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もしも大日本帝国が北進論を成功させたら?


はじめに

 現在、日露関係は樺太、千島列島の領有権についての意見が二分されており、領土問題が生じている。日本政府は、ロシア政府と北方領土問題について交渉を持ちかけたが、ロシア政府側がこれを受諾することはなかった。これは戦前からも続いており、日露戦争に勝利した後であっても、戦間期のソビエト連邦は樺太や千島列島の奪還の野心を見せたため、日本側(特に陸軍や皇道派)はこの動きに危機感を覚え、ソビエト連邦に対抗する野心を見せていた。しかし史実ではこの動きが阻止され、ワシントン条約での一件が原因でアメリカに対抗するための南進論をとっていたが、その方針がなんらかの原因でソビエト連邦に対抗することに転換した場合、世界情勢がどうなるかを考察していこうと思う。

前章壱・北方領土問題

 最初、この地域にはアイヌと呼ばれる独自の遊牧民族が暮らしており、彼ら特有の言語や宗教を使った伝統文化を用いて暮らしていた。しかし、室町時代の中下克上の世の中になると武田軍がコシャマインの戦いでアイヌの指導者であるコシャマインを倒し、初めて北海道や樺太、千島列島の一部を制した。その一方でロシアは近世になると、スペインやフランスなど他のヨーロッパ諸国にも張り合える力を求めるようになりコサック隊を結成し、ウラルからシベリア、極東にかけて東進していった。その際に初めてアジア諸国の一つである中国(その頃は清王朝)と国境を接するようになり協定を結んだ。また江戸時代になると日本とロシアの関係でも国境協定を取り付け、日本側に領土を与えることにしたが、両国の利害関係は不安定であった。
 1868年、開国を迫った列強諸国と尊王攘夷派のクーデター、明治維新により大日本帝国が建国されると朝鮮半島や中国に進出する方針を掲げた。この動きを真っ先に警戒したのがロシア帝国であり、日清戦争の講和時に三国干渉により遼東半島を清に変換するよう持ちかけた。そのことで国内ではロシアに対する臥薪嘗胆の感情を強めることになり、グレート・ゲームを背景として英国と同盟を組み、同じく南下政策に危機感を持っていた韓国と共に日露戦争を始めた。
 日露戦争では、ロシア唯一獲得した不凍港であるウラジオストクが陥落したため、北海からバルチック艦隊を派遣しなくてはならなかったが、スエズ運河が通れないためアフリカを迂回して行かなくてはならなかった。そして機動力の低下したバルチック艦隊は、連合艦隊による七段構えを前にして沈没し、ロシア側が降伏をした。講和条約はアメリカの仲介により、英国のポーツマスで行われることになった。条約は以下のような内容である。

ポーツマス条約・日露講和條約
1.ロシア帝国は大韓帝国における大日本帝国の利益を認め、これに対して干渉しないことを約束する
2.ロシア軍の満州の全面撤退、清国の主権侵害、機会均等に反するものはこれを全て放棄すること
3.満洲のうち日本の占領した地域は改革および善政の保障を条件として一切を清国に還付すること。ただし、遼東半島租借条約に包含される地域は除く。
4.両国は、清国の満州商工業発達を阻害しない
5.ロシアは南樺太、千島列島を日本に譲渡する
6.旅順、大連周辺の租借権・該租借権に関連して
ロシアが清国より獲得した資源を日本に譲渡する
7.ハルビン、旅順間鉄道による炭鉱を日本に譲渡
8.戦闘中損害を受けた結果、中立港に逃げ隠れしたり抑留させられたロシア軍艦をすべて合法の戦利品として日本に引き渡すこと。
9.ロシアは、日本が戦争遂行に要した実費を払い戻すこと。払い戻しの金額などは別途協議すること。
10.戦闘中損害を受けた結果、中立港に逃げ隠れしたり抑留させられたロシア軍艦をすべて合法の戦利品として日本に引き渡すこと。
11.ロシアは極東方面において海軍力を増強しない
12.ロシアは日本海、オホーツク海およびベーリング海におけるロシア領土の沿岸、港湾、入江、河川において漁業権を日本国民に許与すること。

ポーツマス条約(wikipedia)

 以上の約束の中で両国は大半を破っていた。まずロシアは、戦争遂行に要した実費や賠償金を払わなかったため、日本国内では不満が爆発していた。更にWW2末期にはソビエト連邦が、日本側に向けて海軍力を増強させたり、北方領土を奪還した。また日本も、満州の商工業発達に干渉し、中国に対する圧力をどんどん強めていった。アメリカ合衆国、英連合王国の二国はこの行動を懸念し、大日本帝国やソビエト連邦を仮想敵国に認定していた。戦後は、日本国は満州の圧力を弱め、北方領土への圧力を強めていく方針を見せたため冷戦ではアメリカ側に付いていた。
 一方で、中国は辛亥革命後国民党と共産党に二分し、特に共産党はソビエト連邦、国民党はアメリカ合衆国などを背後に味方としていた。孤立していた日本は日中戦争や太平洋戦争を仕掛けたがやがて敗退、その後力の強まった中国共産党が国共内戦にて勝利し中華人民共和国を建国した。冷戦初期はソビエト連邦との合作を強めていったが、中期になるとスターリン批判やダマンスキー島(珍宝島)の領有権の対立から国境紛争に発展、同じく北方領土の奪還の野望を持つようになっていった。

前章弐・史実の日本とロシア

・史実の日本

 日露戦争後、第一次世界大戦では東南アジアや青島、山東半島の領土を利権を確立した。しかしその一方、アメリカではウィルソン大統領により「民族自決」を提唱し、中国やインド、東南アジアなどに対して独立を約束することを提案し、他の欧米諸国もこれを受け入れていた。その中で日本はこれを無視し、中国や東南アジアに対する拡大政策を強めたことから、各国から非難され、同じく領土拡大の野望があったドイツやイタリアと同盟を組み、第二次世界大戦にて中国やアメリカ、英国と対立することになった。
 まず満州事変にて、自国の傀儡政府を立てた。この影響で日本は国際連盟に非難されることになり、脱退。更に国内では五・一五事件にて犬養毅首相が殺害され、立憲君主制から結束主義体制にだんだん移行されていき、二・二六事件では陸軍の一派閥、皇道派が決起し東京府を中心に統制派に対して「昭和維新」を掲げ、反乱を起こした。皇道派も統制派も「天皇親政の軍事政権を作ること」を目標にしていましたが、皇道派は反共産主義を強く掲げており、ソビエト連邦を仮想敵国として注視していた。一方統制派は中国国民党を仮想敵国として見ていたため、意見が対立していたのだ。
 そして統制派が実権を握った後、日本陸軍は中国への進出(日中戦争)を始めた。日本側は北京、天津を征服し、モンゴルに傀儡国を設けた。またその後も陸軍は南京を占領し大虐殺を、一方で1937年日本海軍は上海に上陸し、中国人を虐殺。またその後も海軍は広東・漢口、武漢に上陸し日本軍はどんどん勝利を重ねていった。しかし、その中で中国は首都を重慶に遷し、交戦を続けた。日本軍は重慶への攻略を進めるが、連合国により援蒋ルートから支援を受けた中国軍と山間部を前にして戦線が膠着した。一方で、モンゴルでは日ソ国境紛争、ノモンハン事件が発生。満州事変以来から続いてた紛争が激しくなっていった。しかし日本軍は補給が足りず兵力の消耗が激しくなっていた。両国は日ソ中立条約を締結することに落ち着いた。
 アメリカは、1941年に門戸開放、機会均等による不平等な和平交渉であるハル・ノートを提案に出した。この頃日本国内では既に南進論を掲げている者も多く、日中戦争の膠着の原因が連合国による支援、援蒋ルートによるものだと考えたり、英領である香港を領土下に入れたい野望を持つ者も多かったため、この最後通牒を拒否し、真珠湾攻撃やマレー半島上陸、香港の戦いを行ったことからアメリカや英連合王国を始めとする連合国との太平洋戦争が始まっていった。しかしマレー作戦やフィリピン戦線、シンガポール戦線では戦果を上げるものの、ハワイ戦線はアメリカ艦隊の猛攻により依然として停滞しており、ミッドウェー海戦の敗戦後日本本土空襲を開始し、ガダルカナル島やサイパンなどが陥落、沖縄に上陸され原爆を落とされた。一方の英国軍も1945年のドイツ陥落後には、全兵力を日本側に回すことができたため、インドやビルマ、中国などを奪還することに成功した。

・史実のロシア(ソビエト連邦)

 日露戦争敗戦後、ロシア国内では第一次ロシア革命、または血の日曜日事件が勃発。きっかけはアレクサンドル2世の農奴解放による政治不満であり、その政治不満から農村共同体を中心とした社会運動派であるナロードニキが台頭し、アレクサンドル2世を暗殺したことから始まる。ナロードニキは、西欧から生み出されたマルクス主義に依存していき、次第にロシア各地で広がりを見せていた。特に日露戦争中もロシアの惨状を見て、ロンドンを中心とした共産主義集団ボリシェヴィキを結成し、南下政策が完全に失敗したという事実に不満を爆発させた社会運動家はサンクトペテルブルクを中心にデモ隊を銃撃した。
 その後の第一次世界大戦でもドイツやオーストリア=ハンガリー帝国相手に敗北を重ねたため、ついに本格的な共産主義革命が始まっていった。まず二月革命(三月革命)では、サンクトペテルブルクを主導者レーニンをもじったレニングラードという名に改称し、ボリシェヴィキを中心に大規模デモが発生した。そして27日にはモスクワ、そしてその後も他の都市で発生した。1917年に起きたこの革命で、皇帝ニコライ2世はもちろん妻のアレクサンドラ・フョードロヴナ、夫妻の5人の子供オリガ、タチアナ、マリヤ、アナスタシア、アレクセイがエカテリンブルクで処刑されたことにより300年間続いたロマノフ朝が終わりを遂げることになった。その後はロシア白軍派であるケレンスキー率いるロシア共和国とロシア赤軍派であるレーニン率いるソビエト社会主義ロシア共和国として分裂。その不安定さによりすぐに十月革命(十一月革命)が発生、ウクライナやバルト三国、ポーランドとの戦争を起こし、国際連盟は白軍側に支援部隊を送り、白軍対赤軍のロシア内戦となったが、赤軍の圧倒的な力を前に敗北。内戦後、ロシアや白ロシア、カザフスタン、グルジア、ウクライナなどを含めたソヴィエト社会主義共和国連邦が出来上がることになる。
 レーニンの死後、党内闘争を経て、後継者は最終的に世界革命論を掲げるトロツキーと、一国社会主義論を掲げるスターリンに選ばれた。当時なぜ世界革命論が流行ったのかというと、世界では英国やフランス、中国、モンゴルを中心に共産党or労働党が結成されていたため、共産主義についての思想が最も使われていた年代であったためである。しかし支持率ではスターリンを上回り、五カ年計画などでロシア各地に軍需工場を建てて軍備拡張した。
 一方外交ではスペイン内戦が起きており、ソ連は消極的ながらもスペイン・コミューン側に支援を行った。また、フィンランドとの国境にて冬戦争が勃発した。この背景にはロシア帝国時代に奪われた旧領奪還を目的としているためである。しかしシモ・ヘイヘを始めとする激しい抵抗により、戦線は膠着している状態だった。1939年、ドイツと共に不可侵条約を締結。ポーランドを分割したことにより第二次世界大戦に突入した。開戦後、ソ連はバルト三国を併合した。一方で、アジアでは満蒙国境にてノモンハン事件が勃発。シベリア鉄道の運輸により軍需は安定したが、西側のドイツはその頃フランスを併合し、ユーゴスラヴィアやギリシャなどの領土を奪うなど東欧への領土を拡大しており、不安であったため日ソ中立条約が締結された。
 その後1941年にはナチス・ドイツが独ソ不可侵条約を破り、開戦1ヶ月でレニングラードやスモレンスクを陥落させる勢いの奇襲を仕掛け、これにより独ソ戦が開戦された。当初この奇襲に劣勢だったソ連は軍隊を後退し続けて応戦したのだが、戦線の伸び切ったドイツは冬になると兵器が凍りつき、補給も届かなくなっていったためモスクワ入城やバクー油田獲得すらも果たせなかった。
 一方、日本ではアメリカとの真珠湾攻撃として太平洋戦争の開戦へと踏み切ったが、この戦争と独ソ戦の戦況を見たアメリカは日本だけではなく、ドイツ、イタリア含む枢軸国への大攻勢を計画した。その一端が欧州戦線で、イタリア半島への上陸を計画するハスキー作戦と、フランスの奪還とドイツへの攻撃を計画するオーヴァーロード作戦、日本やドイツに対する核兵器を作るためのマンハッタン計画などが計画されていた。そしてアメリカ、ソビエト連邦(ソ連のみ実質上)が連合国入りをするようになると枢軸国は劣勢となっていき、1945年にはドイツが陥落。その後のチャーチルを筆頭とする英国、ルーズベルトを筆頭とするアメリカ、スターリンを筆頭とするソ連が開催したヤルタ会談では、ドイツの戦後処理と日ソ中立条約の破棄、ソ連の対日参戦が決定した。
 そしてソ連は、千島列島や樺太、満州、朝鮮半島の北部分を占領し、日本は降伏した。このヤルタ会談が少しでも早まれば、ソ連は日本本土への上陸に成功し、北海道や東日本、朝鮮半島全体はソ連占領下におかれる可能性があっただろう。
 その後、領土争いをはじめとしてアメリカをはじめとする西側陣営とソ連をはじめとする東側陣営での冷戦が始まった。

本論・日本の北進論の成功条件

 ここまで、日本とソビエト連邦の流れについてを見てきたわけだが、ドイツのようにただソ連に宣戦布告し、ソ連に二正面作戦を仕向けるような動きをするだけでは高確率で上手く行かないだろう。日本が対ソ戦で成功するには以下のような条件がある。

日本軍がソ連に侵攻する条件
1、極東のソ連軍が半減する
2、日中戦争開戦前に参戦する

日本軍がソ連侵攻に成功する条件
3、ソ連に対する問題を抱えている
4、アメリカ・イギリスのどちらかを味方にする
5、ドイツやソ連に匹敵する陸軍力を付ける

ソ連開戦への口実
1、満州をはじめとする中国の領土問題
2、石油に対する資源問題に対する北進論

 そもそも、アメリカとの開戦に踏み切ったのは石油資源の枯渇による南進論、ワシントン条約から始まる日米間の交渉決裂、アメリカが中国の侵攻に対し非難したことから始まる。それに共通点が一部あるのがソ連であり、特にソ連には石油資源が豊富にあったし、中国共産党に干渉していたのもあって北進論を推し通すというのも当時からすれば、悪くない選択肢であった。
 しかしアメリカも、ニューディール政策が既に終わっていたため日本側が劣勢に立たされたのと同じように、勝利するにはソ連に対してもある程度の対策を施さなければならないだろう。
 ではソ連に対する攻撃の余地がある世界の日本の歴史はどうであるか、私なりに考察をしてみようと思う。

本論・日本が北進論を掲げた世界の歴史を考察

 日本が南進論か、北進論かに選択肢が分岐するのは、日露戦争後にあたるだろう。第一次世界大戦では、ロシアは高確率で革命となりソビエト連邦になるのは確実であるが、問題はここからだ。
 このあと日本はアメリカによりワシントン条約で日英同盟の破棄を通告され、満州国に駐在するわけだが、その後はソ連と国境を隔てることになるだろう。この世界の日本側は仮想敵国であるソ連に攻撃を仕掛けるための計画を行うため、ソ連が参加していなかったワシントン条約でこの話を持ち出すだろうと考察する。そうなれば、アメリカや英国の態度も必然的に変わってくる。確かに太平洋の秩序のために破棄されることも想定されるだろう。しかし、本来日英同盟はロシアの南下政策に対する防衛手段としての同盟であったため、アメリカとイギリスの両国はソ連侵攻について受け入れる可能性が高いだろう。そのため、日英同盟はこのあとも続いていくことになるのは確実であり、満州国駐在についてもソ連と中国以外には史実ほどあまり非難されることはないはずだ。また、その後同時に中国国民党とも秘密協定を結んでいるとより成功率が上がると考える。
 しかしこの場合ドイツと同盟するには、史実よりも難しくなることが想定される。少なくともヴァイマル共和政からアンシュルス前までにはドイツと同盟を結んでいなければ、枢軸国加盟には実現しない。また、ドイツは反共を掲げているものの同時に反連合国でもあるため日本が英国と協定を結んでいるということが発覚すれば、ドイツ側から破棄される可能性がある。そのため、この世界の日本とドイツは敵対関係である可能性が高いだろう。ならば前にも言ったような日本が連合国になる世界になるかといわれれば話は別だ。
 そして二・二六事件では、高確率で皇道派側が優勢となり、昭和維新により昭和天皇は退位されることとなり、新しい時代が訪れるようになるだろう。日本国内では対ソ・対中に対する陸軍力の強化を行い、ドイツが仕掛けた1941年のタイミングで、日本はソ連に対して宣戦布告する可能性が高い。その後日本は傀儡の仮政府であるザバイカル共和国を建国するだろう。そしてドイツ側もモスクワは陥落していると想定される。しかしこの場合日本とドイツは敵対関係であることに変わりはないため、ドイツに至っては史実通り分割されることになるだろう。

結論

 ソ連に関わる事象にIfが生じると、正直どの世界線よりも未知数であることが多い。しかし日本とソ連の関係に至ってはノモンハン事件の教訓を見てみれば案外近しいヒントが得られるものであると推定される。またソ連侵攻中は高確率で寒さに苦しむし、ソ連と日本の間の軍備は五カ年計画間で大きく変わっている。

日中独ソ間軍事力推移(1938)

 そのため、この軍事力を超える勢力との同盟は不可欠であり、史実ではドイツと結んだが、あまり意義も成さずに敗戦して終わってしまったというのが現在である。この背景として挙げられるのが日露、または日ソ関係なのではないだろうか?

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