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柳田國男の「橋姫」を脱線する#8 産女について『和漢三才図会』『新編鎌倉志』『日本宗教風俗志』

はじめに

前回長くなってしまったので、途中で切りました、産女の2回目になります。
前回↓

まず、今回確認する柳田國男「橋姫」の範囲を、改めて挙げます。


10.産女について(後篇)

例へば「和漢三才圖會」六十七、または「新編鎌倉志」卷七に出てゐる鎌倉小町の大巧寺の産女塔の由來は、昔この寺第五世の日棟上人、或夜妙本寺の祖師堂へ詣る途すがら、夷堂橋の脇より産女の幽魂現はれ出で、冥途の苦艱を免れんと乞ひ、上人彼女のために囘向をせられると、御禮と稱して一包の金を捧げて消え去つた。この寶塔は即ちその金を費して建てたものである。夷堂橋の北のこの寺の門前に、産女の出た池と橋柱との跡が後までもあつたといふ。

「橋姫」本文26

加藤咄堂氏の「日本宗敎風俗志」にはまたこんな話もある。上總山武郡大和村法光寺の寶物の中に産の玉と稱する物は、これもこの寺の昔の住持で日行といふ上人、或時途上ですこぶる憔悴した婦人の赤兒を抱いてゐる者が立つてゐて、この子を抱いてくれといふから、可愛さうに思つて抱いてやると、重さは石の如く冷たさは氷のやうであつた。上人は名僧なるが故に、少しも騒がず御經を讀んでゐると、暫くして女のいふには御蔭を以て苦艱を免れました。これは御禮と申してくれたのがこの寶物の玉であつた。今でも安産の驗ありといふのは、多分産婦が借用して戴けば産が輕いといふことであらう。

「橋姫」本文27

この例などを考へて見ると、謝禮とはいふけれども實はこれをくれるために出て來たやうなもので、佛法の功德といふ點を後に僧徒がつけ添へたものと見れば、その他は著しく赤沼黑沼の姫神の話などに似て居り、少なくも産女が平民を氣絶させる事のみを能としてゐなかつたことがわかる。さうして橋の神に安産と嬰兒の成長を祈る説話は随分諸國にあるから、國玉の橋姫が後に子持ちとなつて現はれたのも、自分には意外とは思はれぬ。

「橋姫」本文28


26.『和漢三才圖會』

『和漢三才図会』は、江戸時代の正徳から享保年間(1711-1736)にかけて、寺島良安が編んだ図入りの百科事典です。明の王圻『三才図会』を模したもので、全105巻81冊あります。

大巧寺 妙隆寺近処に在り。法華 寺領七貫二百文。
当寺初めは真言宗にて、大行寺と号す。而るに日蓮、妙本寺に在りし時、法華と成り、日澄上人をつて開山と為す。即ち妙本寺の院家なり。
産女の宝塔、堂内に在り。一間四面二重の塔なり。
相伝ふ、当寺第五世日棟上人、毎夜妙本寺の祖師堂に詣ず。或る夜、夷堂橋の傍自り産女の幽霊出て日棟の廻向を乞ふ。日棟之れが為に廻向す。産女、襯金一包を投げて之れを謝す。日棟用ゐて造立する所の塔なり。
曼荼羅 三幅共に日蓮の筆〈祈禱の曼荼羅・瓔珞の曼荼羅・星降の曼荼羅、皆珍宝とす。〉

「和漢三才圖會」巻六十七 相模 大巧寺
『日本庶民生活資料集成 第二十九卷』p107
寺島良安 編『倭漢三才図会 : 105巻首1巻尾1巻』[48],秋田屋太右衛門 [ほか],文政7(1824).
国立国会図書館デジタルコレクション(改変済)

大巧寺に産女の宝塔と言うのがあります。これは、日棟上人のところに産女の幽霊がやってきて、死者の冥福を祈る読経を希望するので、してやったところ、金をくれたので、その金で建てた塔であると言います。


26.『新編鎌倉志』

『新編鎌倉志』は、延宝年間(1673-1681)に徳川光圀が臣下に命じて編纂させた鎌倉に関する地誌です。

産女寶塔 堂ノ内ニ。一間四面ノ二重ノ塔アリ。是ヲ産女寶塔ト云フ事ハ。相ヒ傳フ。當寺第五世日棟ト云僧。道念至誠ニシテ。毎夜妙本寺ノ祖師堂ニ詣ス。或夜夷堂橋ノ脇ヨリ。産女ノ幽魂出テ。棟ニ逢。廻向ニ預テ苦患ヲ免レ度由ヲ云フ。日棟コレガ為ニ廻向ス。産女䞋金一包捧テ謝ス。日棟コレヲ受テ其ノ為ニ造立スト云フ。寺ノ前ニ産女幽魂ノ出タル池橋柱ノ跡ト云テ令尚存ス。夷堂橋ノ少シ北ナリ。

「新編鎌倉志 8巻. [3]」卷七 河井恒久友水(貞享2 [1685])柳枝軒
河井恒久友水 纂述 ほか『新編鎌倉志 8巻』[3],柳枝軒,貞享2 [1685].
国立国会図書館デジタルコレクション
河井恒久友水 纂述 ほか『新編鎌倉志 8巻』[3],柳枝軒,貞享2 [1685].
国立国会図書館デジタルコレクション

内容は『和漢三才図会』と全く同じです。むしろこの『新編鎌倉志』の内容をもとに簡略にまとめたものが『和漢三才図会』なのではないかと思ってしまう程です。

図会では書かれていませんが、『新編鎌倉志』には池と橋柱跡があったと言います。産女の話ですが、橋姫的要素も含んでいますね。


27.『日本宗敎風俗志』

『日本宗教風俗志』は、仏教学者の加藤咄堂が、全国の習俗・行事などを収集したもので、明治35(1902)年に刊行されました。
『日本近代文学大事典』によると「学術的には問題であるが注目すべき労作である」(杉崎俊夫)と評されており、ちょっと面白いです。

岩窟、石並植物崇拝
安房は奇嚴怪石に富むこゝに於て岩窟の崇拝は自然の結果として行はれ
洲崎神社(西岬村)は古は養老寺といひ、養老年間の開基にして山脚の岩窟に役行者を安んず、行者伊豆の大島よりしば〳〵波濤を踏むで此地に入れりと信ぜられ、窟内に獨鈷水とて旱天といへども涸れざる噴水あり、
船越神社(同村)には窟遠く瀧ロの小高神社に通ず(共間三里)といはるゝ石窟あり、(神の通ひたまふ所と云はる)鋸山中に自然石の佛躰の形を成すあり、本尊無漏窟、弘法大師護摩窟あり、
石堂寺には慈覺大師百日の護摩を修したる洞穴あり、
和田村には赤穂の義士片岡高房の従僕元助が高房死後僧となりて向西坊と號し、此窟中にありしと云はるゝ向西坊入定窟あり
太夫崎には不動の窟あり斷崖の下明王の像を安んじ其洞、ロ廣く入るに從つて漸く狭く終に盡くる所を知らずと稱せらる、
上總に於ては夷隅郡東村に天德寺の窟あり、洞ロの石に南無阿の三字ありて半は土中に沒す弘法大師の筆と稱せられ崇拝最も甚し、
全郡千町村の大興寺には夢窓國師の禪定したまひしと稱せらるゝ窟あり、
山邊郡大和村には穴の奧に穴あり共又奧に穴ありて盡くる所を知らざる千段穴ありこれらの岩窟はたゞ共舊蹟若くは安置する所の像に向て信仰せらるゝなれど、直に石その者を崇拝するものは夷隅郡石帥の巨石とす、路傍に七五三縄を張りて此石を祀り之れを傷ふれば血を出すといはれ非情の石は有情の人に神の如く畏敬せらる、
▼山邊郡大和の法光寺には産の玉といふあり、安産の功験ありとして信ぜられ一段の妖怪譚は付加せられぬ、曰く、常寺の僧日行途に一女の嬰兒を抱きたるものに遇ふ、顔色頗る憔悴せり、女日行の衣袖を引き此兒を抱かんことを請ふ氣息奄々絶えんとするが如し、憐れんでこれを抱けば重きこと石の如く冷かなること水の如く、行心に怪むといへども少しも騒がず靜に經を誦ず、女輙ち拝謝して妾の苦患幸に免るゝを得たり、聊か以て其恩に報ひんとて一個の珠玉を與へて兒を抱て消え失せたりと、これ即ち産の玉なりと、

植物に於ては上總天羽郡田倉に大樟あり周圍凡そ六十尺、尨然として枝葉蓊欝す、樹下に小祠あり樹の靈をまつり大山衹命を鎭ず、
夷隈郡布施に二株の老杉あり、源賴朝の比地に於て食膳の箸を立てたるものと傳へられこれに參れば食物に不自山なしと云はる、
長柄郡八積には樹幹全く空洞にして繁茂せる皮部の松といふものあり小祠を建て神木として祀り、市原郡飯香岡八幡社内には神木として大銀杏ありこれ等を著名なるものとす、
これに反して或る種の植物を忌避する神あり、市原郡姉ヶ崎の姉崎神社とす風神級長戸邊命をまつる、境内一本の松だもあることなし傳へいふ此神の陽神級長津彦命嘗て遠遊して歸らず久しく待つて憂悶措く能はず、これより大に待つを忌みて松樹を好みたまはず、土人は新年といへども門松を立てずと、境内には女夫杉、縁結びの木ありと、陽神級長津彦命は同郡東海村に在す、これを鳥穴神社といひ、社側に一本の松あり、松下に一穴あり風起らんとする時雲氣必らず此穴より起ると、
其他玉前神社の神輿渡御する釣崎には音信山といふありて山腹には常に風雨または水の流るゝ如き聲を開くこれ神の音信たまふなりと信ぜらるゝなぞ云ふべきこと多けれど略しぬ、

加藤咄堂 著『日本宗教風俗志』,森江書店,明35.2.
国立国会図書館デジタルコレクション
加藤咄堂 著『日本宗教風俗志』,森江書店,明35.2.
国立国会図書館デジタルコレクション(改変済)

この項目は長いので、適宜改行を入れて、それとなく整理してみました。
本題は▼のところなのですが、せっかくなので前後も引用しています。

岩窟崇拝、石崇拝、植物崇拝について、それぞれ簡略に列挙されています。
産の玉の話は、石崇拝のところですね。

児を抱いたところ「重きこと石の如く冷かなること水の如く」と、急に風林火山みたいな言い回しになるのも面白いです。


28.

 国男は、実は謝礼をくれるために出てきたようなもので、仏法の功徳も後付けだと言います。
 私としては、読経してもらい、成仏するために出てくるというのが、お能によくある流れなので、その影響も考えたくなります。

「赤沼黑沼の姫神の話」は10『雪の出羽路』のことです。
 この話では、手紙を届けたことで、結果として金を手に入れています。
悪いところがなく、素直に幸福を得ている点で、確かによく似ていると思います。

 國玉の橋姫が後に子持ちとなつて現はれたのは、07「甲斐口碑傳説」のことです。
 国男は「小説にしては乳呑兒を抱けと言つたなどが、餘りに唐突で尤もらしくない」と評していましたが、産女と橋姫が同様のものとなり、要素が合流するのは自然だと言うのでしょう。


おわりに

今回は好意的な産女の話を確認しました。
乳呑児や橋柱の跡など、これまで確認してきた橋姫と共通する要素がありましたね。

橋姫を理解する要素の一つとしての産女でした。

次回は、謡をうたうことについてです。

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