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【小説】僕全体

第一回ことばと新人賞で一次落ちので公開します。
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 東上がつかみ、操作をしている、赤いシリコンに包まれたスマートフォンは、ブラウザで転職サイトの適職診断の短い質問文を表示していた。バスのシートに座った彼はベージュのスラックスと白い無地の半袖シャツから伸びる腕、その先の指を面倒くさそうに動かしていた。運転手が、左に曲がります、とアナウンスした。バスが傾き、右側にあった窓ガラスから、西日がスマートフォンの画面を強く照らした。彼は目に痛みとともに、適職診断を受ける馬鹿らしさを感じた。診断でわかるのは自分の中の誰かのことで、それは悔しいが本当の自分ではなく、醜い部分を削った理想の自分でしかなかった。それを自分とするのは、彼には軽薄に思えた

 彼が住むワンルームの部屋に到着すると、彼がまず行ったのは、遮光カーテンのかかった窓際にある細い木製のデスクの上に置かれた、銀色のノートパソコンの電源をつけることだった。プログラミングを職にしていることもあり、ノートパソコンは比較的性能がよく、すぐに起動を終えるが、パソコンの起動は遅い、という刷り込みが彼にはあり、このようにするのが癖だった。彼の部屋はのデスクとチェア、そして、大きめで銀色に光るハンガーラックしかなく、床は畳で、押入れがあった。靴下を脱ぎ廊下にある洗濯機に放り込んだ彼は、チェアに座ると大きく伸びをしたあと、ノートパソコンから伸びる白いヘッドフォンを頭に装着した。
 転職サイトを巡ってみても、大学卒とはいえ、物理学部卒で開発経験が二年しかない彼にマッチした、上等な案件などなかった。彼の勤め先はホワイト企業で、コロナで非常事態宣言が出る前から、予防的にテレワークを採用するほどだった。仕事もひよっことしてだが、やりがいのあるシステムの中心になる画面の開発を任されていた。しかし、キーボードを叩き、コードを書いて、プログラムが実際に動くところを見ても、もっと良いものが作れた気がしてならず、であるのに、それで仕事を終えられてしまっていた。それは、日常生活でもそうだった。チェアから立ち上がり、廊下にある台所で野菜炒めを作り、ご飯とともに晩ご飯にしても、野菜炒めから水気が出てしまっていることが気になり、もっと美味しく作れたはずなのに、と不味く食べてしまっていた。
 晩ご飯の後片付けも終えると、時刻は二十時を過ぎ、ツイッターのタイムラインは、一日の仕事や家事から解放された人々が銘々に冗談のような呟きをして、祭りでもあるかの賑わいだった。彼はそこから目を離すと、準備運動と言わんばかりに、口をすぼめて息を吐き、両手を揉んだ。パソコンの画面上には、彼と全く同じ動き、同じ表情をする、イラストの少女が映っていた。彼女の目は大きく紅色のをしており、引き締まった口元には笑みがよく似合いそうだった。彼女の栗色の長い癖毛だけがどこか憂いた雰囲気がしているが、そのおかげで影のある美人に見えた。
 彼の趣味はこの少女、神戸かなえの姿を使って、ストリーミング配信をすることだった。パソコンの上部に付いているカメラに向かって、彼がかん高く内容の掴みやすい男の声で挨拶すると、画面の中の彼女も彼の笑みそっくりに表情で挨拶をした。声の加工はしておらず、そのままの彼の声だが、そのミスマッチを気に入った視聴者は確かにおり、挨拶にもコメントでパラパラと返信が来ていた。
「暑くてエアコンを入れたんだけど、音が入ってないかな? 大丈夫? コメントありがとう。夏になるのは、あのスカッとした陽の光ともくもく大きい入道雲が思い浮かぶから好きだけど、梅雨はダメだ。ジメジメして髪の調子も悪いし、カードも湿気を吸って反って状態が悪くなるからね」
 彼は片手でスマートフォンを操作してメモ帳を開き、仕事中に思いついたまま書いた今日の配信スケジュールを確認した。
「というわけで、梅雨を乗り越えろ企画ということで、今日は、カードの保管方法について雑談します。時間があったら、リモートデュエルをしますから、自分のデッキを手元にお忘れなく」
 配信は、彼一人が話し続けるでもなく、コメントを拾いながら、滞りなく進んだ。コロナの自粛でエンターテイメントが減った影響か、彼女の名前が広まったおかげか、数ヶ月前に比べるとコメントの数が断然多かった。話すことはまだまだあったが、一度に全て話しすぎるのもよくないと考え、今日は三人限定でリモートデュエルをすることにした。カメラを使って遠隔地とカードゲームの対戦を行うことは、以前からもあったが、カードの販売元が感染予防のために推奨してから、興味を持った人が多かったのか、対戦希望者は増えていた。
 顔の見えない相手とカードで対戦をするのは、対面で行うものと違った緊張感があった。対面なら使えないイカサマも、リモートなら簡単にできる。さらに、イカサマを嫌がる対戦相手の顔も全く見えないから、自分の心も傷まない。そんな中で、公正に対戦をするには、相手に信用してもらう努力が必要だった。
 リモートデュエルの最後の相手はよく配信に来てくれる男だった。いや、本当に男かどうかはわからないが、その低く粘度の高いつばをまとったような声と、乱れた導線を描く手さばきは、彼に不潔な男を想像させ、嫌悪感を抱かせた。相手は、神戸かなえをイメージしたデッキを作ってきた、と言って、対戦中、牛型のモンスターばかりを使用した。彼は、喜んでいる風を装って、粛々と勝負を勧めて勝利した。その対戦が終わっても、相手は通信を閉じようとせず、このデッキのどこが神戸かなえとマッチしているか、を滔々と語りだした。しかし、それを要約してしまえば、神戸という名前と大きな胸が牛を想像させるというだけだった。一通り喋らせてから、終了時刻なので、と通信を閉じ、配信終了の挨拶をした頃には、額に汗が吹いてた。
 配信を終えれば、彼はもう神戸かなえではなかった。最後の相手に嫌悪感を感じて、キモい、と一言で吐き捨てた。シャワーを浴びて洗髪しているときも、最後の相手のことが頭にちらついた。神戸かなえを全部わかっているような態度、それが、相手が考える理想の神戸かなえ、つまり、彼の像を押し付けられているようで、気持ち悪かった。まして、それが善意や愛で行われていることが、鬱憤の吐き口を閉じられているようで、鬱陶しかった。これで、あんたは軽薄だ、と言えたなら、どれほどスッキリするか、と体を拭いている間も、思わずにはいられず、浴室の向かいにある洗濯機の中へ、乱暴にバスタオルを放り込んだ。
 大学生時代から使い込んでいるのでせんべいになった緑色の敷布団と、こちらもタオルケットみたいに薄くなった掛け布団をあわせて敷いた。寝転ぶと、かすかにい草の青っぽい匂いがし、おかげで安心して目をつむれたので、彼は、自分が日本人である、とこのときどこか誇らしく感じた。
 目をつむった彼は、ふと、最後の相手が転職先の面接官だったならとても困るな、と思いついていた。もしそうならば、本当の彼を理解してくれず、彼の「見た目」だけ見て理解したと判断されるだろうからだ。思わず、彼はため息を吐いた。彼自身もそんな不安は不合理だと思ったからだ。明日は晴れてほしい、と考えたあとに、自分も最後の相手のことを「見た目」で理解しているな、とむず痒くも自身の軽薄を反省した。

 朝から雨がしとしとと弱々しく降っていた。雨雲を透かして淡く黄色い日光が、カーテンを退けて窓の内から外をうかがう彼の顔にかかってた。普段なら休みに雨が降ろうと、どうせ家の中で休んでいるだけなので気にしないが、今日は山本に誘われて、大須商店街に行くことになっていたので、彼はめんどうくさいとでもいうように眉間に皺を作って雨を睨んだ。窓から顔を離すと、ハンガーラックに下がっていた、オレンジ色のポロシャツをひっつかんで着た。全く同じ種類のあせた黒いろのジーンズが三つ掛けてある中から無造作に一つをおろして履いた。ふと、財布の中に千円札が三枚だけ入っているのを確認し、大須商店街は名古屋でカードショップが集まるところであるのを考え、途中で銀行によらねばならないことを思った。
 彼の家は不便なところにあり、地下鉄に乗るにもバスを使わなければならなかった。そして、バス停までもなかなか歩かなければならなかった。雨でスニーカーが濡れること、それ以上に濡れたスニーカーを履き続けることを嫌って、彼は白いサンダルを履いて出た。が、サンダルも濡れるとどうも足が滑る感覚して気持ち悪かった。バス停は屋根とベンチで簡単な待合所のようになっており、先客も居ないので、彼は座って、カードに興味のない山本をどう待たせてカードショップに行くか考えながら、バスを待っていた。
 しばらくすると、青いバスがやってきた。前の扉が彼を乗せるために開くと、新車の溶剤に似た匂いがぷんとした。運転手に挨拶し、定期券を運賃箱にタッチして、後部扉近くの席にどかりと彼は座った。バスの中には平日彼が帰ってくる夕方に比べ人がおらず、また、老人が多かった。彼がスマートフォンを持って、ツイッターのタイムラインを見ていると、後ろでぶつぶつとなにかいう声が聞こえた。その声の調子は尋常ではなく、そのくせ不明瞭だった。どうも彼の真後ろの席に座る人が言っているらしかった。だんだんと大きくなる声は、老女のしわがれたのもので、時刻通りにバスが運行されないことや、待ち人の居ないバス停に止まる不満を言っているらしかった。軽薄な人だ、と彼は心のうちで毒づき、老女をバスから叩き出す想像して、自身をなだめ、まるでそんな人など居ないかのように、ツイッターを見続けてバスの中で過ごした。
 地下鉄に乗って到着した上前津駅から出たときには、雨は本降りになっていた。アーケードの下では連符のように雨が強く打ち付ける音が響いていた。巨大なまねきねこの周りにある喫煙スペースも、雨ざらしでは一人も使用者が居なかった。それでも、中心地である万松寺の前まで来ると、プラスチックカップに入った唐揚げを食べる若い集団や、抱えられないほど大きなパソコンケースのダンボールを下げるメガネを掛けた青年など、多くの人が行き交っていた。待ち合わせ場所である、万松寺ビル前の自動販売機近くで立っていると、むらむらとビルの中にあるカードショップに行って、箱に並べられた安いコモンカードを見てきたくなったが、それでは山本は見つけられないだろうし、自分も山本が来るまでに物色を切り上げられないだろうから、我慢した。
 地下にある、バナナジュース専門店でバナナジュースを買ってくる間に、山本は待ち合わせ場所に到着していた。コロナの影響で三ヶ月以上会えない内に、山本は少し太り、それまで痩せぎすだったので、健康そうに見えた。白を基調とした清潔な身なりの山本で、紺色の布マスクだけが異様に見えた。
「どうだい、暇かい?」
「そうだな。誘われなきゃ、美術館か科学館にでも行ってたかもな」
「良かった。夏服が欲しいんだ。行こう」
 大須商店街には多くの服屋があり、どこもしのぎを削って個性を尖らし、変わったものも扱っていた。だから、彼も山本について商品を見ることを楽しんでいた。しかし、彼は、どうも服に金をかけることがおっくうで、買う気はなかった。
「このシャツとあのシャツだとどっちがいいかな? あっちのほうが安いが、こっちは涼しそうだ」
「僕ならこっちにするね。ものが良くなくちゃ、安物買いの銭失いだ」
「そうか、しかし」
 山本はまた悩むような素振りを見せて、結局手に持ったシャツを元のところに戻し、他の店も見てみよう、と言って移動することになった。しばらく、進むとパンの焼けるなんとも香ばしい香り漂ってきた。そちらを見ると、カントリー調の店構えをしたパン屋が、扉を開け放っていた。
「いい香りがする」
「そう? 僕には何もわからないが」
「山本はマスクをしているからな。緊急宣言は終わったんだ、もう外してしまえよ。今日の格好にも、全くあっていない」
「つけていないと白い目で見られるだろ。この前、たまたまつけずに近くのコンビニに行ったら、目のつり上がったおばさんがじろじろこっちを見てきてさ。なにかされるかと思った。あんな怖い思いをするくらいなら、つけていたほうがマシだ」
「そんな軽薄なやつは、気にしないのが一番だ」
 山本はマスクで表情のわからない顔で、そうかね、とつぶやいて、別の服屋へ入っていった。
 それから、三件ほど服屋を見、もしかしたらと、質屋のコメ兵にも寄ったが、結局、最初の店で悩んだ涼しそうなシャツを買った。これで目当てのものは買ったが、このまま解散では、どことなく寂しいので、名古屋でも有名なコーヒーショップがやっているカフェに入った。店内は温かみのある暖色の明かりで照らされ、壁にはコーヒーを入れる時に使う道具が飾ってあった。店内に詰め込まれたように並んでいる、手すりのある木製の椅子に向かい合うように座って、テーブルにおいてあったメニューを見た。メニューにはオリジナルブレンドやウインナーコーヒーといった簡単なものが書かれており、当然豆の銘柄が書いてあるのだろう、と思っていた彼には拍子抜けだった。彼はオリジナルブレンドとクリームチーズプリンを、山本は水出しコーヒーを頼んだ。しばらく、お互いに自粛中のテレワークはどうだったなど、仕事の話をしていた。
「テレワークはもう懲りごりだよ。家で仕事はしたくない」
「おや、東上らしくもない。てっきり、家にいれていい、というと思った」
「最初はそうだったよ。嫌な通勤もないし、休憩に寝転がれるしさ。でも、変に緊張するんだ。仕事をしてないときも落ち着かないし」
「僕は楽だった。嫌な同僚とも顔を合わさないから、天国だったね。それに、そいつもこうやって距離を離してみると、本当はなかなか話せるやつだとわかったんだ」
「それはちがうよ。本当は良い奴じゃなく、本当は嫌な奴で見た目は話せる奴だっただけさ」
 彼は昨日寝る前に考えた「見た目」論を話すつもりだったが、頼んだものが運ばれてきたので中断した。オリジナルブレンドは酸味と苦味のバランスが良く、ブラックで飲みたい味だった。クリームチーズプリンは流行りの硬めのもので、その甘さがコーヒーに良くあっていた。水出しコーヒーは山本が頼んだので、彼には味はわからないが、山本の嬉しそうな顔を見ると美味しいのだろう。
「そういや、東上の動画配信はどんな感じ?」
「んー。ぼちぼちだな。コロナで人が増えたから、視聴者は多くなったけど、それはどこも一緒だし。でも、変な人も増えたから、どっちかと言うとマイナス」
「ほーん。どんなキャラでやってるん?」
「見せたことなかったけ?」
 スマートフォンを取り出し、神戸かなえのモデルを受け取った時の画像を映して、山本側の机の端においた。
「かわいいじゃん。胸が大きいのは趣味か?」
「それは違うんだよ。モデルの作成を依頼したときに言葉でしか伝えなかったから、モデラーの人が勝手に大きくしたんだ。気にしちゃいないけど、これをネタにする視聴者もいて、昨日なんて、胸が大きいから牛だ、ていじられて気持ち悪かったし」
「仕方ないよ。見た目が全てなんだから」
 スマートフォンを山本から受け取り、ズボンのポケットに滑り込ませた。仕方ない、という言葉が上手く飲み込めなくて、彼は後頭部をぼりぼりと掻いた。
「本当の僕を見てもらうのはできないかね?」
「本当なんて、他人が見ることなんてできるはずもないだろ。見た目で判断するな、とよく言うけど、実際は見た目がなければ判断だってつきやしないだろ」
「軽薄なことだ」
「そうふくれるな。そんな調子じゃ配信も続かないぜ」
「実際、そろそろネタがなくて困ってんだよな。デュエルばっかりやるのはつまらんしさあ」
「僕も考えてやろうか? 東上は、こう、視野が狭いからな」
 山本は頭の両端に手のひらをあわせ前に動かして、視野が狭いのジェスチャーをした。彼自身は視野が狭いとは思っていないが、一方で、ファッションなど興味のない分野の知識も教えてもらえるなら、良い気がした。
 カードの話ばかりせず、次はプライベートな話をしたらどうだろう、と単純な案を出すために、彼らは陽が傾き、燃える厚い雲を通して、アーケードに赤い光が注ぎ込むまで、カフェで話し合った。山本が言うには、愛されるにはキャラクターの肉付けが重要だ、ということだった。しかし、笑うこともなく普段を過ごしている彼には、自分のプライベートの話など楽しいとは思えないので、次の放送までに神戸かなえのプライベートエピソードを、面白おかしく作ってストックしておくことにした。それには、山本も、思いついたらラインを送る、と協力してくれるらしかった。

 山本と動画配信で結託してから初めての配信は、週明けの火曜日に行った。その配信は思いの外盛り上がり、神戸かなえの容姿に勘違いしてやってきた視聴者もコメントを残していったようで、コメント数は彼が見たこともない数字になった。思わぬ収穫に、彼は酩酊したときのような、ふわふわとした心地よさを感じていた。配信あとすぐに投稿された配信の動画版であるアーカイブを、頬杖を付きながらにやにやと彼が眺めているところに、山本からラインが飛んできた。
「配信盛り上がったな。どうだ僕のアイデアもまんざらではないだろう?」
「ありがとう。次も頼むよ。もしかしたら収益化できるかもな」
「もしかしたらじゃなくてするんだよ」
 山本はがんばろうと言わんばかりに握った右手を伸ばしたスタンプとともにメッセージを送ってきた。彼は苦笑いしつつも、グッドサインのスタンプを送った。
「でも、転職の話はしらけたから次はなしな。わけわかんなかったし。上司に褒められると転職したくなる、ってなんか病んでんの?」
 それは、上司に、作成画面数がチーム一多いから期待している、と褒められたのに、彼は違和感を感じて、転職を考えてしまった、という話だった。
「そういうわけじゃないんだ。頭ではここで働き続けたほうがいいってわかってる。褒められるし、向いてるとも思うしね。でも、本当とは違う気がするんだ」
「気のせいだろ。頭でわかることが重要。だから、話すことも相手の頭にわかりやすくしないとね。とにかく、そんな意味不明で理解できない話はこれからなし。いいね」
「わかった」
 彼もその会話の極意を知っていた。新人研修で指導された記憶があった。それと、どうしようもない嫌悪感も思い出していた。指導した講師がやたら大きな声で喋るので嫌いだったのもあるが、それが正しい話し方と決められるのが気に入らなかった。しかし、それが必要なスキルというのは正しいのかもしれない、と彼は考えた。テレワークで求められたのは、わかりやすく話すことだった。それになじめなかった彼はテレワークが苦痛で、その期間中、なかなか寝付けず、同僚に何度か目の下のクマを指摘された。
 次回の配信は明後日の水曜日であることを山本に告げて、おざなりなスタンプで別れた。しかし、彼はまだ寝るつもりはなく、動画投稿サービスに新しく上げられたカードゲームで対戦をしている動画をことごとく見るつもりだった。
 ある動画は公式が出しているゲームの画面をキャプチャしたもので、新しく出たカードの使い方を見せるものだった。この方法なら、誰かと撮影のために集まることもなく、一人でいつでも機材がなくとも撮影できるので、このような動画が増えていた。彼はその対戦をぼうっと見ていたが、次第に対戦の行方が始める前からわかってしまうな気がして、途中で動画を閉じた。それから、見残していたその類の動画も見る気がなくなった。彼は見なかったことを、惜しく思わない自分に気がついた。そして、彼自身も、なんとなくわかられて、いつか見られなくなるのでは、と思った。その不安は寝てしまう前まで続いた。

 残暑という言葉がぴったりなほど、今日の空気は暑く、空にも夏の終わりに乗り遅れた入道雲がもくもくと巨大な図体で浮かんでいた。山本のアドバイス通りに演じた神戸かなえは、すでに収益化の申請が通った。それはつまり「人気」の勲章を得たということだった。そのため、配信を待ち望む声も聞こえるようになり、山本の提案もあって配信日を増やした。それは、山本と収益を山分けしていることもあり、まるで金儲けのために配信すようで抵抗があったが、収益の数字を見ると、彼の気分が高揚するのも嘘でなく、結局、賛成した。それでも、彼は日曜日は今日のように休養に使うということで、配信に使わないようにしていた。
 自営業をしている両親がどのような伝で手に入れたのかわからないが、何故か印象派の企画展の招待券を数枚持っていたので、そのうちの一枚を譲ってもらった。開催場所は名古屋市美術館で、最寄りの駅が毎日通勤で降りるところなのが少し憂鬱だが、広い展示室を持ち、また展示の方法も、引き出しを使うなど、面白い試みをするので、好きな美術館の一つだった。
 美術館にはすぐには行かず、美術館を含む白川公園の大きな噴水の脇にあるベンチに座り、コンビニで買っておいたおにぎりとココア味のプロテインドリンクで昼食にすることにした。日曜の白川公園には、木陰でスマートフォンでゲームをする老人や、広場でダンスの練習をする若いチーム、噴水のそばにはまだ小学校に上がっていないだろう幼い子供と両親など、様々な人がいた。そして、誰もがマスクをしていた。
 おにぎりに混ぜられた青のりの苦しょっぱい香りを堪能していると、目の前で水を静かにたたえていた噴水が、白い飛沫を上げて高く、空に触れそうなほど、吹き上がった。噴水の近くでマスクを外しポーズを撮っていた幼子が、大きく口を開け歓喜の歓声を上げた。両親と思わしき若い男女は、スマートフォンを構えて、子のいる絶景を取ろうとしていた。風が飛沫を彼の顔に運び、いくつかは口に入ったが、それが気持ちいいと感じるほど、爽快な眺めだった。あの親子たちにも、当然、水がかかり、服がところどころまだらに暗くなっていた。彼には、あの親子が噴水の飛沫を受けて、大口を開け喜んでいるように見えた。
 彼はゴミをまとめて、立ち上がり、美術館のエントランスへと向かった。美術館は少し古いコンピューターグラフィックスの作品のように、白い面を交差させているような作りで、幾何学で扱う理想の立体図形によく似ていた。立方体の枠線だけ残したものを棒の両端に取り付けた不思議なオブジェは、風が吹くに任せて、きままに動いており、彼はそのわかってもらう気の無さを、気持ちよく思った。エントランスへ伸びる黒い通路の脇には、大きな穴があり地下へ光を通していた。
 美術館に入ると、灰色のカーペット敷の床と、白いすべすべした大理石の壁が目に入った。その先には、橋のように吹き抜けに渡された、渡り廊下が目についた。渡り廊下からは、地下の常設展示である、職人をモチーフにした、高さが通路まである巨大な作品がみえ、その手はどんな意味か、文字の入った金槌を振っていた。
 企画展示室は夜更けのように静かで、絵画を見るのに必要なだけの僅かな明かりが灯っていた。彼は決して絵画に明るいわけではなかった。印象派とはどんな派閥か、などわからなかったが、彼が過去に鑑賞して良いなと思った中に印象派のものが多かったので、興味を持って鑑賞しにやってきた。
 企画展示室は広く、二階にも展示は続くらしかった。彼が絵画を守るために光を遮る黒くて厚いカーテンから顔だすと、強烈な白い日光に目をやられ、少し頭が痛んだ。そこは二階に上がるための階段と休憩用の椅子だけがある部屋で、左右ともガラスの大きな窓に挟まれ、日光と同じく白で統一されていた。彼は椅子に座り、窓の外の濃い緑色の植栽と地下へ続く穴を見ながら、今日の企画展示を反芻して味わった。印象に残ったのは、なんと言っても筆致で、たとえばりんごなどは、実際に実物を見るよりもりんごらしく描かれている、と感じた。
 彼は口を少しすぼめ、ふうと一息つくと立ち上がり、階段を登りだした。登った先にはまた厚く黒いカーテンがあり、抜けると、また静謐な展示室が続いていた。ここからは印象派が与えた影響をテーマに展開されていた。
 彼は一枚の絵画の前で立ち止まった。その絵は、浅黒い肌の若い女を描いたものだと、彼はすぐにわかった。しかし、画面には、女の厚い生皮を剥き舐めし広げたような、ともするとタイヤに轢き潰されたヒキガエルにも見える、二次元的な色枠があるだけだった。絵画の横に行儀よく備え付けられた、葉書ほどの解説文には、対象の色以上を描く印象派にインスピレーション得て、ピカソが提唱したキュビズムに倣って描かれたものらしいが、作者はピカソではなく、彼の知らない画家だった。
 彼は、じっとその絵を見てから、後ろに一歩引き、展示室の壁、絵画が収まっている額、そして絵画、それら全体をまたじっと見た。展示室の中央に背もたれのないソファがあり、彼はそこに腰掛け、絵画の残像を味わうように、目を瞑った。彼は、その絵画に人の重く分厚いものを感じた。それを感じると、指でベルベットの布地をなぞるような、快感があった。彼はもう一度目を開き、その絵画の彼女を見て、トマトが好きそうだと思った。
 二つ目の展示室を抜けると、モネの川辺の絵画を背景に写真を撮れるブースと、物販スペースがあった。今回、展示されていた絵画の絵葉書が数十種類売られていたが、あの絵画のものはなかった。
 外に出ると、名古屋特有のじめっとした暑さが、顔から順に纏わりついてきた。しかし、感じられないものの、風は吹いているらしく、美術館前の風で動くオブジェは揺れていた。見上げると、向かいにある科学館がガラス張りの側面で、ギラギラと太陽光を反射し、彼の額に汗を吹き出させた。喫茶店で休もうか、と汗を拭って彼は西の栄の方へ歩き出した。
 ビル街を少し歩くと、チェーンの喫茶店があった。見た目はログ調だったが、コンクリートのビルの一階に入居しているので、どこかミスマッチで、だから、安心した。中に入ると、空気が鋭く感じるほど冷房が効いていた。店内はそれほど広くないにもかかわらず、座席同士の間隔は広く、さらにコロナ対策で一つおきにしか座席が使われていなかった。店内中程の二人席を案内され、退こうとする店員を止めて、たっぷりのブレンドコーヒーを彼は頼んだ。
 コーヒーは、スマートフォンで山本にラインを飛ばす間に、豆菓子付きでやってきた。山本には、美術館で見たものを配信で話すべきか、聞くつもりだった。コーヒーを一口飲むと、苦味よりも熱さを感じ、鈍い酸味を引きずって消えていった。コーヒーを持っていない片手でスマートフォンを扱い、ニュースアプリを開くと、コロナ不景気による失業問題を取り扱っている記事があった。数億人の失業、採用数の伸び悩み、数字で見るとインパクトがあった。ページを捲ると、新コンビニスイーツが写真付きで記事になっており、彼は思わずつばを飲んだ。山本からラインの返信が返ってきた。
「それはあんましだな。バカなほうがウケるからさ。美術館とかインテリぽいからダメ」
「でも本当にいい絵でなんていうか感動した」
「考えてみろよ口でその絵を伝えられるか? 伝えられたってわかってもらえやしないって。わかりやすい話じゃなきゃ面白くならない。東上だってそれがわかっていて僕に相談したんだろう?」
「でもそれじゃなんか軽くて薄っぺらいな」
「それでいいんだよ。上面上等。深い話なんて誰も期待してない。テレビを見てみろわかりやすく表示してわかりやすくリアクションしてわかりやすく声を上げて。バラエティなんかどこで笑えばいいかわかりやすく笑い声を入れてるんだぜ」
「なんか操られているみたいだ」
「実際そうだろうな。でもわかりやすくなければわかってもらえない」
「わかりやすいところしかわかりあえない」
「そう。だからわかりやすいところだけでいいんだよ」
 あの絵画に与えられた彼の感動が、まるでドライフルーツみたいに、しなびてしまう感覚がした。一方で、その感動は胸の奥に重く残り続ける気もした。
「そうだ今度激辛食レポやってみないか? バラエティのパクリだけどわかりやすいだろ」
「辛いのは止めてくれ。マジで」
「じゃあ苦いだな。なにか考えておくよ。いいリアクションの練習しとけよ」

 彼はため息一つはいた。デスクの上には開かれたノートパソコンがあり、その前に彼は座っていた。カーテンは開かれ、網戸の窓は秋らしい涼しい外気と低くから注ぐ日光を、部屋の中にふんだんに取り込んでいた。コロナ流行の第二波が来、再びテレワークが始まってから、彼はため息をつくことが多くなった。今も上司に報告を行っただけだと言うのに、大きな仕事を終えたような、開放感を彼は感じていた。
 ノートパソコン上にはエディタの黒い画面が開かれ、画面の隅ではビデオ会議アプリが小さなウィンドウに上司の働く姿を映していた。彼が所属するチームが担当しているアプリケーションは、ピーエイチピーの上に自社独自のフレームワークを使って開発を進めていた。彼も二年努めていることもあって、このフレームワークにも慣れたものだったが、それでもわからないところは出てくることがあった。大抵は仕様書を見れば解決することだった。しかし、まれに、それを見ても、また誰かが作った過去のコードを調べてみても、解決しないものがあり、それは先輩に聞くより他はなかった。
 彼はこの、誰かに聞く、を避けたかった。先輩に質問しようと、マイクのミュートを解除するも、気が重くて彼の眉間にシワが入った。カメラは先輩がどこかを見ている姿を映していた。それが、彼にはプログラムの難しいところをを考えているように見えて仕方なかった。普段ならば、こんなことは気軽にできることだったが、ビデオ会議で聞くのは、相手が何をしていて、どういう状態かわからないため、いちいち気兼ねした。意を決して声をかけると、意外に、すぐ先輩はこちらを向いてくれた。先輩に一通り質問に答えてもらった後、上司が彼の名を呼んだ。
「東上さん。質問をするときは、もっと簡潔に、わかりやすくしなさい。あなたのを聞いていると、余計な部分が多くてわかりにくいから、焦点を絞ってしなさい。そうすれば、もっとスムーズに行くからね」
 わかりました、と彼はうつむきがちに答えた。この注意を受けるのは、もう数度目だった。改善しようとはしていた。しかし、なかなか上手くできなかった。普段なら、画面を見せるなりして簡潔に聞くことができたが、テレワークでは言葉しか使えず、言葉だけで画面ほどの情報を再現しようと思うと、どこまで言えばいいのかわからなくなり、無駄が増えてしまっていた。そういうとき、彼は本当の自分を思い、そして、それから乖離した嘘の自分に劣等感を抱いた。そして、本当の自分であれる仕事への転職を考えた。特に、同僚がこんな注意も受けず、質問をして、可愛がられるのを見ると、劣等感がむくむくと湧いてきて、下唇を軽く噛んでしまうことがあった。テレワークが始まってから、それ以外でもこんな思いを彼はよくした。
 終業時間になり、次々にチームのメンバーがビデオ会議を退出していった。彼も退出の挨拶をして、ビデオ会議を出た。ビデオ会議もエディタも写っていない、デスクトップの青い画面を見て、彼はもう一度ため息を吐いた。まぶたが痙攣するようにぴくぴくと動いた。彼の仕事の興奮と緊張は、なかなか収まらなかった。テレワークでなければ、束縛していた会社から出ることで緊張から自然に開放されるものだったが、束縛されていない家で起きた緊張はなかなか開放させることができなかった。気分転換に外に出ようにも、不要不急の外出を自粛する要請により、喫茶店も休業しており、行くところがなかった。しかたなしに、彼は畳の上に寝転がった。
 目を開けると、カーテンの向こうに見えていた青空は夜の帳を下ろし、向かいの電柱に備え付けられた街路灯の白い灯だけが見えた。スマートフォンに手を伸ばし、ロックを解除して時間を見ると、神戸かなえの動画配信予定時刻の約一時間前だった。急いでコンビニへ向かい、晩ご飯を買ってくることを考えたが、遅刻をしそうでやめた。自粛がうたわれるコロナ下で、動画配信は彼の数少ない娯楽の一つだから、大切にしたかった。視聴者も娯楽に飢えているのだろう、コロナの自粛が始まってから、視聴数は大きく伸びていた。そのことも、彼の動画配信のモチベーションを高めていた。
 彼は飲み水を用意するために冷蔵庫を開いた。中には玉子とタレなし納豆、数だけ異様に増えたスパイス、水道水の入ったピッチャー、罰ゲームリモートデュエル企画で使ったチョコレートがあった。チョコレートなら食べられそうだったが、罰ゲームで食べた時に、あまりの苦さと口溶けの悪さにえづいたことを思い出しやめた。いっそ捨てて仕舞えば良いものの、販売メーカーから別商品のピーアールを頼まれたこともあり、どうしてもゴミ箱に入れられなかった。
 ピッチャーと寿司屋にあるような大きな湯呑みを持って、彼はデスク前にある黒いオフィスチェアに腰掛けた。ノートパソコンは自動的にスリープになっており、真っ黒な画面には彼の疲れた顔が映り込んでいた。冷たい水を一杯飲んで、スリープを解除した。彼が真っ先に開いたのは、メッセージが投稿される質問箱だった。彼は必ず一時間の動画配信で、四本は投稿に答えるようにしていた。唯一、山本にも口出しされず、素の彼の声で答えられるコーナーだからだ。
 動画配信前のリハーサル画面で、カメラの調子と、神戸かなえが彼と同じ動きをするのを確かめた。配信開始のボタンの上にカーソルが重なった。何度も行ってきた行為なのに、動画配信が始まる前は緊張するのか、彼は唾を飲み、喉仏を動かした。
 配信は、決闘者諸君、とお決まりとなったバカっぽくて恥ずかしい挨拶で始まった。決闘者とは視聴者のことで、こういう特別扱いをしてブランドを作るんだ、と山本は言っていたが、彼は、語感が悪く、恥ずかしいのであまり好きではなかった。つかみの雑談で、山本が指定した、上司に怒られっぱなしのテレワーク失敗談を切り出した。頭に雑談を持ってくるのは、山本曰く、最初に視聴者をキャッチするためだった。もし、それが正しければ、この後の質問箱に回答していくコーナーは、視聴者をリリースしているのだろう、と彼は、神戸かなえの笑顔を作りながら、心で毒ついた。回答の時間は明らかに変なコメントが増え、自分語りをするコメントと、神戸かなえ含めて自分語りをするのを嫌うアンチコメント、そして、それを風物詩とでも言うように煽るコメント、それらでコメント欄が荒れてしまっていた。
 リモートデュエルのコーナーに入ると、視聴者はまた復活をし始めていった。カードゲームで対戦をする者という意味での決闘者が現れるからだろう。彼もデスクの上に置いてある黒のストレージボックスから、カードからドラゴンのイラストが転用された、デッキケースを取り出した。小学生の頃からこのデッキケースを使っているので、プラスチックが一部変色してしまっていた。本当なら、最新で最強のデッキを入れるべきなんだろう、と彼も思っているが、コロナの影響と動画配信に時間を取られ、デッキにしばらく手を入れられていなかった。
 こうして多くの人とリモートデュエルをしていると、カードゲームプレイヤーの性質の変化が彼にはありありと感じられた。特にカード達が作られた時に想定されているわかりやすい動きを行うデザイナーズデッキを使う人が多くなった。また、オリジナルのデッキであっても、決めた動きばかりを行う、扱いがわかりやすいものがほとんどで、カード達が複雑に絡み合い、柔軟に状況に対応して動く扱いの難しいデッキは数少なくなった。それは、衆目に晒され、失敗が許されない、配信下でのリモートデュエルだからかもしれなかったが、それだけの理由にしては傾向が偏っていた。
 今日のリモートデュエルの対戦相手は全てそのようなタイプだった。そして、勝っても負けても、悔いのないような声で、全員とも通信を切っていった。彼はそれをなんだか酷くつまらなく感じた。しかし、それを神戸かなえの口には出さなかった。また、視聴者の誰も、彼の不満に、気づくことはなかった。

 彼は畳の上に寝転がって、スマートフォンでニュースを見ていた。ツイッターのタイムラインも見飽き、めぼしい動画も見た後になっては、2週間前から動画配信を休んでいる彼にとって、唯一の暇つぶしだった。彼は、祖父が新聞紙を朝刊と夕刊ともに、ソファに腰掛けてじっくり読んでいたことを思い出してた。
 大きく取り上げられているのは、デモ隊が街を占拠して作った自治区の開放に、軍を派遣したことだった。なぜこんな事になったのだろう、と彼は思った。黒人が殺されたことに始まる解放運動は、激しいものであったが、納得のいくものだった。そこに、コロナショックで職を失い、黒人であるというハンデのせいで再就職が難しい人々が合流した。これも、当たり前のことだ。賃金というわかりやすい数字だけを見て、リストラを行った経営者の軽薄に問題があった。しかし、ここで略奪という短絡的なで、わかりやすく、そして、暴力的な方法をとった人々がいた。その波に乗る人々も増えていった。批判する側が、批判される側と同じ思考で、悪徳をなすのが、彼にはわからなかった。その結果、暴力は暴力による解決という、わかりやすい結末を迎えた。
 このニュースは、彼にとって、決して対岸の火事ではなかった。彼が動画配信を休んでいることにも、これは関係していたからだ。
 きっかけは些細なものだった。以前に、製菓会社から新商品のピーアールを頼まれたことがあった。そこが自社のツイッターアカウントで「世界のみんなに笑顔を」と、チョコレートの画像と解放運動賛同のタグを付けて、ツイートした。最初は日本の中だけで、小さくバズった程度だった。しかし、リツイートが繰り返されるにつれて、批判がされるようになった。不平等の中で平等であると語ることは、不平等を隠し、固定する行為だったからだ。そして、チョコレートの画像も悪かった。黒人を奴隷としていた時代を思い出させ、また、現在でもチョコレートは低賃金で黒人を農場で働かせる、搾取によって作られたものというイメージがあったからだ。この批判は次第に大きくなり、ついには、元ツイートを消して謝罪をしても収まらないほどの、大炎上に発展した。彼は、その火の子がかかるのを恐れて、動画配信を休んでいた。
「なあ」
 突然、スマートフォンが震え、山本からのラインが届いた。
「そろそろ、動画配信を復活したらどうだ? もう問題は落ち着いたろう。やりたいこともいっぱいあるしさ」
「そうだな。新しいカードも発売したし今日あたりゲリラでやってみるか」
「じゃまたあとで雑談の案を送るよ」
 畳の上に寝転がったまま、彼はぐんと伸びをした。血が彼の指の先までめぐるのがわかった。飛び起きた彼は、チェアに腰掛け、ノートパソコンを起動した。久しぶりに動画配信をするとなって、彼は期待と緊張がないまぜになった高揚感を感じていた。
 彼は手慰みに、新しいカードを入れて強化したデッキをシャッフルしながら、質問箱を開いた。メッセージは二週間開いていなかっただけあって、大量に投稿されていた。いや、と彼は思い直した。投稿が多すぎる、まるでオーバーフローを起こしたプログラムみたいに、ありえない投稿数だった。メッセージを開いてみると、英語やそれに似た言語、彼にはわからない言語で書かれたものもあった。彼には何が起きているのかわからず、とっさに山本へラインを飛ばした。
「そんなバカな。休んでいたのになにか起こしたわけはない。スパムかなにかじゃないか?」
「いやリンクもなにもない。それにキルだとかダイだとか物騒な言葉が使われている。日本語のはそんなことがないのに」
「わかった。とりあえず原因を探してみよう」
 意気消沈したまま、彼は何があったのだろう、と考えてみた。しかし、そんなことには思い当たる節などなく、仕方なしに、神戸かなえの前回の動画配信のアーカイブを見直すことにした。あの薄ら寒い、決闘者諸君、で始まるのは、彼自身がやったことであるのも含めて、気持ち悪いと感じた。彼が、自身の動画配信のアーカイブを見直すのは、初めてで、自分の声がひどく薄っぺらで軽いものに感じた。特に問題なく雑談コーナーは過ぎ、質問に答えるコーナーも、相変わらずコメントが荒れてわいるが、問題なかった。リモートデュエルコーナーはつまらない対戦ながら、盛り上がっていた。今度、良い対戦だけピックアップして、リモートデュエル総集編を作っても面白いかもしれない、などと彼が考えているうちに、アーカイブはなんら問題を起こさずに終了した。
 彼はますますわからなくなった。なぜ、神戸かなえという、小さな日本でほそぼそと動画配信をしている存在が、世界中から批判を受けているのか、その原因の尻尾すらつかめなかった。
 彼がアーカイブの終了画面を、頭を抱えながら見ていたら、このアーカイブにもコメントが付いているのに気がついた。その数は明らかにおかしく、こんなにコメントを貰えるならば、すでに動画配信だけで食べていけるほどだった。やはりそのコメントも、外国語で書かれていた。単語の意味はわからなくても、それらが嫌悪感で書かれているのはわかった。そして、いくつかのコメントは同じ動画へのリンクが書かれていた。
 リンクの動画を開いてみると、それには黒人解放運動のデモの様子が映されていた。活動家らしき人が、何かを叫ぶが、彼にはどんな意味かわからなかった。すると、突然、神戸かなえが表れた。「うへえ、苦あ」と、罰ゲームリモートデュエルで苦いチョコレートを食べた時のシーンが繋がれていた。あとは、活動家が叫ぶと神戸かなえの罰ゲームシーンが流れる、というのを動画は繰り返していた。彼には意味がわからなかった。しかし、この動画がこの騒動の発端であることは、嫌でもわかった。相談をするためにも、山本にこの動画のリンクをラインした。返信を待つ間に、彼は自身の腕が震えていることに、気がついた。
「なんだこの動画は。こんなのが原因なのか。とりあえず著作権侵害で削除申請をしておけよ」
「今日の動画配信はどうしよう」
「僕はもう配信しないほうがいいと思う。このまま続けるのは身が危険だ」
 そのとおりに引退してしまってもよい、と彼も思った。しかし、こんな軽薄な動画のせいで引退しなければならないのは、理不尽とも思った。
 冬は日が沈むのが早く、外は暗くなり、凛とした空気が張り詰めて、月を満ちさせているようだった。この頃になると、明日の仕事が迫ってくるようで、彼は物憂げな表情を浮かべるのが、日の常だった。じかし、土曜日である今日は、明日に仕事はなく、それゆえに、何でもやれそうだった。だから、彼は動画配信を始めた。
 彼は神戸かなえとなって、決闘者諸君、と挨拶をした。視聴者の、お久しぶり、というコメントで、欄が溢れたとき、彼は目に熱いものを感じるほど安心した。
「お久しぶりです。なかなか配信できなくてごめんね。コロナにはかかってないよ。元気、元気。相変わらず、転職したいって言いながら社畜してた。こう言うと勘違いしちゃうかもだけど、勤め先はブラックじゃないよ。給料は出るし、残業も殆どないし、嫌な上司もいないし。じゃあなんでって? なんか、もっと僕にあった職があるんじゃないか、って気がするんだよね。プログラマやってる僕が、本当じゃないみたいな。べつにやりたいことなんてないけどね。専業ブイチューバーか。それもちがうかな。贅沢? 本当の自分を探すのは普通じゃん。本当のままわかりあえれば、それってめっちゃ素敵やん? 自分探しの旅とか笑うなよ。僕が思うに、本当の自分なんてないって思うのは、ただの諦めなんだよ。クソダサくても、探さなきゃいけないんだよ。言葉にならなくたって、絵にも描けなくたって、誰にも理解してもらえなくたって、本当はきっと見つけてもらうのを待っているんだよ。ああ、ごめんごめん。引かないで。教祖とか言わないでよ。はいはいこの話題は終わり。あんまやると炎上するからね。切り抜いてアップロードするのも止めてよ。こういうと、必ずアップロードする決闘者いるけどさ。フリじゃないからね。いいか絶対アップロードするんじゃないぞ。くるりんぱ、と話題は変えるけど、というか、多分気づいている決闘者いると思うけど、ほら、外国語のコメントが流れたでしょ、こんな風に質問箱に外国の方から、メッセージがいっぱい来てるんだ。それも、物騒な言葉使いなのがいっぱい。なにが起きてるのかわからないんだ。うん、企業案件は関係ないみたい。ちょっと、概要欄に動画リンク貼るね。この動画が原因みたいなんだけど、僕にはさっぱりわからないんだ。決闘者の中に分かる人いる? え、動画が削除されてた。そういえば、削除依頼出したわ。こんなに早く対応してくれるんだ。ま、いいよ。あんまり心地良い動画じゃないからさ。いや、動画が心地よけりゃこんな炎上はしないんだけどね。口で説明すると、アメリカのデモあるじゃん、黒人解放運動のやつ、あれで誰かが叫ぶシーンと、僕の罰ゲームリモートデュエルのシーンが、交互につなげてあるんだよね。ね、わけわかんないよね。なんでこんなので炎上するのかな。ああ、バカにしたって勘違いされているのはありそう。でも、こんな軽薄な行動をするのって、そっちのほうがバカにされるよね。本当にね。だけど、実際にこんなことになると怖くてさ。動画配信もちょっと怖い。また、外国語のコメントが流れたでしょ。こうなると身の危険も感じるんだ。え、さっきのコメントは励ましのコメントだったの? そうだったんだ。ごめん、勘違いした。僕も軽薄だった。外国語がわかる頭つよつよ決闘者、ありがとう。それで、すごく残念だけど、しばらくリモートデュエルコーナーは止めとくよ。凸されたら怖いし。だから、今日は雑談だけね。ありがとう。頑張るよ」
 その後、新しく発売されたカードのことを話し続けて、彼は動画配信を終えた。終わった後、時計を見ると、動画配信を始めてから一時間がたっていた。いつもの動画配信と同じ時間で終えたことを、彼は、体に時間感覚が染み付いているな、と面白く感じた。
 話し続けて疲れた喉を、冷蔵庫で結露を起こすほど冷やした水で癒やしていると、山本からラインが飛んできた。
「動画配信やったんだな」
「ああ、思ったより盛り上がったよ」
「あんな炎上をネタにすれば盛り上がらなきゃおかしい。でももっとおかしいのは東上だ。なんで動画配信をしたんだ。そんな危険を冒してでも注目がほしいのか?」
「別にそういうわけじゃないよ。ただ動画を配信するのが本当だと思ったんだ」
「本当とかわけわからん。そんなことより理性で判断しろよ。危険だってわかるだろ。僕は今日の配信を見て怖くてたまらなかったよ。外国語のコメントだってたくさん来てたしさ。正直言えばもう動画配信から手を引きたいくらいだ」
 彼は、山本が裏切ったように感じた。楽しいときはでしゃばっていたのに、辛くなればすぐに手を離す、それが腹立たしかった。
「なら、山本は手を引いてくれ。僕は続ける」
 文章を作ってから、送信ボタンを押すのに、指が震えた。しかし、彼は目を開き、奥歯を噛み締めて、送信ボタンを押した。

 コロナウイルスのワクチンが使用され始め、緊急事態宣言も自粛要請もなくなり、コロナショック明けの新たな生活は、まだ寒い中に草木が芽吹く初春のころ始まった。しかし、生活はそれほど変わらず、道行く人はマスクをし、彼の会社ではテレワークが希望制の働き方として残った。それでも、彼はスーツとマスクを着用し、手がかじかむ中、バスと地下鉄を乗り継いで、会社に出社し、また、日が落ちた伏見のビジネス街で明かりの灯っていないコンクリートのビルを見ながら、帰った。
 彼は、人の少ない帰りのバスで、座席に座り、スマートフォンで転職情報サイトを見ていた。あともう少しで、この会社で働いて三年になった。それは、開発経験が三年に達するということでもあり、それは転職で有利に働くはずだった。探せば、今の会社より条件のいい求人や、物理学部出身を活かせる職場、そして、今の彼とまったく関係のない職場まで、いくつも見つかった。しかし、彼はどれにも応募しなかった。
 スーパーで揚げ物惣菜をいくつか買って、彼は部屋に返ってきた。冷たい廊下のフローリングの先には、彼が必要だと思う、デスクとチェア、ハンガーラックだけある八畳の畳敷きのガランとした部屋があった。彼は、惣菜を白い皿に盛ると、電子レンジに入れて温めた。朝ごはんの残りの少し黄色くなったご飯を茶碗に盛り、惣菜とともにデスクへ持っていって、彼は晩御飯とした。食べながらノートパソコンを開き、転職サイトを見ていると、画面の隅にチャットで相談というタ小さなブを見つけた。どんな人が出るのだろうと緊張しながら、チャットを開くと、少しお待ち下さい、というメッセージを出して、しばらく固まり、彼を焦らした。
「大変長らくお待たせいたしました。どのようなご相談でしょうか?」
「自分にどんな企業があっているのかわからなくて」
「現在のご職業はどちらでしょうか?」
「プログラマとして、ウェブ開発を行っています。でも、なにか自分にあっていない気がするんです」
「ですと他業種をご希望ですか?」
「でもプログラマとして、まだやっていたい気もするんです」
「そうですか。それでしたら一度、適職診断をお受けになってはいかがでしょうか?」
「トップページにあったやつですか?」
「そうです。参考になりますよ」
「ああいうのは、なんというか理想ばっか書いてしまいません?」
「抵抗がありますか? ですが、自分をわかりやすくするだけでも意味がありますよ。案外、自分のことはわかってないものです。占いくらいの気落ちで受けてみてはいかがでしょう」
 彼はチャットを閉じた。アジフライの硬い尾を指先で弄び、力を込めて砕いた。皿に残った惣菜のカスを廊下にあるゴミ箱へ捨て、皿と茶碗、箸は、シンクの中に残る朝食に使った皿たちの中に紛れ込ませた。
 冷蔵庫からピッチャーを取り出して、デスクの上に置き、彼は腰を掛けた。質問箱のページを開き、投稿されたメッセージを見た。
「はやく引退しろ」「そんなにお金がほしいですか?」「女装ちんぽ見せて」「つまらないんだよ。偽物は早く消えろ」「どこかで会おうよ」「こんな姿でやっているってことはホモなんでしょ」「承認欲求でかでか女装野郎」
 山本が手を引いてから、外国語での悪口だけではなく、このような日本語のメッセージも増えた。特に、山本がネット上で、神戸かなえの元プロデューサと、名乗ってラジオを始めてからはひどくなった。
 カメラ上で神戸かなえの姿になるアプリケーションを起動し、動きが動悸するのを確認した。彼が右腕を上げれば、神戸かなえも右腕を上げた。神戸かなえに首を振らせたければ、彼が首を振ればよかった。でも、神戸かなえを笑わせようとすると、なかなかうまく行かなかった。
 動画配信のページを開くと、まず目につくのが、大きなフォントで書かれた視聴者の数だった。彼がそれを見るたびに、数は減っており、山本とやっていた時の半分をすでに下回っていた。リハーサル画面を表示させ、動画配信側でも神戸かなえが彼と動きを動悸させているのを確認し、彼は一度息を吸って、ゆっくり吐いてから、動画配信開始のボタンを押した。
「決闘者諸君。こんばんは。新しいストラクチャーデッキの情報出ていたね。僕のデッキは強化されないけど、必須カードがこれでまた安くなるから、ばんばん再録やってほしい。もう持ってる決闘者は残念だけど、初心者にはそのほうがいいからさ。でも、もうやってる決闘者には優しくないね。こっちにもメリットが必要だね」
 コメントは殆どつかなかった。コメントが止まらない時期があったのが、余計にコメントがない辛さを、増した。彼は自然とうつむき、神戸かなえもうつむいた。
「虚しい。もう、全部言いたい。言ってもいいかな。質問箱にさ、未だに海外から罵詈雑言が送られてくるんだ。それだけじゃない、引退しろとか、女装ホモ野郎とか、そういうのもたくさん送られてきている。確かに、今は一人でやっているし、プロデューサもいたけど、お金のために別れたんじゃないんだ。罵詈雑言がやってくるから、身の危険を感じて別れたんだ。それで、僕はたしかに神戸かなえは女で、中の僕は男だけど、女として扱われたいとか思っていないから。僕は僕として扱ってもらいたいんだ。わかりにくくても、わかりやすく削られていない、僕全体で」

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