noteに生きるあなたと迷子のわたしと言葉たち。

何か書きたい。
その欲求を満たされる場所を探してたどり着いたのがここ。
実は3ヶ月ほど、書き出すまで間があった。
note とは何?ということを探っていた。
そしてここで書いてみたいと思うようになった。そこから3ヶ月。
わたしはnote という世界をまるで知らない。始めてはみたものの
ものすごく隅の方で生息している埃の中のダニ、否、菌ぐらいな位置にいるのだと思う。
しかし、ここにはそんなわたしの書くものを丁寧に拾ってくれる方々がいる。
元来、わたしはコミュニケーションをとるのが苦手だ。
SNS で仲間を募ってなどもっての他だ。コメントなどもなかなか書けない。
だからいつも一方通行な書き物で終わっている。
時々、優しくコメントしてくださる方がいるとそれはそれは嬉しい。ありがたい。
かといってわたしがコメントするかというとできない。無礼者なのだ。
ただ、意を決してコメントするときがある。
それはどうしてもその人に何か伝えたい衝動があったとき。感動したときはとにかく感謝を伝えたくなる。よく読ませていただく方が何かしら困ったり、体調を崩されているとなんとなくいてもたってもいられなくなるような気がしてついつい、お大事になんて馴れ馴れしくしてしまう。
こんなことを気にしてるなんて無駄な時間とも思う。興味があればコメントして縁を結べばいいじゃないと。しかし、それがなかなかできない。
だから、そっと好きだけ押して、静かに見守る。
こんなことでは気持ちは伝わらない。
わかってはいるのだけれど、
うまくできない。
コミュニケーション力がないわたし。

それでも書きたい場所と思えたのはnoteって学級文集みたいなところがある。と感じたから。
どこか手作りな感じというのか
温もりがあるように思う。
自分が好んでそういったものを探してはいるのだろうけれど
読んでいて涙が出てくる文章や
考えるきっかけとなるような文章もたくさんある。
これは絶対に無いなって突っ込みたくなる話もあれば、この先、どうなるの?とワクワクするものもある。
専門的な話題もありなかなか流し読みが難しい。
一言一言を大切に丁寧に書かれている方が多いのだろう。
踊るような文体の方もいれば
一言一言を吟味して書かれているのだなという方もいる。
読んでいて苦しくなることが少ない。そして書くという思いを制限されない。表現することを許されているような感覚がある。

少し、話はそれるのだけれど、
わたしはラジオが苦手だ。それは映像がない分言葉での畳みかけが多すぎて聞いていると疲れてしまう。そしてかすかなノイズというのか電波の音なのかどうにも耳に障ってくる。イヤホンで聞いているとこめかみが痛くなる。自分が言葉を感じているときの頭の中は映画のような画面が浮かんでいる。その映像を眺めているので、言葉だけでの説明が多すぎるとわたしの頭の中では処理しきれないのだろう。
その点、読み物だと自分のペースで読めるので、処理しやすい。
だからと言って、本の虫かというとそうではない。乱視なので字を追いかけていると疲れる。と、わがままな体質だ。

だったら体を動かしてストレス発散して、気持ちを切り替えてとか筋肉に語りかけてみるのだけれど、どうやら、わたしは言葉というものが好きらしい。コミュニケーションではなく、言葉そのものが好きなのかもしれない。
なぜ、人は考えて語るのか。そこには言葉が生まれたから。と考えてみたりもする。言葉ってきっと生きるために必要だったから、何か発しなければ生きていけなかったから生まれたのだと思う。だから、心というものが先にあって、その心の衝動が声となり言葉となっていったのだろう。
そんな原始の記憶をわたしたちはきっと持っている。その何か発したいという刷り込まれている衝動に抗えないのがわたしなのだ。

だから、話した相手は息子と幼稚園の先生だけという日常があっても話したい欲求はさほどない。しかし、自分の想いを綴るという行為ができないとものすごくストレスが溜まってしまう。溜めておけないのだ。

文を書くということを始めたのは小学生の時だ。作文を書く。読書感想文を書く。という授業の一環で触れたに過ぎない。それが楽しかったのだろう。記憶にはないけれど、当時から自分の気持ちや思いを口にすることが苦手だったのかもしれない。原稿用紙は誰からの邪魔がない、実に素敵な世界だったのだろう。それからいつの間にか毎日、詩を綴り、時々、小説のようなものを書いたりしていた。誰かに見せたいわけではなかった。ただ、溢れてくる自分の妄想をどこかに吐き出しておかないとパンクしそうだった。書く。ただ、書き続ける。それがわたしの青春だった。
もう、30年以上この書きたい欲求に侵されて、書いてきているのだけれどわたしは作家になっていない。
そう、わたしは読む人を意識していない。意識しているのは常に自分だ。
だから人の心を揺さぶるようなそんなことは書けないだろうし、わたしが書いたもので涙するのはわたしなのだろう。
ここまで乱暴に言葉を綴っているのなら、非公開にでもして好き勝手に書いていればいい。けれど、それはもうしたくない。押し入れに溜まったノートの数。フロッピーディスクに置き去りにされてしまった言葉。USBでくすぶっている物語。捨てるに捨てられないでいる。そう、わたしも人だ。誰かに吐き出したい。
突き詰めていけばいくほど、きっと本当は聞いてほしい。見つけてほしいと誰よりも思っているのかもしれない。

そう、それもまた自分。
いつも日常とそうではない世界の境界線あたりでゆらゆらと揺れている自分。
いい大人なはずなのに、成長せずに夢を見てフワフワと漂っている自分もまた自分。
肯定も否定もせずにここで泳がせておこう。
迷子のまま、呟き続けよう。
時々、心優しいどなたかが拾ってくれる。

落とし物のように、忘れ物のように、そっと。

この記事が参加している募集

ありがとうございます。 サポートで頂いたお金は apple pencilを購入してイラストの勉強に励みたいです。