見出し画像

ナショナリズムから始まった危険な右翼的思想


はじめに

 20世紀初頭、第一次世界大戦後1920年、イタリアでファシズムという考え方が生まれた。そして同年にドイツでナチズムを体系化させ、スペインでは内戦後に国粋主義を確立、日本ではパドリオティズムもとい愛国主義の政策に転換させていった。この考えの原点は、ナポレオン戦争中に発生するナショナリズムから既に始まっていた。今回は各国のナショナリズムの転換を読み解き、そこからナショナリズムそれぞれの考え方の違いについて取り扱っていこうと思う。

ナショナリズムとは?

 ナショナリズムとは、国家という統一を掲げ独立した共同体を一般的には自己の所属する民族のもと形成する政治思想のことである。ナショナリズムには二つの大きな作用がある。一つは、民族間で文化が共有されると考えられる範囲まで政治的共同体の版図を拡大しようとする作用である。そしてもう一つは政治的共同体の掌握する領域内に存在する複数の文化を支配的な文化に同化しようとする作用である。しばしばナショナリズムは日本で流行したパトリオティズム(愛国主義、愛国心、郷土愛)と混同される。しかし社会共同体としての「郷土(パトリア)」への愛情であるパトリオティズムという言葉は、個人的または自主的であり自然発生的な考え方であるのに対して、ナショナリズムは主体性が発生せず、互いの民族集団が結束した考えを持ち、他国から独立し、統一した国家の繁栄を目指すというような考えであった。このような運動は右翼的な自由主義者の他にも、労働者のような左翼的な思想にも取り入れられた。
 ナショナリズムの語源となる「ネイション」という言葉は既にローマ帝国内のラテン語の言語として「よそ者」という意味で使われていた。当時は国家と結びつくものではなく、中世ヨーロッパにおいても語によって想起されるのは宗教会議などに集まる同郷集団であり、やはり国家との結びつきがあったわけではない。初めて国家と共に使われるようになったのは16世紀〜18世紀のヨーロッパで形成された王権国家体制もとい絶対主義の考え方によるものである。17世紀に起こった清教徒革命、名誉革命という英国革命においてネイションは、幅広い人民を包含するような単語であったが、あくまでも身分制社会の枠組みの中でのものであり、ネイションや政府を構成する一人一人が人権を有する対等な存在にはなっていなかった。また革命後の英国で始まった産業革命や、フランス革命などでも例のネイションという言葉が浮かんでいた。フランス革命以降は特に近代市民社会の普遍的諸理念を共有する人民によって構成される共同体として解される。その後のナポレオン戦争にてナショナリズムを初めて形成したドイツは、固有の言語や歴史を共有する民族の共同体として解された。そして数年後、東欧でオーストリア=ハンガリー帝国の版図が南に広がるようになると、バルカン半島にてロシア帝国とともに勢力を広げていたスラヴ民族や、オスマン帝国をはじめとするトルコ系民族、オーストリア=ハンガリー帝国をはじめとするゲルマン系民族それぞれが民族割拠することとなり、バルカン半島を中心に対立が広まり、第一次世界大戦が始まった。その戦時中に労働者による共産主義思想が国家に取り入れられたり、軍人によるファシズム思想が国家に取り入れられることにも繋がっていった。

各国のナショナリズム

オーストリア

 オーストリアでは、神聖ローマ帝国の時代から既にナショナリズム的な動きは始まっていた。神聖ローマ帝国は各々の領邦の王家によってそれぞれの地域を支配する連邦制のもとで管理される国であった。特に強い権力を握っていた王家がオーストリアの王家、ハプスブルク家であり、婚姻政策によりスペインの王家やオランダの王家などの様々な王家と結婚を行うなどを行っていった。しかし、近親婚による遺伝性疾患や戦争の敗北と財政破綻による弱体化から国の勢いは弱まっていき、それぞれの国が独立していった。オーストリアは継承戦争や七年戦争で神聖ローマ帝国の領邦国のうちの一国であったプロイセンと対立するも敗北。その後のナポレオン戦争はプロイセンと共にナショナリズムを形成しウィーン体制を作ろうとするも、大ドイツ主義のイデオロギーを貫いていたオーストリアは東欧に大帝国を建国。しかしバルカン半島における民族問題が発生したため、第一次世界大戦が発生してしまった。終戦後は協商国により、オーストリアの中立が約束されたが、再軍備宣言後同じドイツ民族であるということによりオーストリアやチェコはドイツのアンシュルスやミュンヘン会談の結果により併合されてしまった。

ドイツ

 第一次世界大戦時までのイデオロギーやナショナリズムは、基本小ドイツ主義という面以外に変わったところはないが、戦後にはイタリアの思想を引き継いだナチズムという思想を持ち始める政党、国民社会主義ドイツ労働者党もといナチ党が生まれた。その思想は、民族を軸に国民、特にドイツ人やアーリア人を統合する国民主義と、国民を束ねる共同体を統合する共同体主義の二つを抱えたものであり、そのためには反共産主義や反ユダヤ主義、反資本主義などが必要だと考えられていた。なぜアーリア人至上主義反ユダヤ主義を考えたのか。それはユダヤ人が、キリスト教徒の忌み嫌う金融業に手を染めた「金の亡者」という偏見が強まったのであり、アーリアン学説という著本で「アーリア人こそ、インド=ヨーロッパ語族の人類の始まり」であるという考えに賛同したものであった。このナチズムという思想による政治は一党独裁制であり、自国の文化も統制していた。これはイタリアのファシズムから則った思想である。
 しかし第一次世界大戦後のドイツはヴァイマル共和政であり共和主義もとい自由主義を掲げた者もいれば、ロシア革命の影響を受けドイツ共産党を率いて革命を掲げる者、ホーエンツォレルン家の王政復古を掲げる者もいた。そういった者はナチズムに対して反感を抱いていたが、表向きに思想を晒してしまえば親衛隊やゲシュタポにより逮捕されてしまうため、秘密裏に共有することしかできなかった。独ソ戦での停滞後、そのような反対派の動きも活発になり、1944年7月20日などには総統であるアドルフ・ヒトラーに対する暗殺計画なども企てられていた。
 この教訓から、ドイツなどヨーロッパ諸国の多くがナチズムなどナショナリズムによる全体主義的な考え方は広く禁じられている。

英国

 英国は主にイングランド、スコットランド、北アイルランドで民族がそれぞれ違う。国民は主にアングロサクソン人、ケルト人、北欧人など様々な人種がこの地に住んでいる。イングランドにおけるナショナリズムはノルマン・コンクェストや百年戦争時に英国人としてのアイデンティティを形成し始め、英国革命期にはスコットランドにもこの動きが伝播していった。宗教改革期には主にカトリック、プロテスタント、英国国教会による内乱が勃発していた。英国革命以前には英国国教会を信仰していたものの、清教徒革命後英国の国教はプロテスタントに認定されることとなった。しかもこれはスコットランドやアイルランドによるナショナリズムが形成されるきっかけにもなり、特にスコットランドはその後イングランドと民族同化し英国として成り立つきっかけになっていった。また他にも当時統治下にあったネーデルラント(オランダ)やアメリカの独立運動が活発化した。
 そして19世紀〜20世紀の間の英国植民地はアイルランドを筆頭に各地で独立運動が活発化していった。それだけではなく、第一次世界大戦後の英国は国内疲弊が多かったため、共産主義の考えを取り入れた労働党が首相となったり、英国ファシスト党である黒シャツ隊も生まれた。

イタリア

 イタリアは長らくフランク王国、神聖ローマ帝国、スペイン帝国、オスマン帝国、フランス帝国などにより支配されていたことからウィーン体制後にサルデーニャ王国を中心としてイタリア半島統一運動、リゾルジメントが行われた。そのためオーストリアやフランス、スペインやその属国となる国と戦い、緑白赤を模したイタリア王国が誕生することとなった。第一次世界大戦ではオーストリアに奪われたダルマツィア地方を筆頭にリゾルジメントで回収できなかったイタリアの領土を奪還するために協商国側に立ったものの、講和会議ではもらえなかったことに不満を持ったイタリアは、ナショナリズムを更に激化させムッソリーニを中心としたファシスト党を立ち上げ、枢軸国側に立って連合国に立ち向かった。このファシズムという思想は、反自由主義、反共産主義、反資本主義のもと急進権威主義的なものである。確かにローマを再興したり未回収のイタリアを回収するためには帝国主義を掲げることも時には必要である。しかしイタリアにとって反共産主義を掲げるメリットは存在せず、国力差の高いソ連や英国を敵に回せば再度イタリア半島は分裂状態に陥る可能性がある。そしてこれに気付いたのは戦争末期であり、イタリア陥落後反ファシズムを掲げた自由主義者たちを中心に内乱が発生した。
 最終的には枢軸国は負けてしまったものの、未回収のイタリアは戦後のユーゴスラヴィアとの交渉により、問題を解決することができた。

スペイン

 ナポレオン戦争以後にナショナリズムが活発化した国としてもう一つあるのが、スペインだ。半島戦争後王位継承問題として三度にわたってカルリスタ戦争という内戦を行ったが、ここは保守派の王家が勝利。しかし1848年にはスペイン立憲革命が発生し共和政となった。また南米植民地やモロッコでも独立運動がこの頃活発化していき、次第にイベリア半島内で孤立化していった。1936年、フランコ率いる国粋主義の右翼ナショナリズムが蜂起し、共和主義との内戦が勃発。ここにサンディカリスト率いる左翼ナショナリズムも参戦し三つ巴の内戦となった。
 この内戦では、国粋主義の右翼ナショナリズムを掲げたスペインが勝利し、第二次世界大戦後30年にわたって独裁体制を築いた。しかし冷戦での立場上西側諸国に立つことになり、1975年には共和派となり、現在まで続くこととなった。

ヨーロッパの左翼ナショナリズム

 残るフランスとロシアは右翼によるナショナリズムよりも左翼によるナショナリズムのほうが強い傾向にあった。
 ナポレオン戦争後、フランスではブルジョワジーや貴族による王政復古のための市民革命が何度も行われており、最終的にルイ・ナポレオンによる第二帝政が成立していた。ナポレオン三世は産業革命を推し進め、フランス国内での近代化改革を進め英国やドイツなどの国に対抗する力を強めたが、産業革命を行っているフランス国内での不満はかなり高くなっており、労働者を中心とした集団であるパリ・コミューンを率いて、革命思想を形成していった。
 一方、ロシアでは農奴制を批判する運動が高まっておりステンカ・ラージンの乱から始まり、プガチョフの乱、デカブリストの乱など大反乱が発生していた。アレクサンドル2世は農奴解放令を行うことでこれを止めたが、今度は土地を領主から買い取らなければならず、これに応じない王家に対してポーランドで蜂起が発生したり、アレクサンドル2世が暗殺されるきっかけにもなっていった。更にロシアはこの頃不凍港を獲るための南下政策を進めていたが、日露戦争では旅順での敗北を機に、戦争中止を掲げペテルブルクでデモを行進。それを軍が弾圧したことにより血の日曜日事件が発生した。またこれをきっかけに労働環境の改善や国民議会の開催を求めた民衆は第一次ロシア革命を起こしたが、ニコライ2世はこれを弾圧。第一次世界大戦でもパン=スラヴ主義の野望のもとオーストリアと交戦したものの、ドイツ参戦後、戦況が長期戦となり、しかも不利となってしまった。そして次第に食糧が不足していき、民衆の不満が高まったためロシア国内で二月革命が発生。共和主義者と共産主義者(ボリシェヴィキ)の二頭政治となり、約304年間続いたロマノフ朝はニコライ2世の退位により、断絶することとなった。またこの政治もまた不安定であり、白軍と赤軍によるロシア内戦を行った。ヨーロッパ諸国やアジア諸国はこれに介入を行ったが、赤軍が勝利し、十月革命を達成したことによりソヴィエト社会主義共和国連邦が誕生することとなった。このような一連の革命の動きもナショナリズムによるものである。

植民地の独立運動と日本

 一方、オスマン帝国では第一次世界大戦の終結後ムスタファ・ケマルによる共和政への改革を推し進め、オスマン帝国のような伝統的なカリフ、スルタン政治の体制を廃止し、トルコ独自の憲法を採択したことによりトルコ革命を成功させた。
 また中東やアフリカ、西アジアは、植民地からの独立運動が活発化し、イランやインド、サウジアラビア、エジプトなどの国が独立に成功した。しかしイスラエルはホロコーストにより、多くの命を失った他パレスチナとの領土問題が現在でも続いており、またアフリカでも西サハラ問題を抱えていた。そして東南アジアや東アジアでは米ソ冷戦の最前線となっており、ベトナム戦争や朝鮮戦争では二つのイデオロギー同士で対立を行っていた。また東アジアに至っては戦前には日本の支配力が高くなり、各地で反日運動が活発化、特に中国は辛亥革命以降ナショナリズムを持つようになっていった。
 対照的に日本は、経済に困窮しており外交的にも孤立化しそうな状況下にあったためパトリオティズムの考え方のもと、中国・東南アジア・アメリカへの進出を模索したが、最終的に敗れてしまい、極東軍事裁判にかけられることとなってしまった。

アメリカ

 アメリカ合衆国は理念の共和国である。メイフラワー誓約書、独立宣言、合衆国憲法、権利章典などが示しているのはアメリカが、超歴史的、超民族的な理念、すなわち普遍的原理として自由と平等を理念として掲げた国である。 しかし、アメリカ合衆国の出発点がこのような理念であったとしても、独立当時のすべてのアメリカ国民が、アメリカ合衆国がひとつの国家であることを自覚していたわけではなかった。アメリカはもともと英国の統治下にあり、先住民による奴隷制が続いていた。これは合衆国憲法が批准された当時でも依然として続いており、南側と北側の労働環境の差はとても大きかった。中でも南側は労働環境が過酷であったため、不満を持った南部は北部へ攻撃し、南北戦争を行うこととなった。リンカーンはゲティスバーグ演説にて奴隷制の廃止を主張し、北部によるアメリカ統一を支援する演説を行った。しかしこの演説を不満に思った南部によりリンカーンはこのあと暗殺されてしまった。これがアメリカによるナショナリズムの始まりである。更にアメリカは欧州の外交を俯瞰し、第一次世界大戦にて民族自決、つまり列強諸国が植民地を手放すことを約束させた。
 また現在ではポリコレの過剰摂取や国内での人種差別、移民の激増化が問題となっている。

おわりに

 近代のイスラエルには、シオニズムと呼ばれるナショナリズム運動が活発化していた。イスラエルは領土を取り戻したもののパレスチナやアラブ諸国との領土問題が発生し、互いの民族のぶつかり合いが発生している。
 またこれとは別に現在国を持たない民族がいる。代表的なのは、クルド人だ。彼らは現在トルコやシリア、イラク、イランに居住しているが、まとまった運動を取れずに現在は各地に広がっている。また他にも発展途上国にいる難民は多い。これらを受け入れるためにはトランスナショナリズムというものを考えることが非常に重要だ。トランスナショナリズムには文化交流が盛んに行われるという良い面がある一方で、アイデンティティが混乱し、経済格差が広がることから、犯罪やテロリズムが多くなる危険性も高まる。国連UNHCRなどの国際機関は現在も難民支援を行っています。今、貴方の出来ることは何でしょうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?