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【短編小説】賢人、わからず

 賢人は、アメリカ人の父、ジェイデンと、日本人の母、紫乃を持つ、いわゆるハーフで、マッシュルームのような形の鮮やかなブラウンの髪と、青い瞳をもった、四歳児だ。ジェイデンが作るカリカリで甘じょっぱいベーコンと、ケチャップのかかったサニーサイドアップの半熟目玉焼き、紫乃が焼いたパンを使ったサクサクとして甘い香りのするトーストを朝ごはんに食べた。パン屋を営む紫乃は、朝早くからパンの製造を始めるので、いつもこの時間はいなかった。ジェイデンは新聞紙を広げながら、キャラメルをもっと焦がしたような、思わずつばの出る美味しそうな香りがする、コーヒーを飲んでいた。テレビではポケキンのカードゲームのコマーシャルが流れており、画面では青い空に浮かぶ黄色の太陽に影が浮かび、それが段々と大きなっていった。滑空する赤いドラゴンが影の正体だった。口から赤い炎を吐き出し、ゴロゴロとした大きな岩とふつふつと流れる溶岩を吹き飛ばした。その様が枠に封じ込められて、カードになり、キラキラとプリズムのような光を発した。思わず彼は感嘆の声を出した。ジェイデンが新聞から目を離し、彼の放心したような顔を見て笑い、ティッシュペーパーをつまんで、唇についたケチャップを拭った。
 ジェイデンはテレビを消した。彼はもっと見ていたかったが、言葉が出なかったので、ジェイデンの顔を訴えるみたいにじっと凝視した。ジェイデンは、あと五分だけだぞ、とテレビをつけてくれた。彼は嬉しげな声をもらしながら、なぜ僕のことをわかってくれたんだろう、と不思議に思った。しかし、そう考えてみても彼は答えをだせなかった。ジェイデンは、彼の戦隊ヒーローのスーツを模したパジャマを脱がせ、彼が初めて見る水色の服に着替えさせた。服には赤いチューリップを模したバッジが着いており、ホワイト賢人と名前が紫乃の字で書かれてた。これもまた見たことのない、つばがぴんと真っ直ぐになっている真新しい黄色い帽子をかぶせ、顎に白いゴム紐をかけた。ジェイデンは、かっこいいぞ、と褒めるが、彼は顎のゴム紐が気になるのか、つまんでは離してを繰り返していた。
 ジェイデンも黒いスーツに着替え、青い無地のネクタイを締め、最後にマスクを付けて、さぁ行こう、と彼を急かすように運動靴を履かせた。この靴は甲のところがマジックテープでとめられていて、剥がす時べりべりと心地よい音がするが、それを楽しむ余裕もなかった。彼は銀色の電動自転車の後ろに据え付けられたチャイルドシートに、持ち上げられ、座らされた。複雑なシートベルトを一つ一つジェイデンは確認し、水色の舐め心地の良さそうなつるつるしたヘルメットをかぶせた。ジェイデンもサドルに座ると、進路を右へと漕ぎ始めた。
 彼は、汽車のある公園に行くのだろう、と思っていたが、どうもそうじゃないらしいと、薄々気がついてきた。いつも通る、見上げると体がふわりと地から浮くように気持ちよく胸がざわめく、薄ピンクの桜がアーチのようになった道に行かないで、はんこ屋の角を曲がった。彼はどこに行くのだろうと、期待する気持ちと、どこに行くのだろう、と不安に思う気持ちで、ジェイデンのスーツの裾をギュッと掴んだ。ジェイデンは笑って、父さんを信じてろ、と言い、富士山の滑り台のある公園の脇を通り抜けていった。
 彼が降ろされたのは不思議な場所だった。彼と同じ背丈の子がうじゃうじゃいて、大きな建物に吸われていく。広くなにもない場所に、砂場が二つ、ブランコがいっぱい、その横に少し錆びた救急車がぽつんと停まっていた。ジェイデンは建物のそばまで彼を連れて歩き、背の低いモジャモジャとした黒髪と細い銀縁の丸メガネをかけた若い男に挨拶をした。その男はわざわざしゃがんで、彼の手をとった。
「おはよう。賢人くん。僕は大地先生だよ。ここまでこれて偉いね」
 彼は驚いたように、大地の顔とジェイデンの顔を交互に見た。ジェイデンは、初めての保育園だ楽しめよ、と彼の背中をぽんと優しく叩き、大地にお辞儀をすると、彼らから離れていった。彼は肩に置かれた大地の手を右手で確認しながら、ジェイデンの姿を見ていた。ジェイデンも門をくぐる前に、一度振り返って手を降った。彼は、ジェイデンに戻ってきてほしかったのに、わかってもらえなかった。

 春日井は名古屋のベッドタウンらしく自家用車を使う人が多い。そのため、紫乃はパン屋を始めるにあたって、駐車場を広く取れる場所を選んだ。その狙いは当たり、また、彼女が得意とする完全と名付けられたコンプレの香ばしい旨味に魅入られた遠方の客も来店するようになって、コロナ禍の下でも廃棄のパンが出ないほどの大繁盛となった。そのことは彼女に大きな満足を与え、同時に更に躍進をしたいという欲望も生んだ。それを満たすには、まだ幼い賢人の面倒を見ることが障壁になった。今は、午前中は母の智恵が見ているが、午後からは彼女が面倒を見ていた。もちろんそれが、嫌なわけではない。できることなら、両立したいとは思うものの、それが無理な算段であるのは彼女もわかっていた。彼女はまず智恵にそのことを相談をした。しかし、智恵は、コロナも収まっていないのだから賢人を第一に考えなさい、と取り合ってくれなかった。
 肩を落とした身のまま、賢人に桃太郎の絵本を枕元で読んで寝かしつけ、夫のジェイデンの帰りを待っていた。この家に引っ越してきたときに買った、キッチンの椅子はクッションが薄くてちょっとお尻が痛い。合わせて買った質素な木製の机には、彼女が少しでもキッチンが華やかになるようにと買った白とオレンジのチェック模様のテーブルクロスが敷いてある。隣には賢人が座る子ども用の椅子があり、小さな座面には丸い顔のキャラクターが描かれている。向かいのジェイデンが座るはずの椅子の前には、晩ごはんの甘く味をつけたオムライスがラップに包まれ冷めている。春日井の夜は昼の交通量が嘘のようになくなり暗く静かだ。八田川に沿って整備されたグリーンロードに住むカエルと、隣の部屋で眠る智恵のいびきだけが聞こえてくる。
 ジェイデンは、家族用のワゴン車に買い替えた時に粗品で貰った八角形の時計が八時を指した頃に帰ってきた。背中に青い糸くずがついたジェイデンの黒いジャケットは、彼女がいまだに慣れない強い体臭を持つ彼が着ていたと思えないほど、匂いがなかった。コロナへの対策でデスクワークが多くなり、椅子にかけておく時間が長くなったからだろう。ジャケットを片付けるついで、と彼女はジェイデンがつけている陳腐な無地の青いネクタイと、黒いジャケットと対になっている、黒いズボンを脱ぐように催促した。
 しわしわの白いワイシャツに青い縦縞のトランクス姿でオムライスを食べているジェイデンに、彼女は賢人の面倒と自分の仕事の両立をどのようにしたらいいか、と相談した。
「君も仕事を優先すべきだ。賢人は保育園に預けよう」
 ジェイデンは考える素振りも見せずに、簡単に答えた。彼女もその方法は考えていた。しかし、賢人はブラウンの髪と蒼眼と特徴的な外見を持っているからか人見知りで、夕方に三つ又公園のローラー滑り台に連れて行っても、遊んでいる他の子どもとは遊ばずに、レストルームで休んでいる彼女の元で手遊びをするような子だ。それに他の子どもも遠巻きから賢人を近づきがたそうに眺めるばかりだった。保育園に馴染めるはずがない、外見が原因で疎外されるかもしれない。彼女はジェイデンと結婚したころ、日本からの逃亡者や脱落者のように、後ろ指をさされ苦しんだことがあった。そんな思いは賢人に味あわせたくなかった。しかし、思い込んだら頑固なジェイデンに促されるまま、手続きを進めてしまった。
 賢人が初登園した日の十五時ごろ、彼女の携帯電話に保育園からの電話がかかってきた。賢人が他の子と喧嘩した、と若い男性の声が告げた。相手は同じクラスの男児で、お互いに引っかき傷を作って泣いてしまったらしい。賢人は今は泣き止んでいるが動揺をしているようで、保育士室のソファで落ち着くまで休んでいるとのことだ。
 この電話を彼女は意外だと思った。甘えん坊の賢人ならそのままやられるがままになって、保育士の影に隠れるだろうと思っていたからだ。一方で、彼女は、これはまずいことになった、とも考えた。保育園は彼女の家からも、職場のパン屋からも近い。そこの園児であれば、当然、親もこの近所に住んでいるだろう。このパン屋に買いに来てくれるお客かもしれない。上手い対応をしなければ、親の間で悪い評判が流れて、客足が遠のくかもしれない。ひとまず、相手や園の保育士に謝罪をするために、パンを集めてお詫びの品にしよう、と店頭に並んでいるパンを二つの袋に詰め始めた。

 保育園児は軽く怪我するくらい遊ばせたほうがいい、遊ばせることが子どもにする最高の教育だから、そう言ってはばからない保育園長の赤瀬理沙は、理想とする保育園生活を実現させるべく、園長として運営、指導をしてきた。だから、泣く子の相手をするのはとても馴れていた。保育士室の黒い合皮のソファに座っている賢人に、彼女は屈んで目線を合わせ、彼の林檎のように丸い頬の右側についた、まっすぐな赤い三本の引っかき傷に、消毒液を染み込ませたティッシュを当てた。涙目でまだ鼻をすすっている賢人は、染みて痛いはずの消毒に耐えて、涙をこぼさなかった。長く保育士生活を送っている彼女は、賢人の強さを認め、同時に、一人でいる緊張からくる警戒に気がついた。彼女は笑顔を作り、賢人の頭を撫でてやり、泣かなかったことを褒めてやった。まずは、この保育園が居心地のいい場所と認識してもらおう、それが園児に施す最初の教育だと、彼女は考えていた。
 賢人は少し落ち着いたのか、きょろきょろと頭を動かして、保育士室の中を見回していた。
「見て、あれはトロフィー。あっちはここの旗だよ。大きいねえ」
 彼女は指を指して案内してやった。保育士室には、味気のない灰色で賢人の背ほどもある大きな机が五台あり、その後ろには彼女の背よりも高いキャビネットが、ガラス越しに整然と並ぶ色とりどりのファイルを見せて、立っていた。彼女の後ろには、応接にも使う天面がガラスになっている、どっしりとした木のローテーブルがあり、白にオレンジの花柄の保温ポットが置かれていた。彼女は紙コップを園長席の脇にある引き出しの最下段から取り出し、白湯を注いで、賢人に飲ませてやった。賢人は、ありがとう、とお礼が言えたので、彼女は大いに満足して顔をほころばせた。
「あのね」
 賢人はぽつりぽつりと話し始めた。よく聞くことが大切だ、と他の保育士、特にこの子を担当している経験の浅い大地には言ってきただけあって、彼女は賢人の言葉を反復して相槌を打ちながら、丹念に傾聴した。最初は彼女も話の筋を把握できなかったが、熱心に耳を傾けることで、それが喧嘩の理由を話しているのだとわかった。賢人は幼いながらも、喧嘩をしてしまったことや、手を上げてしまったことを後悔していた。そして、最初に手を上げたのは自分だから悪者だ、とも思っているようだった。
「賢人くんは、竜也くんにどうしたい?」
「仲直りしたい。でも、許してくれるかな?」
「許してくれるよ。ちゃんとごめんなさいしたら竜也くんだってごめんなさいって言ってくれる。そしたら、友達にだってなれる。喧嘩できる友達は大切なんだぞ」
 はにかむように口元に笑みを浮かべ、賢人は首を傾げた。彼女は初めて賢人の笑みを見た。その時、この子はきっと自分でこの喧嘩を解決するだろう、と彼女は確信した。
 心配そうに眉尻が落ちた大地が保育士室にやってきた。大地は賢人の笑顔を見て、安心したのがはっきりと分かるほど眉を大きく跳ね上げた。賢人はソファから跳ぶように降りると、大地の緑色のエプロンの端を掴んだ。彼女はあらあらと賢人が大地になついているのを喜ばしく思った。
「赤瀬先生。賢人くんと竜也くんの親御さんに連絡が付きました」
「ありがとう。賢人くんの親御さんはどんな感じだった?」
「お母さんが電話に出られました。驚かれたようです。登園初日ですから無理もない」
「そうね。でも賢人くんはもう大丈夫だと思う。むしろ、お母さんの動揺が心配だわ。トラブルにならないように、親御さん同士が会わないように配慮してあげて」
 大地は賢人の手を握って、クラスへと戻っていった。園長席の引き出しから、連絡用紙を取り出し、かつての園児から貰った焼き物のペン立てから黒のキャップ付きボールペンを取り出して、ホワイト紫乃さま、と宛名を書いた。今回の喧嘩の結末を落ち着いて見ていただくにはどのように書けばよいだろう、賢人くんの親御さんはまだ若いから私のようにわかってくれるかしら、とボールペンの尻につけたキャップを下唇の下に当てて考えた。

 緑山大地は頭痛がしてくるほど落ち込んでいた。幼い子どもは何をするかわからない。だから、十分に気をつけているつもりだったが、喧嘩を起こしてしまった。大学時代に行った実習で、何が起こるかわからない、と理解したつもりだったが、いざ働き始め、補助とはいえ先生としてクラスを持った途端に起きた事件は、彼にコンクリートのように重い責任感を負わせるには十分だった。
 保育士室からの帰り道、彼が手を繋ぐ賢人は、喧嘩をした児童の一人だが、落ち込んでいるようには見えなかった。彼には賢人が脳天気に思えた。廊下の窓から見える桜の葉を見つめたり、掲示板に貼られている手裏剣の折り紙を眺めたり、きょろきょろと興味の赴くままに世界を見回していたからだ。
 クラスでは園児たちが各々のヒロインのシールを張った少しほつれの見える黄色いかばんや、戦隊ヒーローの缶バッジをつけたシワシワの黄色い帽子を、壁際の青い荷物棚から、取り出している。オルガンを中心に放射状に彼の膝よりも小さな木製の椅子が並んで、持ち主の園児を待っている。
「さあ、賢人くんもかばんと帽子をとってきて、自分の椅子に座ろうね」
 う、と賢人はうなずいて、低い園児用の青い棚から真新しい黄色いかばんと黄色い帽子を取り出した。賢人は周りを見回すように顔をゆっくりと動かした。彼も何を探しているのだろうと同じく見回した。賢人は竜也を見つけて止まったが、竜也がぷいとそっぽを向いたので、しょんぼりと情けない顔をした。こんな時、彼が仲を取り持つべきじゃないか、と思ったが、園児のことは園児に任せるのが園長の方針だから、成り行きに任せることにして、差し出そうとした右手をギュッと握った。
 彼は園児の後ろから、帰りの会を見ていた。おしゃべりしている子らがいれば、近づいて小さな声で、ちゃんとお話を聞こうね、と注意した。帰りの歌では、さよならのうたを園児らをひっぱていくつもりでスタッカート風に歯切れよく大きな声で歌った。彼の目は賢人を度々捉えた。大きな声で彼に負けないくらい元気よく歌う賢人に、子どもの機嫌は山の天気のように変わりやすいな、と思った。連絡帳を返すときに、賢人の隣にすわる橙子が熱心に、名前を呼ばれたら取りに行くんだよ、と教えていた。それを見ていた竜也が苦い顔をしたのを彼は見逃さなかった。竜也くんは橙子ちゃんが気になって、近くにいる賢人くんにちょっかいを出し、喧嘩にまでなったのかな、と想像を膨らまして、そのくだらない理由に笑ってしまいそうなった。
「それじゃ、みなさんさようなら。また明日会おうね」
 大きな声で園児らもさよならの挨拶をした。帰りの会が終わり、友達同士で集まる子らや、我先にと園庭にあるブランコへ駆けていく子ら、クラス主任の保育士はやってきた保護者の応対をしていた。その中で賢人は椅子に座ってかばんの中を見ていた。
「賢人くん、園長先生が用事あるから、ここでもうちょっと待っていてくれる?」
 賢人は恥ずかしそうにうつむいて、うん、と答えてから、また、かばんの中を覗いた。
「かばんの中になにか入っているの?」
「これ、僕の宝物」
 それは、力強くゆらめく目が特徴的な赤い羽毛に包まれた竜のイラストが描かれたポケットキングダムオフィシャルカードゲームのカードだった。そのカードは、彼が小学生の頃に出たカードで、今やプレミアが付き、状態が良ければ一枚二千円はするものであることを知っていた。賢人のカードは縁がボロボロでとてもそんな価格がするとは思えないが、保育園に持ってくるには高価なものであるのは確かだった。
「賢人くん、これは持ってきちゃだめだよ。ほら、宝物に傷がついちゃってる」
「でも、好きなんだもん」
「だめ。ちゃんとお家でしまっておきなさい。みんなも好きだけど我慢しているんだから」
「大地先生も?」
「そうだよ。僕もこの陽眼の赤龍が好きだけど、家においてある。ロケット・チャレンジャーのほうがもっと好きだけどね」
「竜也くんもそうかな?」
「きっとそうだよ。前にアニメの話もしていたから、話しかけてみなよ?」
 賢人は彼に笑顔をみせてうなずいた。その時、ちょうど赤瀬先生が、親御さんへの連絡用紙を持ってきて現れた。賢人はその笑顔のまま、あ園長先生だ、とつぶやいた。
「賢人くん、いい笑顔ね。連絡帳貸してくれる?」
「はい。園長先生もポケキン好き?」
「好きよ。でも、賢人くんにはもっと外で遊んでほしいな。はい、後でお母さんに連絡帳見せてあげてね。絶対だよ」
「うん。約束する」
 そう言って、小指を出し、賢人と赤瀬先生は指切りげんまんをした。
「お母さんだ」
 園児が飛び出さないように閉じている背の低い園門を開けて、賢人くんのお母さんが、大きな白い紙袋を持って現れた。

 紫乃にはこれから起きることを想像して対応を決めておく癖があった。高校時代にバイトしたファーストフード店のキッチン時も、有名なブーランジェリーで未熟なパン職人として働いた時も、有用に働く癖だった。今もその癖は、保育園に着いたらまずは保育士に迷惑をかけたことを謝って、賢人の傷の具合を見て、相手の保護者にも謝罪して、と歯車がぐるぐると回る工場の機械のように対応を作っていった。銀色の電動自転車で歩道を走るのに、頭がそんなことでいっぱいになっていることを、危険だと思うことすらできないほど対応のことを考えてしまい、彼女の不安はどんどん大きくなっていった。前カゴに積んだ白い紙袋に入ったお詫びのパンだけが。全てを丸く収める彼女の希望だった。
 保育園の前には井戸端会議をしている主婦らしきお母さんたち、向こうの保育園の駐車場からはお父さんらしきシャツ姿の男がこちらに向かって歩いてきていた。誰が賢人の喧嘩相手の親だろう、あの井戸端会議の主題は賢人のことではないだろうか、あの子の見た目は黒髪黒目の日本人ばかりの保育園では目立つものだから主題になってもおかしくはない、思えば思うほど彼女は不安の底なし沼にずぶずぶと沈んでいくようだった。彼女は、契約に来た時よりも、背の低い彼女の胸よりもさらに低い保育園の園門を、とても通り難いものに感じていた。
 園門を苦汁をなめる顔で開けて通ると、遠くで賢人の彼女を呼ぶ声がはっきりと聞こえた。園庭を挟んで向こうの教室にいる賢人の顔はグリンピースほどの大きさにしか見えないのに、林檎のように丸い頬についた鋭く赤い三本線がはっきりと分かった。思わず彼女は、子どもたちが鬼ごっこをしている園庭を小走りで抜けて、賢人の元へ寄った。
「賢ちゃん、大丈夫?」
 彼女が、保育士も目に入らず、心配で居ても立っても居られない苦痛の表情で、しゃがみこんで目線に合わせ賢人に尋ねると、意外にも笑顔で大丈夫と答えた。彼女はホッと息をなでおろし、賢人の右頬の傷を左手で撫でたところで、保育士と赤瀬園長に気がついた。
「こんにちは。保育士の緑山大地です。賢人くんも喧嘩してすぐは動揺していたんですが、今では落ち着いているようです。帰りの会でも大きな声でお歌を歌ってくれました」
「ご迷惑をおかけしました。これはつまらないものですが、うちのパンです」
 彼女は白い紙袋から、オレンジ色で店のロゴが印刷されたビニールの手提げ袋を取り出した。しかし、大地はそれを受け取ろうとしなかった。
「すみません。そういうものは受け取らない決まりになっているんです」
「それに、園児が喧嘩するなんて日常茶飯事ですよ。むしろ、喧嘩するくらい元気じゃなくちゃ。子どもってのはそうやってわかり合っていくものです」
 赤瀬園長はそう笑って言うけれど、彼女は心配で仕方なかった。人見知りの賢人が初めてあった他人と喧嘩したのが意外で、これはなにか大きな原因があるからだ、と思えて仕方なかった。賢人がいじめられないためにも、しっかりと謝罪の意を示したかった。
「あの相手の保護者様はいらっしゃいますか?」
「竜也くんなら、少し前に保護者の方が見えられてもう帰られました。でも、気にしないでください。向こうも、子どもがすることだから、とおしゃってました」
 遅かった、そんな言葉が彼女の頭を真っ白にさせた。
「お母さん、大丈夫?」
 賢人が彼女の左手を握って尋ねたので、自分の顔が心配されるほど心配の苦痛で浮かないのに気がついた。パンが無駄になってしまった。これは良いことなの彼女にはかわからなかった。それでも、賢人の前でおろおろしてはいられなかった。
「大丈夫だよ。どうもご迷惑をおかけしました。今後ともよろしくおねがいします。ほら、賢ちゃん、先生にさよならして」
「先生、さようなら」
「はい、さようなら。先生たちとの約束忘れないでね」
 園庭のブランコに座り保護者に押してもらっている女児が彼女の目に入った。その子のバッジは赤く賢人と同じクラスの子であった。保護者と目があったので彼女は会釈し、向こうも自然にニコリと笑って会釈をしたが、賢人は女児にさよならの挨拶もしなかったし、女児もしなかった。
「賢ちゃん、さようならしなさい」
「でも、あの子の名前わからないもん」
 さようならだけでもいいの、と言い聞かせて、賢人はようやく大きな声で女児にさようならが言えた。しかし、彼女は賢人が同じクラスの子の名前を覚えていなかったことが、気にかかった。賢人は物覚えの良く、彼女が同じ年齢だったころ覚えられなかったポケキンのモンスターの名前を、安々と諳んじるほどだった。原因を考えてつく先は、見た目の差異による差別、いじめ、そんな中に賢人は幼くして入れられてしまったのではないだろうか、それを行ったのは私じゃないか、そんな危機感だった。
 保育園の前では来た時から全く変わらず井戸端会議が続けられており、歩道を塞がないように遠慮がちに自転車たちが並び、そのチャイルドシートにはどんぶりくらいの大きさの子ども用ヘルメットが色とりどりの塗装の上にシールが貼られて置かれていた。彼女は電動自転車の前カゴにパンの入ったバッグをしまった。雨に濡れて色の抜けたポケキンのシールが側頭部に一枚ずつ貼られた蛍光イエローのヘルメットを彼女は賢人に被らせてから、後ろのチャイルドシートに抱き上げ、座らせた。こうして見ると賢人は普通の日本人の子どもみたいだった。どうして周りは賢人をわかってくれないのだろう、ため息でその言葉をかき消した。
 パンと賢人、そして彼女を載せた自転車は思いの外軽く進み出し、彼女の心配を笑い飛ばすようにスピードを増した。通り道にある富士山の滑り台がある公園では、賢人と同じく保育園の水色のスモックを着た子らが、山の斜面を登ったり、ボール遊びをしていた。賢人の顔こそ後ろに座っているので見えないが、興味を惹かれていないのは親である彼女にはわかった。
「賢ちゃん、保育園はどうだった?」
「楽しかった」
「良かったね。お友達はできた?」
「まだ」
 アパートの一階にある小さなはんこ屋の角を曲がると、八田神明社の鬱蒼とした鎮守の森が見えた。石造りの鳥居を左手に過ぎたときに賢人が、お地蔵様、とつぶやいた。小さな駅のホームみたいな小屋に、お地蔵様が五尊肩を寄せ合うように立っていた。賢人はなぜか寄付をすることが好きで、コンビニに一緒に買物に行くと必ずおつりの十円をレジ上の寄付箱に入れたがった。彼女が賢人を自転車から降ろしてやり、十円玉を五枚渡すと、一尊ずつ丁寧にお賽銭を収め手を合わせて拝み始めた。彼女は信心深くはないのでここに賢人を連れて来ることもない。母の智恵に面倒を見てもらっているときに、散歩で立ち寄っていたのだろうか。彼女も十円玉を一枚ずつ収めて、手を合わせ、賢人を見た目からの差別から守っていただけるように願った。

 智恵は趣味のクラシックギターを爪弾くよりも、賢人と遊ぶことが毎日の楽しみだった。この春日井で彼女は四人の子どもを育て上げ、全員が独り立ちし夫が肺炎で先だった時は、誰かの世話はもう十分だ、と思ったが、子ども好きな性格もあってか、目に入れても痛くないほど可愛い孫と一緒に過ごしているうちに、世話をすることがまた楽しくなってきた。こうなるなら長男家族からの、関東で彼らの孫を一緒に世話して老後を過ごすという提案を、無下に断る必要もなかった、と考えることもあったが、今年六十四になる身では勝手のわからぬ地は負担になるし、なにより住み慣れた春日井であるから孫の面倒も十分に見てやれるのだ、と彼女は結論をだしていた。
 細く節くれだった指とマニキュアを塗ったように光沢のある爪を軽やかに動かして、彼女は父からもらったクラシックギターでグラナダを演奏していた。グラナダはスペインの都市らしいが、彼女は行ったことはなかった。しかし、曲が思い浮かべさせる薄暗い街路を照らす戸から漏れ出た暖かな光と熱気を含み街を撫でる風が、想像のグラナダを彼女の中に作っていた。彼女も曲名にもなった本当のグラナダに行ってみたいとは思うが、彼女にしかわからない想像のグラナダも味わい深いものだった。曲の最後に吹く下風を弾いて、彼女はふうと息をつき、窓の向こうを見た。太陽もだいぶ西にずれ、午睡するにはよい暖かな光が、彼女一人の家のリビングに降り注いでいた。もうすぐ賢人が帰ってくるだろう、と戸棚から黒飴やキューブチョコレート、豆の海苔巻を木製のお盆にいれて机の上に置いた。それから、お茶を淹れるために笛吹きやかんを火にかけ、沸騰を知らせる音が鳴ろうかぐずぐずしているところで、インターホンが鳴った。すぐにコンロの火を消して、玄関へと向かうと、そこには頬に三本直線の赤い傷を作った賢人とパンがたくさん入った白い袋を持った紫乃がいた。
「おかえり。元気に遊んできたね。保育園は楽しかった?」
「楽しかった」
 賢人は紫乃のズボンをきゅっと握って見上げてそういった。彼女が賢人の頬をたわわになる林檎を抱えるように包むと、手が乾燥してザラザラするのか少し嫌がりながらも笑った。
「それじゃ、お母さん。賢人のことお願いね。七時には帰れると思うから」
「あい、わかったよ。気張ってき」
 紫乃はしゃがみこんで賢人の頭を撫でると、夕方の買い物時間に合わせて動き始めたパン屋へと玄関を出ていった。賢人は母がいなくなっても泣き言一つ言わない、手のかからない気丈な子だ、とよく泣いた幼い紫乃を思い浮かべて彼女は感心していた。
「ま、おやつにしようか。お茶淹れとったでよ」
 急須で出した渋みの強い伊勢茶が彼女の好みだが、賢人にはまだ渋すぎるのか嫌がるので、電子レンジで牛乳を温めてやった。どこで覚えたのか、賢人はホットミルクにチョコレートを二、三個入れて銀色で柄の先に王冠のついたティースプーンでかき混ぜていた。
「賢ちゃんは賢いねえ。頬の傷はどうしたん? 転んでまったか?」
「ううん。竜也くんと喧嘩して引っかかれたの」
「そりゃ良くない。仲直りはできたの?」
 彼女が渋面を作ったのは、熱い伊勢茶を飲んだせいばかりではなかった。
「まだ。しようと思ったけど、竜也くんを見るとできなくなっちゃう」
「そうかね。じゃ、明日は仲直りできるといいね」
 チョコレートを溶かしたホットミルクを賢人の小さな口で頬張ると、うれしそうにほんわか口に笑みを浮かべた。仲良くなれない不安よりも仲直りできる期待のほうが賢人の中で勝っているのだろう、本当に気丈で前向きな良い子だ、と彼女は微笑ましく思った。
「志郎おじさんおるだろ? あの子も賢ちゃんくらいの頃に外国人の友達と大喧嘩してな。手の甲に引っかき傷を作って、英語がやったって泣いたことがあったんよ。でも、仲直りしてな、その子とすごく仲良うなった。賢ちゃんも竜也くんとは友だちになれるでよ」
「僕ね、竜也くんにプレゼントしたいの」
「物をあげるのは関心せんよ。言葉のほうが大事だがね」
 そうは言ったが、パンを贈り回る紫乃によく似た賢人の考え方が親子らしくて、彼女の顔に笑みが現れていた。彼女は飲みやすい温度になったお茶を一口飲み、甘辛い豆の海苔巻を口に放り込んだ。それを見ていたのか、賢人は菓子盆に手を伸ばし、同じく豆の海苔巻をつまんで、ぽりぽりと小気味いい音を出しながら噛んでいた。
「僕ね。思うんだけど、竜也くんにはグリーン・アルケミストが似合うと思うんだ」
「なんだいそりゃ?」
 賢人は深く座ると足が浮いてしまう台所の子ども用の椅子から飛び降りると、リビングへトテトテと軽い体が踏み締める音を立てて歩いていった。ガサゴソとしまってあったブロックが崩れる音や落ちたボールが弾む音が止むと、賢人は彼女のもとに駆け寄り、幼児が抱えるには少し大きい坂角の黄金缶を差し出した。中には賢人の短い人生で集めたカードが入っていた。
「ポケキンのモンスターでね。このカードだよ」
 それにはベルトでできた籠手を着けた男が片手に緑色の竜巻を乗せて不適に笑うイラストが描かれていた。彼女にはごちゃごちゃとしていてカッコ良くは見えなかったが、それが賢人の宝物であることは知っていた。
「それをあげちゃうのかい? 宝物なんだろ?」
「僕は使ってないし、竜也くんに似ているから」
 カードに似ているなんて感覚は彼女にはわからなかった。だけど、賢人にはわかっているのだった。彼女は、自分の想像のグラナダのように、誰にもわからない賢人の世界を、面白いものだ、と思った。
「賢ちゃんのものだ。好きにしなさい。でも、仲直りはしなくちゃいけないよ」
 賢人が元気よくうなずいたのに、頭を撫でることで彼女は答えた。
「そいじゃ、買い物に生協に行こうか」
「ナフコの方がいいな」
 食玩が生協には売っていないことを覚えていた賢人のいたずらっぽい笑顔に彼女は笑った。紫乃が昨日書いた買い物メモを財布に入れるついでに、彼女は小銭入れに十円玉が五枚あることを確認した。

 生協にはポケキンのガムのついたフィギュアが置いていないことを賢人は残念に思っていた。しかし、生協で買い物を終えた後に店内の奥にある休憩所で紙コップ式自販機のアイスココアを飲みながら、置いてある星の図鑑を読みながら智恵に解説することは、いっぱい褒めてもらえるので彼は好きだった。もうひとつ、休憩所にある足の高いアルミのカウンターチェアに乗せてもらい、高い視点から店内を見ると、背の低い彼の視点からはわからなかった冷凍ショーケースの中に冷凍食品の金属質な輝きをするパッケージがあることや、棚の上にあって見えなかったソースボトルのラベルのデザインを見られて、大変面白かった。
 生協からの帰り道は彼が必ず買い物袋を持った。買い物袋がパンパンに膨れ上がって重いとき、智恵が手伝おうとしても、彼一人で持つと言い張って勝手にずんずんと歩いていくほどだった。ネットの破れからこぼれ落ちた野球ボールが転がるバッティングセンターの裏を通ってまっすぐ進み、タイヤのブランコやハンモックのアスレチックが設置されている大きな公園の脇を抜けていった。
「賢ちゃん、見てみ。白い花が咲いとる。きれいだがね」
 智恵が指差す右手の方へ顔を向けてみると、ウェディングドレスを着た花嫁みたいに純白の花をいっぱいまとった白鼠色の木たちが、目の端から端まで並んで見えた。彼は眩しいほど澄んだ白にみとれて声が出なかった。体が地から浮いてふわりと飛んだ錯覚や、リトルワールドでサーカスが浴びていた万雷の拍手喝采を幻聴した。口を閉じるのも忘れ彼はその光景を見つめていた。
「なんの花かわかる?」
「わかんない」
「あれはすももの花。本当に綺麗だわ」
 彼はすもも、と口で一度反復し、それから心のうちで何度も繰り返した。
 残りの道程、彼は智恵にすももの花を見たとき感じた驚きを話し続けた。普段なら覗くフォークリフトが唸りを上げて走る食品会社の倉庫や、次の日曜日にジェイデンが買ってくれると約束したサメの顔がデザインされたソフトグライダーが店先に吊るされている小さな駄菓子屋に彼が興味を示さなかったほどだった。
 彼ら家族が住む一軒家は、紫乃が子どもの頃建てられた古い木造の平屋だ。屋根の瓦は地震対策に黒く重いものからオレンジ色の軽い瓦に葺き替えられており、彼がこの家を思い浮かべる時、一番に思い描くのはこの屋根だった。星空のような模様ガラスのはめ込まれた玄関の引き戸を智恵が開くと、彼が駆け込むように入って、小さな運動靴のかかとを踏んでベリベリと足の甲でマジックテープを剥がして脱いだ。智恵が丁寧に手を使ってオレンジの散歩靴を脱いでいる横で、彼は玄関にバラバラと転がった大切な靴を並べ直したが、置く向きを間違えてつま先が廊下を向いていた。
 台所に買い物袋を置いて、踏み台を使いシンクで手を洗うと、すぐに彼は居間の白く毛の長い絨毯の上に座り、すももの花に満たされたあの空間と、すもも、という音を思い浮かべた。すもも、、きれいだったなお母さんに見てほしいな、お父さんは驚くかな、竜也くんも見たら僕みたいに驚いてくれるかな、とみんなにわかってもらう方法に思いを巡らせていた。

 パン屋のシャッターを閉め、暖炉の日を思わせるオレンジがかった照明の下で、今日の売上とレジに残ったお金が合うか、紫乃は焦る気持ちを抑えて確認をしていた。馴れた作業なのに、賢人のことが頭でちらついて、電卓を叩く指が彼女にはもたついて感じられた。そのせいか、彼女が店から出た時間はいつもより遅く、既に日が遠くに青く見える山脈に落ちようとしていた。
 銀の電動自転車にまたがり、彼女は帰り道を急ぎ走った。体に悪そうな臭いがぷんとするガソリンスタンドのある交差点を曲がり、バッティングセンターの脇を通り抜けて裏道に入った。小学生の時から何度も通っているこの裏道は、新しい家族のために背の高いマンションができ、お化け屋敷と噂していた空き家は取り壊され、何もなかった荒れた空き地は大きな公園に整備され変わっていた。パンの焼き具合を把握するために敏感になった彼女の鼻に、新しいことを始めるときに鼻の奥でするような甘酸っぱい香りが触れた。香りの先に振り返ると、すももの花が満開になって咲いていた。この畑は昔から変わらずこの時期になるとこんな光景を見せてくれる、と懐かしい美しさに彼女は笑みを浮かべるほど感じ入った。彼女は賢人に、昔と変わらず美しいこの光景を話すため、ペダルを強く踏んだ。
 家の玄関をガラガラと引き開けて入ると、廊下の向こうからトテトテとフローリングの床を小走りに蹴って彼女のもとに賢人がやってきた。彼女がただいま、と言うと、おかえり、が返ってくるのがなんとも愉快に感じた。台所からは煮物の甘じょっぱい匂いが漂ってくきた。母の智恵が晩御飯を作ってくれたのだろう。今日は彼女が晩御飯を作るつもりだったが、賢人の初登園や喧嘩で気が疲れていたので、それを予期して気を利かせてくれた智恵の優しさが嬉しかった。
 キッチンの子ども用の椅子に賢人を座らせ、彼女も席に座ると、智恵は机の上に鍋を載せた。中身は肉じゃがで、智恵が作るものは牛肉や人参ではなく鶏もも肉とごぼう、そしてバターが入っていた。体の小さい賢人の分の肉じゃがは軽く、疲れてお腹がぺこぺこな自分にはたっぷり、食が細くなった智恵にはほどほどに彼女はよそった。ここに体が大きくその分食べるジェイデンがいれば、この鍋に肉じゃがは残らなかっただろう。賢人が喧嘩したことを電話した時、今日は早めに帰ると言っていたのに、ジェイデンは晩御飯に間に合わなかった。しかし、それはいつものことだった。
 食事が終わり、彼女は賢人の好きなポケキンのキャラクターが描かれたお椀や、小さいものに買い替えた智恵の青い茶碗を洗っていた。智恵はリビングで夫を失くしてから好きになった刑事ドラマを見ており、賢人はキッチンに方眼ノートを持ってきて色鉛筆でお絵かきをしていた。
「賢ちゃん。お母さんね、帰ってくる時いいものを見たんだ。白いお花が咲いた木がいっぱいあってね。赤ちゃんの賢ちゃんと一緒に見に行ったの思い出して、綺麗だったよ」
「すもも?」
「そう。よく知っているね。賢ちゃんも見た?」
「うん。これもそう」
 洗い物を終えた彼女は、シンクの近くに干してあった米屋に粗品で貰った店名の入った白いタオルで手を拭きながら、賢人が描いていたノートを覗いた。そこには、色鉛筆の濃い黒で輪郭を描かれた白い花をまとったドラゴンが目を瞑って眠っていた。
「すももドラゴン。白い花がみんな眠らせちゃうけど、自分も眠らせちゃうの」
「かわいいね。白い花がよく描けてる」
「そう。この白がいいの。眩しいのに幸せで眠くなっちゃう白なんだ。すももみたいに」
 彼女は賢人の隣に座り、ポケキンならどのくらい強いの、と聞いた。
「うーん。陽眼の赤龍よりは弱いけど、月眼の青竜よりは強いくらい。レベルは八かな」
 彼女が小学生の頃、ポケキンのテレビゲームで対戦をしたり、シールを集めて交換をしたりしたことを思い出し、賢人もいつか一緒に遊ぶ友達を見つけて遊ぶのだろうか、などとふと思った。その後、賢人の初登園が上手く行かず、喧嘩までしてしまったことを思い出した。
「保育園で楽しいことあった?」
「鬼ごっこをしたんだ。でも、喧嘩もしちゃったけど」
「どうして喧嘩しちゃったの?」
「竜也くんが、茶髪の不良だ、ってずっと鬼にするから、引っ掻いちゃったんだ」
 賢人の口から出た、茶髪、という言葉が彼女には辛かった。普通の子なのに見た目が少し違うだけでどうしてわかってくれないのだろう、と悲しくなった。
「でもね、竜也くんは悪い子じゃないんだよ。いろんな遊びを知っててみんなに教えてくれるんだ」
「それじゃ、明日は仲直りしなくちゃね」
「うん。明日は仲直りだ」
「それじゃ、お母さんと約束。竜也くんと仲直りすること。喧嘩はもうしないこと。他の人を引っ掻かないこと。ゆびきりげんまん、うそついたら」
「はりせんぼんのます、ゆびきった。あ、そうだ」
 賢人は椅子から弾けるようにポンと勢いよく降り、キッチンのフローリングの上をトテトテと軽い体を揺らして走っていく。隣のリビングで智恵が小さく驚いたような低い声がし、賢人の謝る細く高い声が聞こえた。戻ってきた賢人は、保育園に持っていく幼児用の小さな若草色の連絡帳を、右手に抱えていた。
「先生がこれお母さんに見せてって」
「なんだろう」
 根拠のない嫌な予感が冷たい指で、彼女の背中をなぞった感覚がした。恐る恐る連絡帳を開いてみると、ひらひらとメモくらいの小さな紙が舞い落ちた。拾ってみると、それには連絡用紙と大きくポップなフォントで印刷されており、その下に大きさの揃ったきれいな手書きの字が並んでいた。内容は、小さな子どもが喧嘩をするのは普通のことで親は心配せずいつもどおり接してほしい、というもので、最後に、園長赤瀬、と締められていた連絡用紙に寒い孤独を癒やす日向の温かみを感じた彼女は、赤瀬園長の心配りを嬉しく思った。

 既に夜の帳が下りた春日井駅前のバスターミナルは、蛍光灯の明かりがあってもアーケードが古く、もともとの白がサビやススで汚れているせいか、どこか薄暗く感じられた。ジェイデンは、自分と同じようにスーツを着ている男性たちと同じく、バス停に並んでいた。スーツの袖をまくり、父から譲り受けたメタルバンドのフォーマルな銀色の腕時計の文字盤を確認した。七時十分過ぎ、もうすぐバスが来る。保育園で賢人が喧嘩をした、と夕方に妻の紫乃が電話をしてきたとき、彼女の声は、納期直前に予期せぬエラーが起きてしまったときのように、慌てふためいたものだった。賢人も心配だが、彼には紫乃のほうがより心配だった。なんとか仕事を早めに終わらせたが、それでも家のディナーには間に合わず、紫乃の代わりに料理をしてやることも叶わなかったのが、悔しかった。彼には弱気になると、締めている肌触りのいい青色のネクタイを締め直す癖があった。これは、賢人が生まれた時に、これから家族の生活を背負う覚悟を示すために、彼が買ったものだった。彼の右から強い白光が照らしつけた。真四角な顔におしろいを塗りたくり、紅で隈取を入れたようなコミカルなバスが、彼らを乗せるために停まった。
 彼を乗せたバスは、錆びたシャッターの目立つ鳥居松商店街を進んでいた。運良く席に座ることができた彼は、植物にも見える青いポールの街頭が流れていく様を、賢人と紫乃は落ち着いているだろうか、と逸る気持ちで眺めていた。
 賢人の喧嘩で頭にちらつくのは、彼の血を継いで日本人とは違う賢人の「見た目」だった。彼もそのことにはうんざりしてきた。コロナの蔓延する祖国に両親を残してでも、日本で働くことを選んだ彼も、外人という「見た目」でくくられ軽く扱われてきた。コロナ禍で人々の距離が物理的に離されてから、よりくくりが強くなった。言葉でしかわかりあえない時、わかりやすい「見た目」ほど便利なものはない。しかし、その影響で、祖国では暴動にまで発展した。そんな世界で「見た目」のハンデを持つ賢人の行き先が心配だ。だから、喧嘩になったんじゃないか、そう思えて仕方なかった。そうではないと希望的に否定しても、頭の片隅にはその思いがしつこく残っていた。
 バス停で降りると、普段なら閉店して暗い生協に、まだ電気が灯っており、会社帰りらしきスーツを着た人たちが買い物をしているのに、気がついた。紫乃の好きなパウンドケーキでも生協で買っていこうか、と考えながら彼も入っていったが、会員カードがなければ買い物ができないことを思い出し、何も買わずにレジの横を素通りするのに引け目を感じながらも裏の出入り口から外に出た。街頭もない暗い裏道に、煌々とライトを照らしたバッティングセンターが、カーンと歯切れがよく気持ちのいい打撃音を鳴らして、右手にあった。左手の奥にはモンスターでも出そうなくらい暗い八田神明社が見えた。春日井の市街地は、まるでサイコロを振って作られたように、無秩序であまり合理的な美しさはなかったが、それも日本的で彼は好きだった。暗い裏道を進んでいくと、よく整備され雑草ひとつない広場がある公園が、パステルカラーのモザイクタイルで彩られた公衆便所ひとつだけ、寂しそうに明かりを灯しあった。今度の日曜日に、ソフトグライダーを飛ばして遊ぶ約束を賢人としていることを思い出し、ここでは狭いかもしれない、と考えを巡らせていた。
 ふと、反対側を見ると、奥のアパートの白い階段灯を背に受け影で黒くなっている、小さな花を溢れんばかりにつけた木が、ふんわりと地を覆うようにたくさん植えられていた。よく整備された美しい風景に、思わず、彼は感嘆の声を漏らした。彼は幼い頃、母に連れて行ってもらったカイカットの庭園を思い出した。あれは学校を仮病で欠席して行ったはずだ。母はその時、学校より大きな世界を見なさい、と言った。きっとこれは、その言葉の通り、大きく考えて余計な心配をするな、という神のお告げなのだろう。彼はそう解釈し、紫乃や賢人、智恵は見ただろうか、話ができるだろうか、と家族の待つ家に帰るのが、さっきまでの急ぐ気持ちから、楽しみへと変わった。
 オレンジ色の屋根が特徴的な我が家は、少し黄色かかった玄関灯に照らされていた。日本的なレトロさを感じるすりガラスがはめられた玄関扉を引いて開けると、廊下の奥のリビングにつながる扉から、賢人が覗いていた。その顔には三本の赤い糸のような引っ掻き傷ができていたが、賢人の表情は朝より良い、朗らかなものに見えた。
「ただいま。賢人。保育園はどうだった?」
「パパ、おかえりなさい。保育園、楽しかった」
 賢人は特撮ヒーローのフィギュアを両手で恥ずかしそうに口元あたりで持ったまま、はにかむように笑った。彼は嬉しそうな笑顔で、賢人の頭をくしゃくしゃと右手で撫で回すと、そのままで抱っこをした。まだ賢人の体はまだ軽く、片手で持ててしまうが、保育園に初めて行って、自分と同じように逞しい男になった気が、彼にはした。
 キッチンでは紫乃が、肉じゃがを温め直して、彼を待っていてくれた。右手で抱いていた賢人は、彼が下ろすとフローリングの床をトテトテ鳴らし、リビングの智恵の元へ、右手のフィギュアが滑空している音を口で出しながら、歩いて行った。彼は、コンプレッサが静かに唸りを上げているライトブルーの大きな冷蔵庫の上段の扉を開き、キリンの缶ビールと昨日入れて冷やしておいたグラスを二つづつ取り出すと、そのまま、定位置にあるドーナツクッションが備えられたチェアに腰掛けた。
 紫乃が盛り付けてくれた、バターの香りがする肉じゃがと、山盛りのご飯、それと日本に来て一番に好きになったガリを食べながら、斜向かいに座りビールを飲んでいる紫乃の眉間にシワの寄った顔を、彼は眺めた。
「紫乃はいつ見ても、かわいいよ」
「ありがと。でも、そんなことないわ。醜いものよ。賢人のことが心配で、正直、辛い。だって、あのおとなしい賢人が喧嘩したんだよ。保育園の先生は心配いらないなんて言うけど、そんなふうにはできない。あの人達からすればたくさんの園児の一人だけど、私達からすれば唯一の子どもなんだから」
 彼はガリの辛い後味を、キンキンに冷えたビールで飲み下し、一息ついた。
「僕も賢人が喧嘩をしたのには驚いているよ。でも、男は誰でも喧嘩をするものだ。むしろ、しない方がおかしいと言っても良い。だから、紫乃も慣れなきゃいけない」
 リビングから賢人の元気な笑い声と、紫乃の静かな笑い声が聞こえてきた。思わず彼は振り向いて、そののどかさに微笑んだ。紫乃を見直してみると、彼女も微笑んでいた。
「本当は、心配じゃないとは、わかっているんだけどね」
「仕方ない。僕たちはお父さん、お母さんとして新米なんだから」
 彼は肩をすくめるジェスチャーをした。紫乃はその言葉を聞いて、ビールにもう一度口をつけた。紫乃の眉間にシワはもう寄っていなかった。紫乃の顔に安心した彼が食べた肉じゃがの鶏肉はとても美味しかった。肉じゃがの具をすべて食べてしまってから、まだまだ残ったご飯に、肉じゃがのつゆをかけ、味をつけて、彼は全て平らげた。
 使った食器を暖かいお湯を出して洗うのが、彼の日課であり、家に帰ってリラックスする合図でもあった。アメリカに住んでいた頃は洗い物など好きではなかったが、日本に来てお風呂でお湯に触れる気持ちよさを知ってからは、お湯に触れられる洗い物が好きになった。洗い物を終え、ハンドタオルで手を拭っていると、紫乃が、スーツ片付けようか? 
と聞いてくれたが、賢人の喧嘩で気が疲れているだろうから、自分でやるよ、と伝えて、ベッドルームのクローゼットに自分でかけ、青い無地のネクタイはできるだけシワが伸びるように伸ばしてからしまった。
 白いワイシャツと、青と白のストライプのトランクスだけの姿になった彼は、リビングで紫乃と積み木を積んでは崩して遊ぶ賢人をお風呂に誘った。賢人は返事をすると、積み木をおもちゃ箱に詰め込んで、カーペットの床をポフポフ踏みしめて彼のもとに駆け寄ってきた。
 脱衣所で服を脱ぐ時、彼は賢人の体に他の傷がないか観察をしたが、他に血を出しているところも、アザになっているところもなかった。洗い場の鏡の上につけられた大きな電灯は、温かみのあるオレンジの光を放ち、乳白色のタイル張りの床と、マッドな白い樹脂の壁を照らしており、プラスチックのツルンとした素色のバスタブに溜まったお湯は青みがかっており、大きなすりガラスの窓だけは夜闇の真黒の色をしていた。彼はバスチェアに座って、賢人に、滲みるぞ、と言いながら頭からシャワーを浴びせた。賢人は口を引き締めて動かなかったが、シャワーを止めると犬みたいに頭を振って水滴を飛ばして笑ったので、彼は嬉しくなった。
 全身を洗って、清潔になった彼らは向かい合わせなって、バスタブの中でお湯に浸かっていた。真正面に見る賢人の顔についた三本の引っかき傷は、お湯の暖かさで高調した頬の上にあっても、赤く目立つもので痛々しく彼には見えた。
「賢人。頬の傷はもう痛くないか?」
「ちょっとムズムズする。お父さん、もう僕は喧嘩しないよ」
 こちらの気を察したような言葉に、彼はぎょっと驚いたが、しばらくして笑えてきた。
「喧嘩ぐらい男なら誰だってするさ。喧嘩することは悪いことじゃない。でも、暴力を振るうのはダメだ。引っ掻いたり、悪口をいったりな。そんなことしちゃ仲直りもできないだろ?」
「じゃあ、僕、竜也くんと仲直りできないの?」
「わからない。お父さんは竜也くんじゃないからね。でも、まずは謝らないとな。それが一番大事だ。賢人、できるな?」
「うん、ちゃんとする」
「さすが、僕たちの賢人だ」
 彼らは、肩までお湯に浸かり、十まで大きな声で数えて、お風呂を出た。

 居間の隣の寝室で賢人を紫乃が寝かしつけていると、家の中はとても静かになった。智恵も普段であれば寝る時間であるが、時間が経ちだいぶ落ち着いてきたとはいえ、賢人が喧嘩したことで、未だ緊張が完全に溶けているとは見えない娘夫婦と話すため、居間のリクライニングチェアに腰掛けニュースを見ながら起きていた。天面が大理石の重厚なローテーブルを挟んで、娘婿のジェイデンはソファに座り夕刊の新聞紙を読んでいた。ジェイデンは口では平気な風を装っているが、風呂を上がってからも、目で賢人を追っていたところを見ると、意外にも気にしているように思えた。
「ジェイデンくんはポケキンは知ってるかい?」
「ええ、もちろん。賢人も好きですし、僕も子どもの頃はカードに夢中になっていました」
 ジェイデンは広げていた新聞紙をきれいに畳み、ローテーブルの上に置いて、彼女の方へ身を乗り出した。彼女は、次男が小学生の時に、ポケキンのカードを輪ゴムで束ねた束を持って、公園で友人たちと何やら遊んでいたことを思い出し、国は違えどジェイデンくんにも似た過去があるか、と発見した気持ちになった。
「賢人くらいの子はみんなやっているのかね? あの子はずいぶん好きみたいだけど」
「そうですね。男の子は遊んでいる子が多いみたいです。まだ対戦相手は僕だけですが、賢人もいずれ友達と戦ったりするのでしょうね。それは少し寂しい気がしますが」
「遅かれ早かれ、子は親から離れるもんだで、気にしたらあかんよ。あんたらは賢人に近すぎるで、距離ができるのも体験したほうがええ」
 僕もですか、とジェイデンは残念そうな顔をしてから、やおら笑い出し、彼女もつられて声を出さずに歯を見せて笑った。外からやってきた娘婿も、彼女の子どもたちと同じく、自分と似たところがあるように感じた。ジェイデンは、心配をおかけします、と鮮やかな金色の短い髪の生えた頭を、バツが悪そうに掻きながら、彼女に謝った。
「賢人は幼いなりに、喧嘩してしまったことを受け止めとるみたいだでね。仲直りの印にカードをあげたいなんて言っとった。物をあげるのは関心せんがね」
「賢人がですか。どんなカードをあげたいと言ってましたか?」
 ギター弾きらしく爪の厚い人差し指を、彼女は自分の右こめかみに当てて、目をつむり、思い出そうとした。グリーンアルケミスト、という名前を思い出したときには、彼女は思わず両手を胸の前で打ち合わせた。
「そんな、弱いカードをですか。不思議ですね」
「ポケキンのことは私にはよくわからんけど、みんな遊んでいるんだろう? それが一緒に遊ぶきっかけになればいいさ。でも、賢人がものをあげる癖をつけたらあかん。ジェイデンくんはどう思う?」
「賢人は大丈夫です。僕たちが見ていますから、そんな癖はつけさせません。賢人も賢いですから、ちゃんと教えれば考えて行動してくれるでしょう」
「じゃあ約束だよ」
 彼女はにっこり笑って、右の小指を立て顔の前で振ったが、その意味が伝わらなかったのか、ジェイデンはキョトンした間の抜けた顔をしていた。彼女はなんだか恥ずかしくなり、テレビのほうを向いた。間仕切りの引き戸を開けて、賢人を寝かしつけ終えた紫乃が、居間に入ってくる時彼女の顔を見て、お母さん変な顔をしてる、とくすりと笑った。
 テレビが流すニュースは最後の天気予報のコーナーに入った。明日は快晴になることを聞いて、彼女は、仲直り日和だ、と思った。彼女が流し目で見たソファでは、ジェイデンを相手に紫乃が、晴れならパンの生産を増やさなきゃ、と面倒くさそうな顔で言っていた。ジェイデンは心配そうな顔をして聞いているが、紫乃は実はパンが売れるのが楽しみにしているのを、彼女はよくわかっていた。二人に夕食の頃までついていた緊張が、ほどけているのに彼女は安心した。
「そろそろ寝るでよ。テレビは好きにして頂戴。おやすみね」
 彼女が立ち上がると、リクライニングチェアはもとに戻ろうと、背を起こしながらキュと音を出した。おやすみなさい、という娘夫婦を残して、彼女は廊下に出た。自室は、寝室から行けば近いが、通れば賢人を起こしてしまうかもしれないので、彼女は遠回りを選んだ。玄関を通るとき、そこに置いてある靴が少ないのが、靴が多かった彼女の子どもたちが幼かった頃を思い出させた。その賑やかさが今日賢人が起こした騒動と重なり、また賑やかになっていくか、としみじみと愉快に思った。

 小鳥のさえずりに似た電子音を、白っぽい木目を塗装されたデジタル時計が鳴らしていた。ジェイデンは軽い羽毛の掛け布団を右手で払い除け、そのままの手でアラームを止めた。体を起こしてみると、親子川の字で寝ていたはずが、一番奥の壁側で寝ていた紫乃の姿はなく、綺麗にたたまれた布団は紫乃の残り香すら残していないだろう。紫乃は開店に間に合わせるように、パンを焼くためにすでに仕事場に向かったのだろう。これは毎日のことで、寝ぼけやすい彼にもすぐに分かった。彼の左隣に敷かれた小さな布団では、掛け布団を上手に丸め抱くように眠る賢人が居た。すぐに彼の目についたのは、右の頬についた三本の赤い傷だった。賢人は日本人で日本語をしゃべる、日本と異なった国で育った彼とは全く異なる、そう知っていても、日本にやってきた頃に彼が体験した、外人と内に入り込めない孤独感を、賢人も感じているのだろうか、と不安に思った。しかし、それは賢人が腑に落とす必要がある、と彼は考えていた。
 彼は立ち上がり、窓から差し込む朝日の黄色い爽やかな光を遮っている、インディゴブルーの厚いカーテンを、舞台の始まりのように、勢いよく思い切り開いた。レースのカーテン越しでも、強い光がさんさんと畳敷きの寝室に注ぎ込み、賢人の顔にもかかった。うっすらと賢人は目を開けて、眩しさを嫌ったのか、布団に顔を押し付けてまだ寝ようとした。彼は賢人の耳元で手を打ち鳴らして、朝だ、と起こし立ち上がらせると、彼の左人差し指と中指に手を掴ませて、洗面所に向かった。
 洗面台はお風呂の脱衣場にあり、ツルツルして冷やっこい白陶器の水受けと、色を合わせた白い樹脂の収納棚でできていた。真ん中にある大きな鏡には、明るいブラウンの髪が寝癖で頂点だけ立っている彼が歯磨きをしている顔と、そのずっと下に踏み台を使っても顎のあたりが鏡に映らない賢人の小さな顔があった。上下に並べてみると、賢人は彼によく似ており、薔薇のように赤い厚く赤い唇などそっくりだった。一方で、髪質や耳の形なんかは紫乃に似ていた。彼は子ども用のちいさなプラスチックのカップに水を入れ賢人に渡すと、自分も白い陶器のコップに水を汲んで口を濯いだ。賢人の大きさでは水受けを使って顔を洗うことができないので、フェイスタオルに水を吸わせ、彼が拭いてやる。頬を拭う時、染みるぞ、と彼は言ったが、賢人は平気な顔でわらってへっちゃらと言った。彼は痩せ我慢かと思ったが、引っ掻き傷の細い二本はかさぶたも取れて治りかけてので、痛くないのだろうと解釈した。
 キッチンでは智恵が、昨日の肉じゃがをスープカレーにアレンジしているところだった。今日のように朝の体操の集まりがない日は、智恵が朝食を作ってくれることが多い。賢人が大きな声で朝の挨拶をし、彼が続いて挨拶をした。智恵は少し驚いたような素振りを見せたが、目を細めて笑いながら挨拶を返した。彼が冷凍庫から紫乃が作ったバゲットを取り出す時、智恵は賢人に聞こえないちいさな声で、こう尋ねた。
「賢人は昨日の夜どうだった?」
 電子レンジにバゲットを入れて解凍モードを開始させながら、彼は昨夜から今朝の賢人の様子を思い出したが、特におかしなことはなかった。
「そうかね。次女なんかは喧嘩した後は夜に泣いたものだけどね。賢人は図太いね。良いことだ」
「賢人も男ですからね」
 彼は電子レンジからバゲットを取り出し、二センチほどに厚さに切った。紫乃のバゲットは硬いのが特徴で、このくらいの厚さが食感と小麦の味とのバランスが一番良い。後ろでは賢人がテレビをつけて、朝の子ども向け情報番組を見ていた。ポケキンの新しいカードのコマーシャルになると、昨日と同じく驚いたような声を出しているのが可愛らしかった。
 スープカレーとバゲットのトーストを食べ終えると朝の身支度を始めた。賢人がテレビの番組が変わっても見続けているので、テレビの電源を彼がリモコンで落とすと、状況がすぐに飲み込めないのか、リモコンをじっと見ていた。智恵に賢人の身支度を任せ、彼はパジャマを真っ白く折り目のたったワイシャツと、シワのないスーツに着替え、ネクタイを賢人が仲直りできる願いも込めて、思い入れのある無地の青いネクタイをしっかりと締めた。
 青いスモックと黄色い保育園カバン、手には黄色くつばのピンと張った帽子を持った、保育園児の格好した賢人はなかなか様になっており、背筋が伸びた感じが、私服より格好良く彼には見えた。銀色の電動自転車の後ろにつけられたチャイルドシートにしっかりと賢人を座らせると、前のカゴに自分の黒く四角い仕事カバンと、賢人の黄色いカバンと帽子を入れ、彼は漕ぎ出した。
 後ろに賢人は目につくものの名前を口に出していた。彼が問題を出しても、賢人は、駄菓子屋、救急車、などと正しい名前を口にするので、賢いな、と誇らしく思った。
「あれは、なんだい?」
「すもも!」
 そこには華美にならないようにちゃんと手入れされた、すももの畑があった。彼はそこに自転車を止めた。彼が見た夜の姿とは違い、白く小さな花は日光を浴びきらびやかに輝いているようだった。あれだけ美しい花を咲かせるなら、想像もできないくらいきめ細やかな管理がされているのだろう、とその美しさに改めて感服した。
「お母さんが、ここのすももが好きだって昨日話してくれた。お父さんも好き?」
「もちろん。とても綺麗だね」
「なんか見ていると気持ちいい。きっと、すももドラゴンが眠らせようとしているんだよ」
「それは危ない。行こう」
 彼は昨日とは違う道を漕いでいった。八田神明社の手入れのなされていない暗い境内を右手に見ながら進んでいくと、五尊のお地蔵様が祀られた小屋と、朝露で輝いている石造りの鳥居があった。その前のT字路を左に曲がってしばらくするとはんこ屋があり、そこが通り道で始めての信号になった。赤信号で彼は止まった。通り道を分断する道は、繁華街へと伸びており、個人で使うような普通車が途切れることなく、流れていった。
「すももドラゴンはどんなドラゴンなんだい?」
「きれいなドラゴン。そのきれいさでみんな眠らせちゃうんだ。でも、自分も眠っちゃうの」
「そりゃ、キュートだけど恐ろしいね。グリーン・アルケミストとどっちが強いんだい?」
「すももドラゴンのほうがずっと強いよ。陽眼の赤龍には負けちゃうけど」
 信号が青になり、彼は自転車を進めた。
「お祖母ちゃんから聞いたけど、竜也くんにグリーン・アルケミストをプレゼントしたいんだって?」
「うん。ダメかな?」
「ダメじゃないさ。賢人が決めたことだ。でも、グリーン・アルケミストは弱いから気になったんだ。もっと強いカードにしたらどうだ?」
「でも、竜也くんはグリーン・アルケミストみたいに何でも知ってるの。似てるんだから竜也くんが使っているところが見たいんだ」
「そうか。それはいい考えだ。でも、竜也くんに似てるって言わないほうがいいな」
「どうして。こんなに似ているのに」
「どうしても。竜也くんに使ってほしいって言えばいいんだ」
 富士山の滑り台がある公園が左手に見えると、すぐに保育園の動物の絵が描かれたベニヤ板の掛けられている緑色のフェンスが見えた。保育園の正面にある道路は、園児と手をつないだ保護者で溢れており、とても自転車で通るには危険だったので、彼だけ下りて自転車を押して近くまで向かった。子どもというのは元気なもので、まだ朝早いと言うのに、園庭からは追いかけっ子をして笑っている、高い声が聞こえた。賢人はその声にも興味を示さず、なにかご機嫌で、チャイルドシートに座っていた。賢人はこんなにおとなしくて、仕返しに顔をひっかくような竜也くんと仲良くなれるだろうか、と不安にも思ったが、それは少年にはよくある試練で、それは自分自身の力で解決しなければいけないんだ、そう彼は自分自身に言い聞かせ、不安な思いを飲み込んだ。
 背の低い園門を開けて中に入ると、辺りの園児たちが彼の顔を見ているのに気がついた。田舎と都会の中間にあるこの町では、まだまだ外国人は珍しいのだろう、とわかってはいるが、外人だ、と聞こえてくるのはあまり良い気分ではなかった。それでも、向こうで大地先生が彼と賢人に手を振ってくれたのは嬉しく、彼は手を振って答え、賢人にも手を振らせた。
「おはようございます。ジェイデンさん。賢人くん。昨日はお疲れだったでしょう」
「お気遣いありがとうございます。この子が迷惑をかけてすみませんでした」
「そんなことはありません。よくあることですし、子どもの成長にはこういうことも必要ですから」
 大地先生はしゃがみこみ、眼鏡越しに賢人に目を合わせて、賢人の手を取り語りかけた。
「賢人くん。今日は何したい?」
「えっとね。竜也くんと仲直りしたい」
 そうだね、と大地先生は満面の笑みを見せ、賢人も緊張が解けたように歯を見せて笑った。彼は、大地先生に賢人をお願いすると、彼も賢人の目線に合わせてしゃがむと、謝って仲直りするんだぞ、と念を押した。賢人がそれに笑顔で頷いたのに、彼は満足してその場を離れた。園門から出るときに、もう一度、賢人がいるはずのクラスの辺りを見ると、脱いだ靴を外の下駄箱にしまう姿が見えた。今日は手を降ってくれないか、と少しさみしかったものの、賢人の成長が嬉しくて、彼は自然と笑っていた。彼はそのまま自転車で、紫乃が働いているパン屋へ向かった。紫乃に賢人の様子を伝えると共に、キスをするのが、彼の毎朝の楽しみだった。

 初登園をしてから間もない園児は、殆どが保護者のいない寂しさに泣いてしまう、もしくは、まだ慣れない保育園の教室に興味津々で落ち着きがないものだが、賢人はぼうっと呆けたように椅子に座っており、他の園児に声もかけず、気ままにマイペースを保っているようで、大地は安心するとともに、その態度を羨ましいと思った。彼が気にしているのは、賢人が来るよりも早くに登園し園庭へ遊びに出ていった竜也と、賢人が鉢合わせることだった。もう喧嘩にはならないだろうが、すぐに仲直りできると彼には思えなかった。それは、二人の顔に引っかき傷がまだ残っており、喧嘩の理由をぶら下げているのに仲直りすることは大人にも難しいからだ。
 チャイムが鳴るとともに、彼は教室にいる園児たちに、園庭に出るように促した。この保育園の朝は朝礼で赤瀬園長のお話を、園庭に背の順で整列して全員で聞くことになっていた。年中組は手前から二番目に並ぶが、チャイムが鳴って先生に促されたからと言って、遊んでいた園児がすぐに静かに整列できるわけはなかった。彼は、前ならえするときはどうするんだったかな、と園児に声をかけ、おしゃべりをしている園児たちには注意をして回った。賢人は周りをきょろきょろと見回していたのを、昨日保育園に来たばかりで前ならえの意味も知らないから、周りのマネをしようとしているのだろう、と、彼は考えたが、手を真っ直ぐ伸ばすことや、拳二つ分空けることなどを教えても、まだきょろきょろと落ち着かなかった。
「上八田保育園のよいこのみなさん。おはようございます」
 赤瀬園長がマイクを使って話し始めた。彼は園児たちの後ろに立ち、おしゃべりをしたりしないように、しっかりと見守っていた。そこからは賢人の様子はわからなかったが、背が高く後ろの方に並んでいる竜也が、所在なさげに足先で園庭の砂を集めて山を作っては崩して遊んでいることは彼にはよくわかった。それ自体は別に注意するようなことではないが、先程の賢人といい、昨日喧嘩をした二人ともが落ち着きないのが、まるで噴火前の地震のように思えて、彼には気にかかった。
 赤瀬園長のお話が終わり、体操が終わった。教室ごとの朝の会をやるために、園児たちを並んでいる順に教室に移動させるのだが、スムーズに事が進むことは、彼が実習で保育をしていたときから一度もなかった。おしゃべりを始めて動かない園児や、教室に入らず外で友達を待つ園児などがいて、並び順は崩れてしまうから、彼は下駄箱に立ち、まずは教室に入るのを促していった。賢人もそんななかなか教室に入ろうとしない園児の一人だった。賢人は、教室に入るんだよ、と橙子が教えても、生返事をして、後ろの方を眺めていたので、彼は気になって目線の先を追ってみると、そこには苦い顔をした竜也がいた。すぐに、賢人は仲直りをしようとしている、と彼は気がついたが、だからといって、賢人だけ立ち止まったままにさせるわけにはいかず、橙子に話しかけられて嫉妬されている時に竜也とは仲直りができないはずだ、と自分自身に言い訳をして、賢人に教室に入るように注意した。
 朝の会では、出欠を確認し、連絡帳を回収するのだが、全ては主保育士が行うので、彼はときどきそっぽを向いている園児のそばに寄って小さな声で注意するだけで、ほとんどを教室を眺めて仕事を覚えるばかりだった。朝の会の最後は歌を主保育士が演奏するオルガンに合わせて歌う時間になっていた。彼は園児が真似しやすいように、スタッカートを意識して、言葉の輪郭をはっきりするように大きな声で歌った。歌を園児と一緒に歌うのが、全員と気持ちを通わせているようで彼は好きで、よく主保育士に、園児より元気に歌っている、と褒められることがあるほどだった。
 朝の会が終わると、園児たちは自由遊びの時間になり、主保育士と共に、園庭へ駆け出していった。彼は連絡帳の山を持って保育士室に戻り、連絡帳の中身の確認と報告書の作成を行わなければならなかった。廊下の窓からは、砂場ではおままごと、広場ではおいかけっこ、ジャングルジムの上で特撮ヒーローの変身ポーズをしている園児や、フェンス近くに生えているクローバーを集めている園児など、思い思いに遊んでいるすがたが見えた。彼は、遊ばせることが子どもにする最高の教育だ、と思っており、だからこそ、園児たちとすぐに遊べないことが、歯がゆく思えた。
 保育士室には赤瀬園長と、彼と同じく連絡帳の確認をする他の学年の補助保育士がいたが、園児たち集まる教室とは違って、針を落とした小さな音でも聞こえそうなほど静かだった。連絡帳の確認とは言っても、保護者の連絡欄は任意記入なので、ほとんど書かれていることはなく、ただ数が多いだけで、彼には退屈な作業だった。竜也の連絡帳にはなにか書かれていることを彼は期待したが、何も書かれてはおらず、保護者の大雑把さを表しているように思えた。
「緑山先生。賢人くんの連絡帳になにか書いてあった?」
「いえ、まだ確認していません。ご覧になりますか?」
 彼は積まれた連絡帳の山を崩して、賢人の連絡帳を探し出し、赤瀬園長に渡した。
「安心しただって。連絡用紙を挟んでおいてよかった。賢人くんのお母さん、昨日お会いした時はだいぶ動揺してらしたものね」
「そうですね。賢人くんはちゃんと約束を守って、連絡帳をお母さんに見せたんですね。あとで褒めてあげないと」
「そうね。褒めてあげて。あの子はしっかり者だから、そこを伸ばしてあげないとね」
 彼は、賢人がしっかり者、というのがしっくりこない気がした。ぼうっとしていることも多く、ポケキンの高価なカードを保護もせず持ってくるなど、抜けているところがあったからだ。賢人はまじめ、と彼は頭の中で言い直して、その言葉のハマりように満足した。
 連絡帳を確認し終え、報告書が完成したのは、作業を始めてから三十分ほどたった頃だった。園児たちはさっきまでの遊びに飽きて別の遊びをしているかもしれない、おにごっこからだるまさんがころんだに替わっているかもしれない、園児が遊び回っている園庭を想像して、さあ遊びに行くぞ、と彼は気合を入れた。保育士室前の下駄箱で履いているゴムのスリッパから、使い込んだボロボロのスニーカーに履き替えると、彼は園庭へ駆け出した。
 彼が園庭に姿を現すと、すぐに凍り鬼をやっている園児たちが、彼のもとに駆け寄ってきた。若い彼は園児からすれば、一緒に駆け回って遊んでくれる楽しい先生だった。園児たちが、あれをやろう、これをやろう、と遊びを提案をしてくるのが、彼にはとても微笑ましかった。しかし、その中に、年中組では一番遊びを提案するのが好きな竜也が居ないことが気にかかった。園庭を見回してみると、寄贈された古い救急車の近くで一人、きょろきょろと何かを探すように歩いている竜也を見つけた。竜也の様子を不思議に思ったので、駆け寄ってきてくれた園児には悪いが、ちょっと用事があるから、と彼抜きで遊んでもらい、竜也のもとへ彼は向かった。
「竜也くん、何か探しているの?」
「探しているっていうか。あの、賢人はどこにいるのかと思ってさ。昨日、喧嘩しちゃったから遊ぼうと思ったんだけど、見つからないんだ」
 仲直りをしようとしている竜也の力になりたくて、彼も周りを見たが、賢人の目立つブラウンの髪が、園庭には見つからなかった。園庭は広いと言っても、園児たちが危険に巻き込まれないように死角が無いよう作られており、大人の背たけをもつ彼が、見渡して見つけられないのはおかしなことだった。先生が探しておくから遊んでおいで、と竜也を遊ばせて、彼は賢人を探した。しかし、砂場にも、フェンス近くのクローバー畑にも、救急車の裏にも、賢人は居なかった。他の保育士に行方を尋ねても、やはり行方はわからなかった。まだ保育園に来て日の浅い賢人が園庭から抜け出すとは、彼には考えられず、不思議に思うと同時に心配になった。その時、ふと教室に戻っているのではないか、と思いつき、確認してみると、教室の荷物棚の側で、自分のかばんの中身を見ている賢人を見つけた。
「賢人くん。探したよ。今はお外で遊ぶ時間だよ。さあ、行こう」
 彼が声をかけると、賢人は驚いたような顔をして、かばんを自分の後ろに隠した。
「もしかして、持ってきちゃいけないもの、持ってきちゃった?」
 賢人はうつむいて、悲しそうな声で、うん、と肯定した。彼は靴を脱いで教室に上がり、賢人のかばんの中身を確認すると、ポケキンのグリーン・アルケミストのカードが入っていた。このカードは昨日の陽眼の赤龍とは違い、レアリティが高いわけでもなく、彼の記憶では一枚百円ほどの安いカードだった。しかし、昨日、ポケキンのカードを持ってきてはいけないと約束し、また、保育園にはおもちゃは持ってきてはいけない決まりになっていたので、心苦しいが彼は賢人を優しい声でしかり、そのカードを帰りまで預かることにした。

 赤瀬理沙は一人、保育士室の奥にある園長席で、わずかに聞こえる園庭で遊ぶ園児たちの甲高い声を微笑んで聞き、今日の晴天と皆の健康に感謝をしていた。遊ばせることが子どもにする最高の教育であるから、こんな楽しそうな声を聞くことは、園長として園児の成長を見守る彼女にとって幸福なことだった。先程まで連絡帳の確認作業をしていた補助保育士たちも、全員、園庭へと向かった。彼らにも、子どもを遊ばせるとはどういうことか、この保育園で働く日々で答えを見出してほしい、それを叱咤することが、保育士とは違い、園長の肩書をもつ彼女の仕事だと自負していた。
 湯呑の茶が切れて、新しいお茶を入れていると、園庭で子どもたちを遊ばしているはずの大地が、保育士室に戻ってきた。なにかトラブルが合ったのだろうか、と彼女は心配になり、大地に訪ねたが、そんなことは起きてはおらず、ただ、賢人が持ってこない約束を破ってカードを持ってきたので、それを預かり、汚れないように保育士室に保管に来たのだと言った。見せてもらうと、そのカードは縁がよれて白くなったところもあり、とてもきれいなものとは言えなかった。
「別にすぐに保育士室に保管しなくても、外遊びの時間が終わってからでも良かったのよ」
「大したこと無いカードですけど、賢人くんには宝物だと思うんです。だから、僕がぞんざいに扱うわけにはいきません」
「それはいい心がけね。でも、カードなんて取り上げるくらいでもいいと思う。子どもたちには考えて遊ぶ才能があって、それを私達は伸ばしてあげなきゃいけない。でも、こういうのは、遊ばされてお金を使わされるだけで、考えなくてもいいじゃない。そんなものは、子どもに与えちゃダメ。そうでしょう?」
 大地は笑っていたが、彼女には苦笑のように、抗議する言葉を飲んで権威に平伏した表情に見えた。こういうとき、彼女は常に飲み込んだ言葉を吐き出すようにすすめた。教育とは、与えることではなく共に作り上げる行為だ、と彼女は信じているからだった。
「僕は、あくまでも僕はですが、悪い遊びはないと思っています。悪い遊びがあるのではなく、悪い遊び方がある。良い遊び方を教えるのが、教育だと思うんです」
 彼女は、大地の過去や今ではなく未来に賭ける考え方を、若い、と思った。彼女のように、間違えられない地位では、その行い難い考え方はできるはずもなかった。しかし、彼女にも、大地のように考えていた過去があり、その正しさを知ってもいた。だから、大地の発言を否定も訂正もせず、彼女は尊重した、と同時に、考えがあるなら飲み込むのではなく発言しなければならない、と叱った。
 大地から預かった賢人のカードを、透明なビニール袋にしまい、園長席の机の上に敷かれたゴムマットの裏に曲がらないように、そっと彼女は隠した。大地はすでに保育士室を後にして、園庭へと向かった。彼女も、連絡帳の報告書類を後一枚目を通したら、園庭に向かって園児たちと遊ぶつもりだった。彼女はもう走り回れる年ではないが、一緒に野草を取って名前を教えたり、鳥の声を聞かせたり、やれることはまだまだあった。そうして、一緒に遊ぶことが、今の彼女の一番の望みだった。
 彼女が園庭にでると、こんなに明るい声があったのか、と思うほど、園児たちは遊びながら笑い声を出し、それがとても心地よかった。広場で遊ぶ園児たちと大地のどろけいを邪魔しないように、外周をゆっくりと彼女は歩いた。紫の小さな花をつけた藤が甘い香りを放ってぶら下がる花壇には、ずんぐりとした熊ん蜂が蜜を集めるために数匹飛んでおり、それに石を投げて遊んでいる園児たちがいたので、生き物に石を投げちゃダメ、と注意をした。砂場では、園児たちが縁のレンガに座っておままごとをやっていた。お母さん役の橙子が、子ども役の賢人をかまっていたが、彼女には賢人の顔はどこか不機嫌に見えた。
「賢人くん。おままごと苦手なの?」
「そんなことはないよ。でも、グリーン・アルケミストが大地先生に取られたから」
 グリーンアルケミストと聞いても、彼女にはピンとかなかったが、大地先生と言われて、ああ、と気がついた。賢人はあのカードのことを気にしているのだろう。それでは、楽しいおままごともうまくやれないはずだ、と彼女も合点がいった。
「大切なんだね。帰りの会で返してくれるから、それまで我慢だよ。ほら、先生と返すやくそくげんまんしよう」
 しかし、賢人はふるふると頭を振った。小さな人差し指で、足元の砂をほじくって、悲しそうな震える声を出した。
「あのカードはね。竜也くんにあげようと思ってたの。仲直りって。でも、あのカードがないから仲直りできないし、一緒に遊べないし」
 そんなことはないよ、と言って、仲直りのやり方を教えることは簡単なことだが、彼女は、賢人が自分で考えた計画を遂行する経験をさせることは、遊びを考えて行うように、教育して伸ばしてやるべき能力なのだと思った。
「賢人くん、こっちについておいで」
 彼女は賢人にあのカードを今すぐ返すことを決めた。他の子、特に大地先生には秘密だよ、と少しいたずらっ子ぽく、言いながら。

「竜也くん」
 賢人は赤瀬園長からグリーン・アルケミストのカードを返してもらった足で、園庭でぼうっとしていた竜也のもとへと向かい、声をかけた。竜也は、最初はぎょっと驚いた顔をしたが、少ししてぶっきらぼうに、なんだよ、と答えた。
「昨日は引っ掻いたりしてごめんなさい」
 竜也は彼の顔を見て、更に驚いたように目を見開いたが、その後の顔は、彼には泣き出しそうに見えた。
「俺の方もごめん。あんなこと言って。賢人くんを見たときから、なんか、もやもやしちゃって。それは嫌な感じじゃなくて。それで、誰かが賢人くんと仲良くしてると、もやもやが強くなって。そっちは嫌な感じで。上手く言えないけど、それであんなこと言っちゃったんだ。本当にごめん」
 彼は良かった、と笑って、竜也に手を差し出した。竜也も笑ってその手を握り、固く握手をした。彼は竜也の手がとても暖かいことに驚いた。
「それとね、竜也くんはポケキンやってる? このカードを竜也くんに使ってほしくて持ってきちゃった」
 竜也は渡された、グリーン・アルケミストのカードをまじまじと見た。が、そのカードを彼の手に返した。彼は不満そうな顔をしたが、竜也はそれを見ても笑ったままだった。
「カードは要らない。それより、俺の最強デッキと勝負しようぜ。カードを持ってきたんだから、デッキもあるんだろう?」
「もちろん。一軍から三軍まであるよ」
 彼は竜也と保育園から帰ったら、富士山のすべり台のある公園で。もう一度集まって、ポケキンで遊ぶ約束をした。そして、竜也は彼の手を引いて、他の園児と大地がやっているどろけいの輪へ連れて行った。彼は、竜也がなにか自分を勘違いしていると感じた。しかし、ガッツポーズを取りたい程の仲良くなれた嬉しさに比べれば、気にならなかった。

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