萬葉集諸本概観
本稿では、萬葉集の諸本を概観します。
と言っても、込み入った話に立ち入るのは恐れ多いですし、自信はありません。諸本のそれぞれについては、解説が沢山あるので、複数参照すれば十分理解することができます。
そこで、それぞれの諸本のあれこれは横に置いて、萬葉集の諸本全体を概観したいと思います。
各諸本の解説を読んでも、諸本間の関係性までは今一つ分からなかったりするので、全体の流れを知ることで、より立体的に諸本を理解することができます。
万葉集の諸本全体を見渡すと、仙覚校訂本と、非仙覚本の二種類に大別することができます。さらに、仙覚校訂本は、仙覚が校訂に用いた本と、校訂の結果生まれた仙覚本とに分けることができます。この内仙覚が校訂に用いた本は一つも残っておりませんので、基本的には仙覚本と非仙覚本の二種類と言うことになります。
仙覚が校訂に用いた本と、非仙覚本の関係は、従来全く別のものと考えられていたようです。(田中大士(2020B)『衝撃の『万葉集』伝本出現 廣瀬本で伝本研究はこう変わった』(はなわ新書085)塙書房36頁)
そもそもは全て非仙覚本なわけですが、その内、仙覚の目に触れた諸本が校訂され、仙覚校訂本となり、仙覚の目に触れなかった諸本が、非仙覚本として対立しているという認識でした。
ところが、全く違ったのです。廣瀬本の出現と田中大士氏の一連の研究により、非仙覚本と仙覚が校訂に利用した本との関係が明らかとなりました。
どう言う関係だったのでしょうか。細かく見ていきましょう。
仙覚以前
萬葉集の諸本は、漢字本文に付された訓点によって時代区分し、把握しています。当然完成当時はまだ片仮名も平仮名もありませんので、漢字のみで書かれていました。後の時代には読めなくなり、訓点(ルビ、振り仮名)を付ける必要がでてきます。
早く、公的に行われたのは天暦五年のことでした。
村上天皇の勅命により、清原元輔・大中臣能宣・源順・紀時文・坂上望城ら梨壺の五人が『萬葉集』の読解を行いました。
この時に付された訓点を、古点と言います。
このとき訓まれたのは全ての歌ではなく、上田英夫(『万葉集訓点の史的研究』)の計算によると、4088首でした。
全部で4516首あったとすると、残るは428首で、かなりの量がこの段階で読み解かれていたことになります。
この時の読解は、漢字本文に即して訓む方法と、平安和歌として馴染みのあるように訓む方法とが混在しており、現在からみると、意訳的な訓みもあります。(小川靖彦(2007)「天暦古点の詩法」『萬葉学史の研究』おうふう)
その後も様々な知識人が萬葉集の訓読を試みました。
『詞林采葉抄』によれば藤原道長、大江佐国、惟宗孝言、大江匡房、源国信、大納言師頼、藤原基俊などがいます。
このほかにも多数おり(校本萬葉集首巻263頁など)、全体としては古点から残されていた420首強の内、270首ぐらいに訓点が付されました。
この期間に付された訓点を、次点と言います。
非仙覚本
さて、この間に作成された諸本はどんなものだったのでしょうか。
実際の紙面を確認してみましょう。
同じ歌の同じ箇所を持ってこれると分かりやすかったのですが、揃えることができなかったので、あえて全て別の歌にしてあります。
これらを見てみますと、まず、訓が平仮名で書かれているもの(嘉、尼)と、片仮名でかかれているもの(廣、紀)があります。
また、訓が、漢字本文の次の行に書かれているもの(嘉、尼、廣)と、ルビのように、右に小さく書かれているもの(紀)があります。
さらに、題詞と歌の高さの関係が、題詞の方が高いもの(嘉)と、歌の方が高いもの(尼、廣、紀)とがあります。
この内、仮名の種類と訓の位置を整理すると、このようになります。
平仮名の本と、片仮名の本がそれぞれあり、次の行に書かれる別提訓と、漢字の傍らに書かれる傍訓とがあります。
こうしてみると、平仮名の傍訓だけがありませんね。
平仮名傍訓もあるにはあるのですが、非仙覚本には基本的にありません。現在見られるものは、江戸時代に片仮名傍訓本である版本を平仮名に直して、嫁入り道具にしたものと考えられており、古い諸本の形からは除外されています。(田中大士(2019,3)「新たな万葉集伝本群の発見―万葉集平仮名傍訓本―」万葉古代学研究年報 第十七号)(田中大士(2020,3)「もう一つの万葉集平仮名傍訓本―関西大学蔵の題詞の高い平仮名傍訓本―」国文学(104)関西大学国文学会)
また、題詞と歌の高低も含めて考えると、理論上は次の八つに分類できます。
一つずつ確認してみましょう。
平仮名別提訓で題詞が歌よりも高い本に、桂本と嘉暦伝承本があります。
平仮名別提訓で題詞が歌よりも低い本には、藍紙本、元暦校本、金沢本、天治本、尼崎本など多数あります。
平仮名傍訓は江戸時代の嫁入り道具なので、ここでは数に含まれませんね。片仮名別提訓で、題詞が歌よりも高い本はありません。
逆に題詞が歌よりも低い本に、廣瀬本があります。
片仮名傍訓で、題詞が歌よりも高い本もありません。
逆に題詞が歌よりも低い本に、紀州本や春日本があります。
こうして見ると題詞が歌よりも高いものは平仮名別提訓の本にしか見られず、多くの諸本は歌よりも題詞が低くなっています。
題詞が高くなっている本は、書写年代の古いものに残っており、少なくとも天暦古点の時にはこの体裁だったようです。
歌の方が高い体裁は、『古今和歌集』以降、勅撰集の影響と考えられます。(小川靖彦(2007)「題詞と歌の高下」『萬葉学史の研究』おうふう)
平仮名訓本と片仮名訓本の大きな違いは、長歌に訓があるかどうかです。平仮名訓本には長歌に訓が付いていないことが多く、片仮名訓本には大体長歌に訓が付いています。
しかも、片仮名訓本の長歌訓の付き方は、諸本で共通しており、祖本を同じくする同一系統と考えられます。そこで型式を同じくする単なるグループではなく、片仮名訓本系統と言うことができます。(田中大士(2020B)『衝撃の『万葉集』伝本出現 廣瀬本で伝本研究はこう変わった』(はなわ新書085)塙書房31頁)
仙覚校訂本ができるまで
続いて仙覚の萬葉集校訂の流れを簡単に確認しておきましょう。
現在は一つも残っておりませんが、萬葉集の諸本全体を捉えるには、ある程度理解しておいた方がいいです。
仙覚が校訂に利用した諸本は、仙覚校訂本の奥書に詳しく書かれています。古いものから順を追って行きましょう。
まず『袋草紙』(上巻、故き撰集の子細)に次のようにあります。
萬葉集は昔は稀な存在だったのですが、法成寺宝蔵本を藤原俊綱が写し、その後、藤原顕綱も書写したことで、それ以来広く流布したとあります。
この『袋草紙』の書き方では、俊綱と顕綱がそれぞれ法成寺宝蔵本を写したのか、法成寺宝蔵本を写した俊綱の本を、さらに顕綱が写したのかよくわかりませんが、恐らく後者でしょう。
法成寺は、栄華を極めた藤原道長の建立で、そこの宝蔵本というのは、藤原道長が所持していた本です。
この法成寺宝蔵本を写した内の一人である藤原顕綱は、讃岐守であったことから、讃州入道と称されていました。
ここからが仙覚校訂本の奥書ですが、巻二十の奥書によると、藤原忠兼が、讃州本に、江家本と梁園御本と孝言朝臣本を校合して萬葉集を書写したとあります。
藤原顕綱本と、讃州本との関係は不明ですが、恐らくは同じ本でしょう。
さらにこの後、忠兼本を雲居寺で書写し、それを源光行が書写、さらに光行の子の源親行が書写しています。
何れも現存してはおりませんが、忠兼本を写したものに天治本があり、雲居寺書写本に廣瀬本があり、光行本に紀州本があります。
親行本を底本として、校訂作業を行ったのが、仙覚です。漸く仙覚の校訂まできました。
仙覚校訂の流れを見て行きましょう。
寛元元年、征夷大将軍の藤原頼経は源親行に萬葉集の校訂を命じます。
この時は親行が持っていた本に、松殿入道殿下御本と、鎌倉右大臣家本と、光明峯寺入道前摂政左大臣家御本の三箇の証本によって校訂を加えたものです。そして、寛元四年に、親行一人では見漏らしがあるとのことで、仙覚が改めて萬葉集の校訂を行うことになりました。寛元四年の十二月には治定本を完成させています。
この時、まだ読めていなかった152首に推点を加え、全ての歌を読めるように整備し、建長五年には、このことを後嵯峨上皇に報告しています。
仙覚はその後も、まだまだ不審な文字が多く残っているとして、校訂作業を進めました。奥書によると、弘長元年、弘長二年、弘長三年、文永二年と、校訂を重ねています。文永二年に作成したものは、宗尊親王に譲ったので、改めて作成したものが文永三年本です。
寛元本も、文永本も、仙覚自筆本は残っていませんが、純粋ならざる寛元本が神宮文庫本や細井本、文永三年本は西本願寺本や紀州本が残っています。
中でも西本願寺本が全巻を備えた良本とされ、現代の校訂本文は西本願寺本を底本にしています。(例えば小学館の『日本古典全集』、岩波書店の『日本古典文学大系』など)
仙覚は訓点について、次の処置を行っています。
これまでの訓点を時代別にし、天暦期の附訓を古点、その後仙覚までの諸訓点を次点、仙覚が新たに附した訓を新点とします。
そして、それぞれの訓点について、色を分けて記述しているのです。
仙覚は萬葉集を校訂するにあたって、それまでの古い訓を採用する場合は黒、変更を加えた場合は青、訓がなかったところに、新しく仙覚が付けたものを朱で書き、色によって訓の性質を区別しています。
Yahoo!知恵袋に校本萬葉集中の「青」とは何かという質問があります。これに幾つか回答があるのですが、みなさんどこかズレた答えになっています。
凡例をみろ。仙覚本だ。というのは良いのですが、青や朱の文字は後人増補ではありません。
確かに写本に於いては後人による書入れが朱で書かれることがありますが、こと萬葉集の仙覚本に関しては明確です。間違えないでください。
文永三年の後は、文永六年に『萬葉集註釈』を著しています。
さらに、飛鳥井雅章筆本に、文永九年に仙覚が一校している奥書があり、注釈をまとめた後も、校訂作業を続けていたことがわかります。
仙覚以後
仙覚が校訂し作成した萬葉集は、徐々に影響力を持つようになっていきます。
文永三年本の系統本の中には、文永十年に書写したという奥書を持つものがあります。
ただしこれは、署名がありませんので、誰が行ったものなのかはっきりしません。
正安三年に、この文永十年本を写したのが治部丞頼直でした。
頼直とは別に、文永十年本を写した系統があります。応長元年に寂印が、文和二年に成俊が写したもので、寂印成俊本と呼ばれています。
成俊は訓について、萬葉時代には特殊な仮名遣いがあるとして、独自の仮名遣いに直しています。
成俊仮名遣とでも言うべきものの全貌はわかりませんが、『校本萬葉集』には「少数の例外を除いてはかなりよく歴史的かなづかひ法が守られてゐる。」と評価されています。
この寂印成俊本は、さらに、巻七で錯簡をおこしている大矢本系統と、禁裏御本の書入れがある中院本の二系統に分かれます。
大矢本系統の諸特徴は『校本萬葉集』(首巻)にまとめられていますが、一番の特徴は巻第七の羇旅歌の中にある錯簡です。(武田祐吉(1923)「萬葉集巻七の錯簡に就いて」『心の花』27巻3号)
中院本の特徴は、禁裏御本の書入れがあることです。禁裏御本は、今川範政が文永本を底本に、寛元本を写した由阿本を校合して作成したものです。
中院本は、寂印成俊本を底本に、禁裏御本を校合書入れしたものです。
寛元本は純粋な伝本が残っていませんので、詳しいことがわからないのですが、この中院本に書き入れられた禁裏御本によって、寛元本の奥書や、附訓を或程度知ることができます。
刊本の流れはなお一層厄介です。
冷泉本の巻第四、五、六があるところに、残りの十七巻分を、純粋ならざる寛元本である神宮文庫本によって補写したものが細井本です。
この細井本を写した林道春校本から、漢字本文のみを抜き出して活字で印刷したものが活字無訓本です。
この活字無訓本に、訓を附けたのが活字附訓本なのですが、この訓は寂印成俊本の大矢本系統をもとにしています。まるでキメラの様な、とんでもない本です。
この活字附訓本をそのまま版本にしたのが寛永版本です。これが最も流布しました。
江戸時代の萬葉集研究も、この寛永版本への批判と訂正から出発しています。よって、『萬葉集』の諸注釈書を見るのに、寛永版本を脇に置いておいた方が何かと都合がよかったのです。
これは明治になっても変わらず、『国歌大観』の底本は寛永版本でした。実は巻第七で錯簡を起こしている大矢本系統の影響で、この寛永版本も歌の順番が転倒しているのですが、そのまま順番に歌番号を振ってしまいました。
それでも、旧国歌大観番号は、その利便性から研究に広く用いられました。4500首もある歌を、いちいち初句とか第二句で区別していたのでは分かり難いですからね。
ただ、歌番号が定着すると、その番号を動かすこともできなくなります。番号と歌が一対一になっていないと、他の人と共有できませんからね。だから、現在の校訂本文や注釈書でも、番号はそのままに順番を入れ替えるといった処置が施されています。
後に『新編国歌大観』で番号を振り直すのですが、すでに普及している旧国歌大観番号とズレるため、不利益の方が大きくなってしまいました。それで、現在でも旧国歌大観番号が用いられています。
流布本でありながら問題の多い寛永版本、『校本萬葉集』の底本にもなっていますが、これについて『新編日本古典文学全集』はこう評しています。
「…不純な性格を持った本が江戸初期に刊行された。その代表的な本が、近世から明治にかけて広く利用された寛永版本である。昭和の初め以来、万葉集研究の出発点となった校本万葉集が、この不良本である寛永本を底本にしたことは遺憾なことだが、その悔いはしょせん、結果論でしかない。今日、万葉集の校訂を行う場合、その大部分が西本願寺本を底本とするのは、それが比較的に由緒正しくかつ二十巻完本で、最も古い写本だからである。」(新編全集「万葉集①」解説、六 諸本と注釈書について、427頁)
不良本と言われ、底本になったことを遺憾とまで言われています。ぼろくそですね。(ちょっと面白い)
上田英夫によると、早くに底本を西本願寺本に替えたのは、岩波書店の『日本古典文学大系』だそうです。刊行は1957年ですから、随分時代が下りますね。(上田英夫(1973)「万葉集の伝本」『萬葉集講座 第一巻 成立と影響』有精堂)
ちなみに、寛永版本を少し手直しした本が、宝永版本です。これも相当に広く用いられました。
さて、最後に平仮名傍訓本です。
活字附訓本や、寛永版本をもとに、仮名を平仮名に直して書写されたものと(題詞低)、大矢本系統と近い内容を持つもの(題詞高)があり、江戸時代の萬葉集の流布を考える上で、重要な資料になります。
元を辿ってみると、題詞が高い体裁の文永本の流れである大矢本系統から、片仮名傍訓なのを平仮名傍訓に直したものと、題詞が低い体裁の寛元本の流れである活字附訓本や寛永版本から、片仮名傍訓なのを平仮名傍訓に直したものなので、写本と版本の両方がそれぞれ流布し、嫁入り道具に利用されたということなのでしょう。
諸本の影印とデジタル公開
萬葉集の諸本はかなり複製されており、『万葉事始』などを見れば、どこが刊行しているのかもわかるのですが、影印ではなく複製で、装丁まで再現された豪華なものとなっており、しかも刊行が意外と古いので(例えば西本願寺本の複製は昭和8年)、大学図書館でも普通閉架になっています。個人で購入するのはおろか、大学図書館も所蔵していないなんてことがあります。
個人的には改めて影印刊行して欲しいのですが、現在はデジタル公開も進んでいるので、確認できる諸本も増えてきました。
隅々まで確認できるものもあれば、部分的にしか見ることができないものもあるのですが、一通り探して見ました。
また、この一覧に漏れているものも沢山あると思いますし、これから新たに公開されるものもあるかと思います。そんな時は是非連絡を下さい。どんどん追加していきます。(ここには画像公開されているものと、洋装本で比較的手に入りやすいものを挙げています。)
平仮名別提訓 題詞高
平仮名別提訓 題詞低
片仮名別提訓
片仮名傍訓
部類書
寛元本
文永三年本
文永十年頼直本
文永十年寂印成俊本大矢本
文永十年寂印成俊本中院本
刊本
平仮名傍訓
おわりに
天暦から宝永までの、およそ800年間の萬葉集の諸本のありようは、把握するには厄介で複雑なところが多くあります。
しかも、資料が残っておらず、ハッキリしたことがわからなかったり、研究者によって見解が分かれていたりする部分も多々あります。
しかし、これほどまでに明らかになっているというのも、凄いことです。
積み重ねられてきた研究に思いを馳せないではいられません。
また、早くから複製を出版してくれていたことで、現在、貴重な諸本が画像公開されています。
原本の画像を公開してくださっている諸機関にも、感謝しかありません。
諸本の特徴に注目して、公開されている画像を見比べてみると、何か発見がありかもしれませんよ。是非自分で確認してみてください。
動画では、全体をざっと通した、まさしく概観を最後にしています。先の説明では省いていたことについても簡単に喋っているので、おさらいにでも、ご視聴いただけると幸いです。
参考
配信でより詳細な内容についてお話ししました。
改めて年表系統図を作成しています。
また、配信内容については以下のFANBOXで公開しています。