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汎ゲルマン主義はなぜ生まれたのだろうか?


はじめに

 欧州には南欧のラテン系の民族、北欧・中欧のゲルマン系の民族、東欧のスラヴ系の民族と大きく分けられる。歴史時代の中で最初に起こった世界大戦は、これを背景としたヨーロッパの分極化が崩壊したことが一つに挙げられる。欧州の立地上、中心となっている国はドイツであることは冷戦で証明されている。ドイツの外交官であるオットー・フォン・ビスマルクは、オーストリアとロシア双方のとある野心を抑えるために同盟を結び、フランスを孤立化させようとしたが、後にとある野心を持った皇帝ヴィルヘルム2世の方針より同盟相手をロシアからイタリアに変え、独露再保障条約を拒否することとなった。当時ドイツやオーストリアが持っていたその野心、それが今回の主題となる汎ゲルマン主義というものだった。
 さて、歴史の授業ではここまでしか触れられず、肝心の汎ゲルマン主義の内容がどういったものであるか分からない者も多いだろう。今回はこの汎ゲルマン主義の遠因について考察していこうと思う。

ゲルマン民族の歴史

 欧州にゲルマン人(現・ドイツ民族)が移動してきたのは、ローマ帝国が割拠していた時代に南下してきたことから始まる。ゲルマン人は、スカンディナヴィア半島からユトランド半島を原住地とし、徐々に西進または南下し始めたことから始まる。当時欧州にはゲルマン人が移動してくる前にはケルト人が定住していたが、やがてローマ帝国やゲルマン人と同化していった。そして最終的にはスカンディナヴィア半島に位置するノルマン人や、ユトランド半島に位置するデーン人の他に、英国を中心とするアングロサクソン人、北フランス〜フランドル地方にかけてはブルグント人、中部フランスや南フランスにはフランク人、イタリアには東ゴート人、イベリア半島には西ゴート人などなどのゲルマン人が分極化されてそれぞれ定住した。そしてやがてフランク人により、欧州大陸が統一されフランク王国になると、ドイツが欧州の中心であることが定義付けられるようになった。そしてカール大帝により、ドイツの他にもフランス、イタリアと民族を区別させたが、教皇はドイツに戴冠を与え、北イタリアを支配することを許可した。
 やがてヨーロッパの国境が確立されると、ドイツやオーストリアは東欧に関する関心を高めた。しかし東欧には当時ビザンツ帝国という強国がおり、その他にもスラヴ系の民族が割拠していた。つまりこの頃、東方植民から汎ゲルマン主義の根幹が誕生していたのだ。

汎ゲルマン主義の考えの分極化

 汎ゲルマン主義という概念の中にも色々な考え方がある。この頃、欧州各地で、産業革命が発生していた。これにより大飢饉や疫病のまん延が活発になり、労働者や革命家が乱立し始めていた。最初に始まったのはシチリア島であり、フランスに波及し始めたことがきっかけであった。また革命が発生したのはフランスだけではなかった。ナポレオン戦争以後、講和会議にてオーストリアにより、全ての勢力均衡を図るために革命前の版図へ戻すウィーン体制を形成することに決定したが、ドイツとオーストリアの民族同化、神聖ローマ帝国の再興、ライン同盟下のドイツ諸侯は全て復活しないことに失望したドイツ人や、フランスで発生した二月革命に誘発された自由主義者の蜂起によりウィーン、ベルリンの二箇所で革命が発生した。この出来事により、フランクフルトにて国民会議を開いたが、プロイセン側の小ドイツ主義と、オーストリア側の大ドイツ主義で対立し、第一次世界大戦戦前のような不安定な情勢が出来上がったのである。そして汎ゲルマン主義は最終的にオーストリアの大ドイツ主義の考えに傾倒されていった。その証明が次のようなものである。



ナチス・ドイツから見る大ドイツ主義の失敗

 汎ゲルマン主義及び大ドイツ主義の失敗は第一次世界大戦だけには留まらない。オーストリアで生まれた者であるアドルフ・ヒトラーは戦後、大ドイツ主義とファシズムを掲げた政党を立ち上げ、ヴァイマル共和政を乗っ取った。当時のドイツ人はこれを英雄と称えたが、その内容は欧州のドイツ人以外の人種を絶滅させるというドイツ第二帝国以上に凄惨なものであった。これを特に許せなかったのがアメリカ合衆国であった。アメリカ合衆国の国民の大半はユダヤ人であるからだ。そして結局はアメリカ合衆国、英連合王国、自由フランスとソビエト連邦により四か国統治としてドイツは滅亡するという運命を辿り、汎ゲルマン主義の失敗を決定付けるものとなった。

最後に

 パン=ゲルマン主義とゲルマン人の問題は二度の世界大戦で解決したに等しいが、ドイツに関する問題は多く残っている。ユダヤ人は、英国やアメリカによりイスラエルという国が作られたわけであるが、その立地はアラブ諸国にとって都合の悪いものであり現在でも紛争が絶えない地域として問題化されている。しかし現在では移民という問題を抱えている。それ故に逆に多くの民族で構成するということは内側から崩壊する可能性がある。興亡している大国の多くは、虐殺や差別を経験している。その中でドイツは現代のゲルマン人の問題を受け入れることに成功した。この歴史から「自国が自民族や多民族を全て受け入れること」が平和の近道の手段の一つであるということを証明することができると考える。

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