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現代的不安感の根源

この論(論と呼べるのか?)はメモの中に眠っていた。
一読した限り、根拠らしいものは恐らく持たないまま、漠然とした自分の想像で書いたのだろう。
だが、自分が現代の問題を論じていること自体が面白く、珍しいので投稿することにした。

現代日本の若者層に蔓延している漠然とした不安感(あるにはあるはず)は、往々にして経済・国家の未来・世界情勢といったものが原因として挙げられるが、その根源は「家」の解体にあるのではないか。21世紀に入り、女性の社会進出は肯定・加速し、それに伴い従来の家父長制は男性による女性への抑圧の代表格として批判に晒されている。その結果として、共働き・家事の分担が今では主流となっている。もちろん、片親では一家を養うのに充分な給料が得られないというのも大きな理由ではある。だが、「家」の中での父と母の役割の線引きが曖昧になることは、すなわち「家」の解体に他ならない。「家」の中心を担う父と母の位置が曖昧になることは、子供の位置をも曖昧にし得る。子供は大人に比べて未熟である代わりに、その精神性は極めて敏感であり、不登校・鬱・自殺といった問題は、その敏感性に依る部分も大きいと思う。人間社会は物質的には過去類を見ないほど発展したが、人間そのものは文明を持って僅か5000年ほど。社会の進化の速度に合わせて大きく変化するには無理がある。そこのギャップに耐えきれないのが、子供の敏感な精神性だろう。そして、大人をも巻き込む漠然とした不安感は、その「家」の解体によって、「家」の中で自分の立ち位置を明確に見いだせない大人たちが、直に急速に変化する社会に接しなければいけないという、そのどうしようもない現実と直面した結果なのではないか。かつては、社会の最小単位として「家」があり、次に「村」があった。だが、「家」が崩壊した現代においては「村」は当然存在しない。あるのは「個人」と「社会」の二つであり、その中間となる緩衝地帯は存在しない。そのことが、現代人の漠然とした不安に繋がっているのではないだろうか。つまり、社会に出た際に、その不安を和らげる場、すなわち帰る所が無いのである。確かに、家庭は今でも在るし、多くの人はそこに属している。だが、それは形の上で属しているのであって、精神面から属している人は少なくなっているのではないか。子への虐待、過度な反抗など挙げればキリがないが、そういったものは、勿論以前からあるにはせよ、ここまで表面化することはなかった。「家」がダメでも、「村」がそれを吸収していたからではないか。かつての日本には儒教があった。意識せずともその「家」観を受容していた。もちろん家父長制であり、女性の社会進出を妨げていた原因である。ただ、戦後まもなく日本から儒教は急速に消滅した。それは、かつての儒教を奉じていた人間が戦争に加担していたこと、西洋の価値観を先進的として受容した事、要するには二度目の文明開花である。そうした結果、日本から「家」が失われたのではないか。西洋にはキリスト教などの宗教による共同体、例えば教会がある。だが、日本にはそれがない。緩衝地帯がないのである。

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