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出来てないことだらけで、出来てるひとが羨ましかった。

 混雑率180%のシルバーの車両が揺れる度に、誰かの腕や背中でこれでもか言わんばかりにぎゅうぎゅうに押された。私が洗濯物ならしっかりもみ洗いされて降りる頃には驚きの白さだ。
 クタクタになりながらしょうもないことを考えているうちに、電車のドアが開いた。乗客がマラソン大会のスタートを切るみたいに一斉にホームへなだれ込む。
 私はつり革を必死に握りしめて人の流れに逆った。けれど肩に掛けた鞄が降りる人たちに巻き込まれ、体ごと持って行かれて、目的地でもないのに車両の外へ吐き出された。慌てて戻ろうともがくものの、壁みたいな人垣に遮られ、無情にもドアが閉まった。私の朝は大抵こんな風に始まる。

「前にも同じ事、言ったと思うけど」
 主任はデスクに肘をついて小さく首をかしげると、淀みなく作業の手順を説明した。言い終えてふと私の目を見る。
「わかった?」
 改めて念を押されると、自信がなかった。今聞いた話が頭に到達する前に新たな情報が追加されていくので、理解が追いつかないんです。だって知らないことばかりなんです。
 ……とはさすがに言えず、私は「はい」と神妙に答えた。すると主任は、
「はいってのは、わかった時に言うんだよ?」
と苦言を呈した。言い聞かせるようなやんわりとした口調が、尚更心臓に突き刺さった。
『わかってないのに「はい」って言わない』。そんなの子供だって知っている。入社してもうすぐ四カ月。自分が使い物になれる気が全くしなかった。
「で?いまキミに割り振ってる作業はいつ出来るの?」
 主任がノートパソコンの液晶画面に映るスケジュール表を眺めながら尋ねる。私の担当分は、自己申告した日数から既に2日ほど遅れていた。
「そうですね……」
 呟きながら、いつできるの?が、いつになったらできるの?に聞こえて縮こまる。
 三日、くらいでできないとダメなんだろうな。できる気がしないけど。
「二日。いえ、三日ください」
 しどろもどろに答えると、主任は「わかった、三日ね」と復唱し、淡々とスケジュール表を書き換えた。
 私はそれを眺めながら、内心ため息をついた。やったことのない仕事が何日かかるかなんて予測できるわけがない。だけどそれを予測するのが仕事だとしたら、私はてんで役立たずだった。
 
 三日後、ちょうど午後三時の休み時間に、大粒の雨が窓ガラスを激しく叩きつけた。せっつくように、急かすように、バタバタッと大きな音を立てる。
 今日が約束の期限で、だけど、あと2時間と少しではとても仕上がりそうになかった。時計の針に追い立てられながら、焦りに焦ってタイプミスを繰り返しながら急いでみたものの、虚しく終業のチャイムが鳴った。
 私は足元に視線を落としてしおしおと立ち上がった。窓際の一番端の、主任のデスクに向かいながら、どう切り出そうかと怖じ気づく。主任は私がミスをしても声を荒げたりしなかった。だけどあまり愛想が良くなくて、私の出来の悪さにあきれているのかもしれないなどと、余計に考えてしまう。
 何人かの社員が主任のところへ連れだってきて、雨も止んだしビアホールに行こうと声を掛けていた。私は邪魔にならないように、三歩離れた壁際で待った。だけど、主任の視界の端には私が見えていたようで、顔だけこちらに向けて、
「進捗は?」
と少し大きな声でたずねた。
「あの、えっと、実はまだでして…スミマセン」
 進み具合を訊かれているだけなのに、すぐに話を切り出さないことを責められてるような気がして、つい小声になった。
「いつ出来そう?」
「ええと…、あと三時間ぐらい頂きたい、です」
 主任が考え込むように首をかしげた。毎回、この沈黙が怖かった。表情に出さないだけで、『こいつ仕事おせえなあ』と思われていそうで、肩身が狭い。
 主任は「了解」と素っ気なく呟くと、席を離れた。

 私は夕方の休み時間の間もパソコンに向かい続けた。二一時に一旦主任のチェックを受けて、誤字脱字などの最終的な修正をして、二三時を回る頃、ようやくスケジュール表の私の担当分に作成済みのチェックが入った。
 社内に残っているのは私たちだけだった。主任が手際よく電気と空調を落としていく。私は何から何まで申し訳なくて、塩をかけられたなめくじみたいに体を縮こめた。
「スミマセン、付き合い残業させてしまって。あと、全然間に合ってなくてスミマセン」
 けれど主任は気にする風でもなく、
「まあ、しょうがないんじゃないの」
と素っ気なく言った。
 ビルの外に出ると蒸し暑い空気が容赦なく体中にまとわりついた。中とはまるで温度が違っていて、涼しさの余韻も残らない。主任が顔をしかめた。
「冷蔵庫から引っ張り出されて鍋に入れられた気分だ」 
 頭の中にふと、冷蔵庫の中で食材と並んでひんやりと涼んでる主任の姿が思い浮かんだ。コミカルに鍋に投げ入れられるさまを想像して、ちょっとおかしくて口元が綻んだ。
 辺りの建物は寝静まったように灯りが消えている中で、コンビニの灯りだけが煌々と輝いていた。主任はコンビニのそばの石段に腰を下ろすと、片手に下げていたレジ袋を私に差し出した。袋にはいま目の前にあるコンビニの店名が印刷されている。
「食ってないんだろ?」
 袋の中にはシーチキンマヨネーズのおにぎりと梅おにぎり、それから缶ビールが一缶入っていた。戸惑いつつ、梅おにぎりをもらって袋を返した。
 主任が缶を取り出してプルタブに指を掛けた。小気味よく炭酸が抜ける音がして、ほろ苦い香りがほのかに漂った。それを一口含むと、主任はいつもよりすこし柔らかい声で言った。
「今回は特に時間掛かったなあ」
「はい、ええと、すみません。……自分で言っといて全然スケジュール守れなくて、だめだめですね、私」
 主任はそのあと何も言わなかった。ふたりして黙々とおにぎりを食べた。沈黙がすこし怖くて、私は切り出した。
「主任さんみたくテキパキ出来るひとが羨ましいです」
『百年早い』と笑われるかもと思ったけれど、主任は、
「羨ましいならそうなればいい」
と淡々と言った。そうしてぐいっと缶を煽った。
「分かりませんと知りませんは、新人の特権だ。俺も一年目は、分からんことしかなかった。見当違いな企画書書いて先輩に尻拭いさせたことも、わからないことを知ったかぶりしてシャレにならんことになって冷や汗かいたこともあった。……わからないことは、怒られるのが嫌でも、ちゃんと訊いて、いっこずつなりたい自分に近付いてけばいい。社長も専務も最初は一年生だったわけだしな」
 そう言って缶を振った。多分中身はもう空だ。水のように飲むのを見ていると、私も何か飲みたくなった。
「ちょっと麦茶買ってきます」
 私が立ち上がると、主任はコンビニに向かう私の背中を呼び止めて、
「俺にも麦で出来たやつ頼むわ。お茶じゃない方の」
と缶を振ってみせた。

#社会人1年目の私へ

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