ装置はこうして、スイッチが見逃されたことにより悲痛な結果を迎えたのである。


そして同時進行している2つ目は、志摩の人生を導くものである。ここには「彼に救いはあるのか」という命題が乗っている。
志摩の過去を探し回っていることを4機捜の隊長に咎められた伊吹は、その動機を以下のように語る。


「相棒なんて一時的なものでしょ。1年、3年経てば異動もある。仲良くなる必要も、余計なことを調べる必要もない」
「……俺が4機捜に来たのがスイッチだとして」
「スイッチ?」
「俺が4機捜に入ったのって、(中略)急遽人が足りなくなって俺が呼ばれたんでしょ? 玉突きされて入った俺が、404で志摩と組むことになって。二人で犯人追っかけて。その一個、一個、全部がスイッチで。なんだか………人生じゃん?」
「……………」
「一個一個、大事にしてえの。諦めたくねえの。志摩と全力で走るために、必要なんすよ」


ここでもまたスイッチを見落とした志摩/見落とさなかった伊吹の対比が綺麗になされている。彼はなにも志摩を救おうとして動いていたわけではない。
この世界の巨大ピタゴラ機構はほとんど運と偶然で動いていて、私たちがそこに寄与することができるとすればそれは膨大な量のスイッチを見逃さないこと、見落とさないこと、一見関連のなさそうなものでも全部を大事にすることしかない。そしてその精神を全うした者のみが、ときにほんの少しの救いをもたらすことができるのである。

こうして伊吹が探し回った結果、それまで誰も知らなかった香坂の死の直前の行動が明らかになる。しかしその判明も、まったくの偶然にすぎない。なにか一つの行動が奇跡を呼んだのではなく、「相棒として二人が出会ったこと・5話で訪れた店で偶然ウイスキーが提供され、伊吹がトラウマに気づいたこと・当日隊長に叱られてアルコールを抜いていたこと・屋上で志摩に電話をかけたこと・向かいのビルに偶然垂れ幕がかかっていたこと……」、それからもっともっと沢山の、すべての要件が必要だった。


全編を通して語られているのは、「たった一つの行動が直接救いや罪を犯すことに結びつくわけではない」ということである。救済があったとすればそれは全てのスイッチを大切にしたからだし、誰かが転落してしまったとすればそれはいくつものスイッチを見逃してしまったからだという理論が基盤を通っている。

そして、6話の最後で志摩が手にしたのはすべてを覆すような救済なんかではなく、ほんの小さな慰めであり、トラウマと化してしまった記憶からのゆるやかな解放だった。だから彼はラストシーンで、呪縛ではなくときおり胸を刺す後悔として、香坂のことを「絶対に忘れない」と呟いたのだ。


MIU404は「誰と出会うか、出会わないか」によって人生が大きく道を変えてゆくさまを毎話丁寧に描写している。そしてこの世界クソデカピタゴラスイッチが「偶然かみ合ってしまって」取り返しのつかない失敗を招く瞬間と、「偶然うまくいって」誰かが小さな救いを得る瞬間の連続によって紡がれる物語からは、現実世界に対しての非常に誠実なまなざしが見えるのである。

奇跡は起こらない。全てを覆すような救済は訪れない。誰も絶対的なメシアにはなれない。そんな令和の時代にあって、もし救いがあるとするならばそれはこのように来る。

いくつもの事象が相互に関係しあって連動するピタゴラスイッチは、複雑化した現代の様相を反映するのにこれ以上ないほど的確だったと思われる。
細かい説明はまた話が逸れるので省くが、罪を犯すリスクは人によって全く異なるという観点は、人種差別や経済格差の問題を読み解く上でも重要な手掛かりになるだろう。

そしてこれは多分過剰な深読みではなく、野木亜紀子先生の書く脚本のことだから本当にきちんと現代社会におけるストーリーの複雑さを真摯に見つめた結果だと思…………思いたいんですがどうでしょうか!?!?!?!?


もしかすると世界クソデカピタゴラスイッチ論は、今後の物語の基盤への革命になるかもしれない。そう考えると、MIU404という作品に今このタイミングで出会えたことを本当によかったと思うのである。ああそうか。「ある作品に出会うか、出会わないか」もまた、誰かの人生を大きく転換させるスイッチになり得るのだ。




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とても頑張って生きているので、誰か愛してくれませんか?