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A・マッキンタイア『美徳なき時代』第五章

サークルの読書会で、米国の徳倫理学者である、A・マッキンタイアの『美徳なき時代』を扱っているが、中々示唆に富んでいるので、まとめに若干の考察を加えたものを残しておこうと思う。*考察の半分くらいは読書会に参加してくれている後輩の考えである。

「キルケゴール、カント、ディドロ、ヒューム、スミスらの道徳の正当化という論証は失敗に終るが、彼らの共通点は「道徳の諸前提に人間本性のある特質」を構想する点。一方で、キルケゴールは他の人間が「情念(パトス)もしくは理性の諸特徴」に訴えるのに対し、「彼自身が根本的決断の諸特徴」と考えるものに訴える。」


・彼らの論証の失敗した原因は、①道徳の規則と教えについて考えていること、と②人間本性について考えていること、の根絶しがたい不一致。

・道徳的枠組みの一般的な形態 
 ⇨中世ヨーロッパを支配

 

・アリストテレスの『ニコマコス倫理学』にスタートし、「<偶然そうであるところの人間本性(未教化の状態における人間本性)>は、初めは倫理の教えと一致・調和しておらず、実践的な理性と経験からの教示によって、<自らのテロス(目的)を実現したならば可能となるところの人間本性>へと形を変える必要がある。」という三要素からなる枠組みを持つ。


⇨「倫理学とは前者から後者の状態への移行の仕方を人々に理解させる学知」
・この考えは有神教においては、「罪」という概念が付加される。

⇦この啓示と理性の調和した領域は、プロテスタンティズムとジャンセニズム的なカトリシズムの台頭期には存続していない。

・新しい神学(プロテスタンティズムとジャンセニズム的なカトリシズム)では、理性は事実だけを認識できるのであり、目的に関しては認識できない、とされる。
⇨この考えを、18世紀の哲学者は継承したため、論証は失敗したのである。

 つまり、「プロテスタントとカトリック双方の神学を世俗が拒絶したこと、アリストテレス主義を科学と哲学の世界が拒絶したこと、この両者の結果が合わさって、<自らのテロスを実現したならば可能となるところの人間>といった観念は一切除去されて」しまう。
⇨教えが目的を喪失した命令に堕落する。⇨道徳の命令に対する不服従を招く。

・カントは、目的論的な枠組みなしでは道徳の論証が困難になることを認めており、徳の究極の栄冠として(他律からの)自由と幸福を提示する。

・<妥当な議論においては、あらかじめ前提の中に存在していなかったものは何も結論の中に現れえない>という原則は、事実を述べる前提から道徳的または評価的結論の導出を試みる論証においては、前提の中に存在していない何か―道徳的または評価的要素―が結論の中に現れることになり、そういった論証は失敗する、という論説。
⇦「「である」から「べき」は導けない」という原則
⇨実際は、全てではないが導出できる。

・特徴的に期待されている目的あるいは機能は対象と切り離せられない。
⇨「腕時計」という概念は「よい腕時計」という概念から独立して定義されえない。

・人間にあてはめると、「アリストテレスは、「人間」と「善く生きる」との関係が「ハープ奏者」と「ハープをよく弾く」との関係に類比的であることを、倫理学の出発点としている」ことになる。つまり「「人間である」ならば「善く生きるべき」」という言説が生まれる
⇦古典的伝統の理論家に根付いている
「その伝統によれば<人間であること>は各々それ自身の意味と目的をもつ一揃いの役割―ある家族の一員、市民、兵士、哲学者、神のしもべ―を満たすことであるのだから。「人間」が機能概念であることを止めるのは、それらすべての役割が先立ち、それらを離れた個人として人間が考えられるときだけ」
 *「善く生きる」のが選択肢の一つに成り下がる。
 *知性単一論(アヴィセンナ)
 *(当たり前だった)社会性⇨個人⇨(再認識された)社会性

・道徳判断の実践が供給する文脈の喪失=哲学的な代弁者の中でももっとも明快な論者は、「自己によりその本来の自律の達成」と捉える。
⇨時代遅れの社会組織は、有神論的・目的論的な世界秩序への信念の内側にと同時に、そのような世界秩序の一部として正当化が試みられた件の階級構造の内側に、自己を閉じ込めていたということ。


・テロスの先にある人間本性(可能態としての人間)を根拠としたアリストテレス、「罪」の概念の下、宗教を前提として共有していた中世、(知識人の間では)理性を前提として共有していた18世紀には、道徳を普遍的に語ることはまだ可能であった。果たして21世紀は何を共有された前提として道徳を語るのか?多様性か..?国家か...?法律か...?個人か...?自由か...?果たして………

・「「人間である」ならば「善く生きるべき」」、これをどう扱うか。
 ⇨個人の社会では、「「人間である」ならば」は意識しづらいのでは?
 ⇨知性によって、認識論の立場から、根本的な条件を与えることも可能では?
 ⇨個人と社会を分けずに、共存させるやり方もあるのでは?

・「人間である」ならば「善く生きるべき」というのは、儒教の文脈でも語られる。つまり、人間は動物と異なり文化を有しており、その文化的道徳性に即していなければ獣と異なることはない(例として、雌を父子で共有する獣の例が挙げられる)。
 ⇨儒教という文化を基盤にしているから成立する考え方であって、儒教という文化を東アジア文化圏が基盤にしていない現代においては根拠としてはかなり弱い。
 ⇨新たな、より普遍的な根拠を有する道徳の確立を目指す必要性

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