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【小説】ふたりの部室神話《ブシツソロジー》

まえがき

この小説は、2023年にミタヒツヒトがコミッションサイト「Skeb」にてリクエストをいただいた小説を改稿したものです。

※縦書きPDFのダウンロードには¥100頂戴しておりますが、無料で最後までお読みいただけます。

頂戴したリクエスト内容は、

「祈り」をテーマにした短編小説を書いてください。 (何に対する、どのような祈りかは、おまかせします。) 主人公は10代の女の子でお願いします。

です。(リクエスト内容は公開情報であるため、文脈を残しておく意味でこちらも掲載させていただいております)

自分では書かないテーマなので、難産かつだいぶ長めとなってしまいましたが、楽しく書かせていただき、このまえ読み返したら意外と好きな感じだったので改稿してこちらにも投稿しておこう、と思った次第です。

納品がぎりぎりとなってしまい、ご心配のDMまでお送りいただくことになってしまい依頼者さまにご迷惑をお掛けしてしまうこともございましたが、このような機会をいただけたこと、この場を借りて御礼申し上げます。

(また、ミタは仕事で本の組版をしておりまして、縦書き小説単行本のフォーマットに組版したバージョンもご用意しました。縦書きと横書きでは読み味も違うかと思われるので、「ふーん」という感じでお楽しみいただけるかもしれません。記事の末尾の¥100の有料ゾーンにPDFをご用意しましたが、課金して得られるのはそれだけです)



  プロローグ


 暗い嵐の夜だった。
 正確にはそれは夜ですらなくて、主観でそう見えたというだけだった。
 朝とか昼とか夕方とか、時間すらない場所は塗りつぶされたみたいに暗くて寒くて、それをわたしは夜みたいだと、そう感じたというだけ。
 冷たくて黒い風が吹くたび、ほこりっぽい砂が舞い上がって、残ったわずかな視界さえ奪ってゆく。
 疲れ切った手足の冷えきった末端は、細かいひっかき傷でぼろぼろだった。冷たい風が吹くたびに傷がしみて、さびしい痛みが走る。
 それでも必死で体を引きずって、わたしはただ先を目指した。行き先があるわけじゃなくて、それをしなければ真っ暗な中に落ちていくだけだと、本能的にわかっていたから。
 向かい風は、ますます冷たく、鋭くわたしに吹き付けた。
 もしわたしに瞳があったならば、瞳ごと切り裂かれてしまうような、つむじ風。
 そのとき、わたしは闇の中をさまよう不定形の影でしかなくて。
 おびえて凍えていて、そして、あまりにも無目的だった。
 何者でもなく、ゆえに何も目指せず、このまま苦しんで最後には吹き消えてしまうほかない、そんな自分の運命が悲しくて。
 でも、どうしようもなくて。
 そんな風に消えていく、無数の影の一つがわたしだった。
 そのとき、あのドアを見つけたんだ。磨りガラスのはまった引き戸は、唐突にそこにあった。
 ガラスの向こうにはあたたかいもの——わたしにとって、初めての光が見えた。
 形のないからだを必死で伸ばす。きっとこれが腕であり、そして手であると信じられるかたちをめざして。
 そうやって作った腕は、その指先は、わたしはどんなに醜いだろう。けれど、それでもやることにした。どんなに不格好でも、ドアを開きたいから。初めての勇気を振り絞るときだった。
 小さなくぼみ——ドアの取っ手を引いた。やっと開いた隙間に飛び込んだ。そこに何があるかなんて考えもしなかった。
 そこに彼女がいたんだ。
 薄暗いけれどどこかに明かりの灯った、そこはちいさな一室だった。
 彼女は眠っていた。わたしは声にならない声で、それはことばですらなかったのかも——何かを言った。
 ことばらしきものが部屋の空気に溶け出してかたちを失ったあと、わたしはすぐに不安になった。ひょっとして、彼女が起きなかったらどうしよう。そうしたら、自分はずっとひとりだ。
 けれど、ほどなくして彼女は目覚めた。目を覚ましてくれた。
まるで、心配なんかいらないんだよというように。
 彼女はわたしを見た。わたしは彼女を見た。
 初めて見つめ合った。
 そのときのわたしにはまだ目も首もなにもなかったから、それは正しい表現ではないんだけど。
 そのあとで、彼女はわたしを抱きしめてくれたんだ。
「待ってたよ」
 彼女はたしか、そう言ったのだ。わたしはうれしくなって、初めて泣いた。
 自分の頬を涙が流れる頬の感触で、自分に姿とかたちができたことを知って——
 全てが始まったのだ。

  1


 授業。勉強。いわゆる、学生の本分。
 そのコマ数、だいたい六コマ。ときどき七コマ。
 ホームルームの終了と同時に教室から駆け出して、日課の軽いマラソンをします。
 校内を駆け抜けるその距離、だいたい0.5キロメートル。
 その部屋はずいぶん僻地にあるゆえ、ちょっとした距離なのでした。
 それは言い換えれば学校にとってこの部室がさして重要でないことの証左でもありましょうか。
「よっこいしょ」
 ともあれわたしはその日も息を切らしつつ、部室の引き戸に手を掛けます。
 引き戸はいつだってこれぐらい重いだろうなという想定よりもわずかに重たくて、わたしはいつもじれったく思いながら同級生と比べてもまあまあ小柄な体に精一杯の力を込めて、毎日それを開くのです。
「すみません遅刻しました」
「いいのよ。今日もお勉強おつかれさまでした」
「あっあっ、こちらこそです」
 先輩は、いつもわたしよりも先に部室に来ているのが常でした。彼女がわたしよりあとに部室に入ってきたことは、今まで一度たりともありません。
 そんなわけで今日も今日とて、こぢんまりとした部室でパイプ椅子に腰を掛けてあいまいに微笑みながら、たかだか大股で数歩の距離にいるわたしに、ちいさく手を振ってくれるのでした。
「あっはい、ええと、生徒会から文化祭のプリントが来てませんか?」
「どうだったかしら。多分来ていないと思うけど」
 寒くなってきた今日このごろ、すっかりと陽も短くなりました。そんなわけで西向き採光のこの部室は早くも夕陽の色に染まり始めています。
 豊かなウェーブのかかった先輩の長い髪も——元より色素の薄いこともあってますます——まるで今日という日の残り火を宿したように、ほの暗い光に輝いて見えました。
「でも、それがないと文化祭で枠が取れないんですって」
「そんな! 後夜祭のライブで1000人集めないと廃部になっちゃうのに!」
「後夜祭? ライブ?」
「迫り来る生徒会の陰謀! 廃部の危機! ならばこそ校長の弱みを握るほかないわね」
 先輩はやおら椅子から立ち上がると、腕を振り上げて高らかに宣言します。
 まるで歴史の教科書で見た、民だかなんだかを導く女神の絵のようです。
 手に持っているのはもちろん銃じゃなくて、飲みかけのスポーツドリンクのペットボトルですけれど。
「わたし、校長先生けっこう好きですけどね、ヌートリアのような親しみやすいお顔で」
「校長先生が善玉のパターンもいいかもしれないわねえ。陰謀の被害者とか」
「あっわかりました、教頭とPTAが結託してるパターン!」
「そうそれ!」
「おっと、そういう話をしてるんじゃないんです」
 ああいけない、そして、あぶない。
 先輩はいつでもこんな調子で、部長としてのあらゆる責務を放棄しようとするところがあります。そういうタイプのひとなのです。
 中身のないまぼろしのような会話に乗ったが最後。あとにはなにひとつ残りはしないまま下校時刻を迎えることになってしまいます。わたしたちは決して長い付き合いではありませんが、この手で必要事項をスキップされること幾度。わたしもいい加減学習しているのです。
 なんせ部員はたったの全二名。つまり先輩とわたし。先輩の怠惰によりしょーもない出来事が起きてしまうとして、それをカバーする貧乏くじを引く存在があるとすればそれはわたし以外にありえないのです。
「悪の生徒会の圧力には屈しないわっ」
 部室の数少ない備品たる長机には、いつも通り先輩の鞄がぞんざいに投げ出されています。鞄は多数の教科書で豚の貯金箱みたいに膨らんで、そのうえプリントが何枚か飛び出している、いつも通りの堂々たる佇まい。
 おそらく例のプリントも、鞄の底のほうで極小サイズまで圧縮されているに違いないのでした。
「今日こそ鞄を片付けましょうね、わたし、手伝いますから」
「パンドラの箱に手を着けようというわね」
「はい、強い心でやりきりましょう」
「待って、そもそも文化祭に参加する必要なんかあるかしら?」
「ああもう、ちょっと失礼しますよ……」
 しびれを切らしたわたしは長机に歩み寄って、先輩の鞄を持ち上げようとして——腰を抜かしかけました。鞄はあまりにも重く、びくともしないのです。
 その重さたるや、まるで机と溶接でもされているよう。たかだか学校指定の鞄が、こんなに重いなんてことがあるでしょうか?
 先輩にまなざしで困惑と助力の必要を投げかけるわたしに、先輩はさも当然というようにコクコクとうなずきを返してから、
「後輩ちゃんさん」
「どちらかにしましょうか」
「では後輩。これは真剣な話よ。文化祭はあらゆる青春の汚濁の三角コーナーてきな場所ではないかって、私、かねてから思っていたの」
 と、妄言の続きにかかります。
 うーん、今日はもうだめかもしれません。
「つまり、文化祭をボイコットしようとおっしゃりたいわけですね」
「ボイコットというよりは、そう、ストライキ。いえ、正確にはその検討段階」
 うんうん、と自分にうなずきながら喋る先輩。考えながらしゃべっているから、ことばはますます冗長に、もってまわったものになります。
「文化祭は文化の祭典だということになっているけれど、それでも結局幅をきかせるのは運動部。この時点で欺瞞があると思うのよね。清浄な学び舎に、その日だけは欺瞞と邪悪が満ち満ちる。 ミチミチ・・・・と」
「それは未知・・の視点ですね」
「あっあっ! 未知・・だけにっ」
 あまりにしょーもないダジャレできゃっきゃと笑う先輩。思わず、わたしもつられて笑顔になります。
 わたしも手近な椅子に腰を下ろして、もういいやという気持ちで、お話に付き合わせていただく覚悟を決めました。
「えっとたとえば、どんな未知の邪悪があると?」
「未知の高校からやってくるオラオラしたグループの大騒ぎとか?」
「同じ中学の友達なんでしょうかね。久しぶりに顔を合わせて楽しくなってしまうようですが」
「あっあっ、ハイ! 場をめちゃくちゃにすることにはそののプロ!」
 豊かな髪を揺らして笑う先輩。白い頬に刺す赤みは、夕陽の投げかける赤とは違う、彼女のあたたかな体温の赤色。
 まるで女神を描いた絵画の一枚のような光景ですが、じゃあ何に微笑んでいるかというとそれはあまりにしょーもないダジャレなわけで。
 つまり、わたしが貴重な放課後のひとときを捧げてこの部屋で時間を過ごす意味といえば、このような瞬間に巡り会えるからこそなのでした。
「そうねえ、後輩ちゃんは文化祭にどんな邪悪を感じる?」
「えっと、明らかに既製品まるだしの模擬店の食べ物とか」
「ふんふん」
「既製品をあっためて売ってるだけなのに、それが彼女らにとって一生の思い出になるんだろうなという薄ら寒さがなんとも耐えがたく……」
「ある種の共感性羞恥というわけ」
「あとこれはどうでしょう? 『在学中はここ美術室だったんだよね〜〜〜』とか言いながら校内をずっと回ってる、たぶん成人済みのOBとかも邪悪です」
「感じが悪いわね」
「はい。あと忘れちゃいけないのがクラスTシャツですよね。Tシャツ業者によって作られた偽りの『青春のオヤクソク』に踊らされてるけれどそれを指摘しちゃいけない感じが……邪悪です!」
 先輩がけらけらと笑うのではっと我に返ると、わたしはいつの間にか椅子から立ち上がり、麦茶入りの水筒を振り上げていたのでした。
 恥ずかしさに幾分かちいさな気持ちになりながら、そっと着席します。
「すみません、我を忘れました」
「いいのよ。後輩ちゃんは意外と文化祭に嫌な思い出があるんだって、知れてよかったもの」
「一般論ですよ……たしか、たぶん」
 高揚が過ぎ去ってしまえば、あとに残るのはしょぼくれた後悔だけ。
 いつの間にか沈みつつある夕陽とますます長く伸びる影が、わたしの心をざわつかせます。
「文化祭の邪悪が後輩ちゃんを避けて通り過ぎてしまうように、祈ってるわ」
「祈っていただけるならありがたいです。わたしも、先輩が文化祭で嫌な思いをしないよう、祈ります」
「あらすてき。ところで後輩ちゃんは……どんなふうに祈るの?」
 うーん。
 いざそう言われると。
 わたしは自分の両の手を開いて、組んでみたり合わせてみたりします。
 しかし、どうもしっくりきません。
「教えて」
「それは……」
 そもそもうちの家庭は実質的に無宗教のうちだったはずだし……
「聞かせてほしいの」
 先輩がわたしに問いかけます。彼女の瞳が見つめているのは、わたし。わたしの返答を心待ちにしているのがわかりました。
 さっと何か気の利いたことを言えたら、どんなによかったでしょうか。
 えーっと。うーん。部室には、わたしのみじめな声が響くばかりです。
 と、そんなうちに。
 静寂を押し開くみたいな、高くひずんだチャイムの音が、部室にそなえつけのスピーカーから響きます。
 部活の時間は終わり。もう下校時刻という意味のチャイムです。全生徒は例外なく、すみやかに帰宅せねばなりません。
「ふふふ。そのうち適当に考えておいて」
「今後の課題としたいと思います」
 いつもどおりにふんわりと楽しげに、先輩は言いました。
 そのことばの裏にわたしが見つけた一抹の寂しさは、果たしてまぼろしであったでしょうか。
「帰りに、おでんでも買い食いしましょうか」
「おでんは……好きですよ、わたしも」
 これは、正確にはすこしうそでした。好きなのは牛すじの串だけで、他のおでんの具にはあまりピンとこないのです。
 でも先輩の好きなものにケチをつけたくなかったというわけで、この小さなうそが許されることを祈ります。
「よろしい。おでんは好ましいわ。まるで私たちみたいに」
「はあ」
 先輩の後ろについて部室を出ます。
 ぴったりと先輩のうしろ、一秒前まで先輩がいた空間をなぞって歩いていると、空気にはすこし、彼女の匂いが残っているのがわかります。
 いまだ胸を刺す少々の痛みさえ、その匂いの中ではすこし甘く、あたたかくて。
 冬めいてきた季節の肌寒さの中で、それは毛布のように心地よくて。

 もし、もしです。
 わたしが祈るとするならば、それは——

  2


 例によってその日も約半キロメートルの軽いマラソン。
 例によっていないのは、今この時が放課後ではなく昼休みの真っ最中であるということです。
 というのも昨日、どうやらわたしは部室にワイヤレス・イヤホンを置き忘れたまま下校してしまったらしくて。
 自宅で鞄の中にころりとしたうす紫色のイヤホンケースがないことに気づいた時には、もう後の祭り。一晩ほど、もんもんと時間を過ごすはめになりました。
 あまり高価なモデルではないので、落とした場所や現在位置などを示してくれる機能はついていなかったようです。スマートフォンの液晶には、こんどやってくるらしいという大きな台風の警報が踊っているのみでした。
 きっとたぶん、最後に取り出したのは部室であったはず。でも確証はありません。手放した瞬間を覚えているのなら、そもそも置き忘れるなんてことありえないのですから。
 部室にあってくれるでしょうか。もしないならば駅で落としたか、意外と自分の部屋のベッドの隙間とかに落ちてしまっているのか。あるいは先輩のごとく、鞄の奥深くに消失させてしまったか。
 疑念と後悔。ぐるぐると果てしなく巡る思考に疲弊しながら、例によってその日も絶妙に重たい部室のドアに手を掛けます。
「あってくれー! もうかんべんしてー!」
 ついに表出した心の叫びと共にがらがらとドアが開きます。
 と、中では先輩が小ぶりのお弁当をもぐもくと召し上がっておられました。
「すみませんお食事中に」
「いいのよ。午前のお勉強お疲れ様でした」
「あっあっ、こちらこそです」
 水筒からお茶を一口飲んで、いつものように手を振る先輩。
 ところでイヤホンを見ていませんか、あのわたしの紫色のやつ。
 そんな風に尋ねかけて、違和感に気がつきます。
「あれっ、先輩、どうしてここに」
「ふむ、これを言うなら後輩ちゃん。お昼休みの部室は立ち入り禁止なのよ。部員であっても」
「あっ」
 学校のルールとして、昼間の部室棟に入ることはできても部室には入ることができないようになっています。
 部室の鍵は基本的にいつも職員室にあって、放課後に部長がいつも取りに行くものだと、わたしは知識としてちゃんと知っていました。
 知っていたくせに、どうして昼休みなんかに部室を訪ねたのでしょう。あまりに浅はかなことです。
「そうだった……」
 わたしは力なく開け放した引き戸のへりに寄りかかります。
 それほどに我を失っていたなんて。走ったせいで背中に浮かんできた汗が早くも冷えてきて、すこぶる気分が悪いです。
「たぶんこれよね?」
 いつの間にかお弁当を食べ終えた先輩が、わたしに何かを差し出します。うす紫色のころりとした石けんのようなかたまり——充電ケース。
「あっこれはそう、これ、これです! ありがとうございます!」
 落としてしまわないように、注意深くそれを受け取ります。
 そう、まぎれもないこれ。中にちゃんとイヤホンも——ありました。
よかった、ちゃんと部室にあった。
「よかったわね」
「ちゃんと終わってよかったです」
 自分でもちょっとあきらめつつあったハッピー・エンド。
 うれしさよりも、やっとイヤホン探しから解放されるのだという安堵が全身を包み込みます。
「ところで、先輩はどうして部室に? 先ほどのお話によると、立ち入り禁止なのでは」
 ふふん、と鼻を鳴らしてから、どこからか小ぶりな鍵を取り出す先輩。
 ちりちりと鳴る鈴がキュートです。
「鍵があるとき、合鍵も必ずあるものよ」
「そんなのずっと持ってたんですか」
「鞄の奥から飛び出してきたってわけ」
「ばれたらきっとまずいですよ」
「せっかくだからゆっくりしていきましょ」
 部室棟は静かで、未だ完全に静まらないわたしの息と、風が吹くたびにざわめく木々の音だけが耳に入ってくる全てでした。
 わたしは息を一つ吐いてから、手近な椅子にどっかりと腰を下ろします。
 まあ、懸案だったイヤホンは見つかったのだし、よかったよかった。
 放課後にも部活はあるから、今日は一日に二回も先輩に会えることになります。
 不幸中の幸いとでも言うのでしょうか、思いがけない幸福です。
「ふふふ。にこにこしちゃって。見つかってよかったわね」
「えっと……いや、新鮮で面白くて笑ってたんです。ほら、わたしたち、部活の外であんまり会わないですし」
 わたしだって先輩に気味の悪い後輩だと思われたくはありません。だから、とっさにてきとうなことを言いました。
「うちはマンモス校ですもの、人が多ければ無理のないことだわ」
「これでもずいぶん減ったらしいんですけどね」
「世知辛いことだわ……しっ、聞いた? いまの音」
「いえ、何も聞こえませんけど」
「あらそう。誰かがこっそりあいびきしている気配を感じたのだけど」
 他にも合鍵を鞄の底から掘り出した不届き者がいるんだわ、と先輩は言いました。
 うーん、と、美しく、時に悩ましく伸びをする先輩。
 壁掛け時計に目をやれば、そろそろお昼休みも半分を過ぎていました。
「そろそろ、行きますか」
 そう、この学校の主たる教室棟からここまで半キロメートルほどもあるのですから、わたしのせいで先輩を午後の授業に遅刻させるわけにはいきません。
 部室の鍵を出所不明の合鍵で閉めてから、もう一度ドアをがたがたと揺すって施錠確認——うん、施錠は万全のようです——
「今日はよかったわ」
 教室棟への長い道のりを、わたしたちは二人で歩きます。
「後輩ちゃんは、今日も部活に来るわよね」
 なんだかへんな時間を過ごしたなあ、とわたしはぼんやりと思いました。
 教室棟に着いたら、この時間もおしまい。わたしは未来で今日の日のことを思い出すでしょうか。
 それは、先輩と過ごす時間の番外編を得たという、いい思い出として?
「今のところ、欠席の予定はありませんけど——つまり、行きます、それは行くという意味です」
 あるいは、イヤホンを無くしてバタバタと慌てて探し回ってなんとか見つかってよかったね、という残念な思い出として?
「ばんざいっ。後輩ちゃんに一日に二回も会えるって、思いがけない幸せだなあって」
「あー……」
 ははは。
 まあ。いい思い出として思い出すのでしょうね。
 イヤホンの置き場所なんか、いくら忘れちゃったとしても——これは覚えていたいな。
「あっ、わたし教室こっちなので」
 いつの間にかわたしたちは教室棟に辿り着いていました。走っていれば長い距離も、だれかと話していればたいしたことのない距離にすぎません。
 廊下を行き交うマンモスたちにぶつからないように廊下のすみっこで、わたしたちは別れのあいさつ——兼・再会の約束——を交わします。
「それじゃ、次の密会でね」
「また放課後に」
「放課後に!」
 そうしてわたしたちは、それぞれのマンモスの群れの中へ戻っていったのでした。

  3


「ねえ後輩ちゃん。もし今週の日曜日が空いていれば、ちょっとお出かけをしましょうか」
「ええと、空いてますけどでもあまりお金に余裕がなくて……どちらまで?」
「空想の導くところまで!」
 なんて意味深な会話があったものですから、一体どこに連れて行かれるのだろうかと(先輩はお楽しみだと言って教えてくれなかったのです)戦々恐々としていたわたしですが、その週の日曜の朝10時、私服姿の先輩に導かれるがまま辿り着いたのは、隣の区の美術館でした。
 おそらく著名な建築家が設計したのでしょう、コンクリートでむりやり折り紙を再現したみたいな、なんだかちぐはぐだけどたぶんおしゃれなんだろうな、という建物が、これもまた区立の公園の前に静かにそびえています。
 件の台風は熱帯低気圧になるでもなくまだ洋上にとどまっているようなのですが、それはあくまで遠い海の上の話。優しく透き通った初夏の空は、たしかに美術鑑賞の機運を多少なりとも盛り上げてくれるような気がしました。
「空想の導く……というのはつまり、美術的なインスピレーションのことだったんですね」
 先輩の意味深なことばに数日越しで合点がいったわたしは、ひかえめなヒールのおかげでいつも以上にすらりと背の高い先輩の背中に問いかけます。
「芸術鑑賞もたしなみよね」
「そんなことより文化祭のプリントを生徒会に出さないと」
「未来は真っ白なカンバスってことにしましょう」
 言いたいことはいくらだってありましたが、わたしは先輩と一緒にお出かけということでやや気分もよく、ここは一旦呑み込んで、黙ってついてゆくことにします。
 受付で学生証を見せると、なんと入場料は無料とのこと。金欠の身で地味な喜びを噛みしめつつ、わたしたちは耳の奥がきんとなるほど静かな館内をずんずん進みます。しばらく進むと、二つある展示ホールのそれぞれに通じる分かれ道がありました。
 右手方向は、常設展のなんやかんや。
 左手方向は、この学区のコンテストで入賞した高校生の作品のなんやかんや。
 どちらにしましょうか、と先輩に尋ねるよりも早く、先輩はあまりにも自然に左手に向かいました。
「もしかして、お友達が賞を取ったとか」
「そういうわけではないのだけどね」
 うーん。じゃあどうして?
 これはだいぶ、高度ななぞなぞです。
 細い通路を抜けてホールに入ると、学区のコンクールの入賞作品がどうのこうのという看板と、ホールを区切るパネルに掛けられた多数の絵がわたしたちを出迎えます。
 いかにも美術館然とした照明の下で、まるで動画サイトのサムネイルみたいに整然と機械的に並んだ風景、人物、静物、抽象……おそらくもっと細かな分類があるのでしょうが、わたしにはよくわかりません。
 横に大賞と書いてある作品を見て、「ああ大賞なんだなあ、たしかにうまいなあ、器用だなあ」と思うのがわたしの精一杯の鑑賞行為でした。
 一方、先輩は表情ひとつ動かさず、うんとかへえとか言いながら絵画の数々をのぞき込んでは、また離れてを繰り返します。
 まだ午前中だからかホールにひとはまばらで、ちょっとだけ見て常設展を観に向かうお客さんがほとんど。わたしと同じく、手持ち無沙汰そうにきょろきょろとするおそらく中学生の女の子がひとりいたくらい。この展示はあまり多くのひとには求められていないのではないか、という気がしました。
 わたしはますます手持ち無沙汰に赤とピンクをぶちまけたような『無題』の抽象画を眺めながら、これは一体どういう抽象なのだろうかなんてことを考えながら、努めてぼうっとする決意を固めました。
 ですから、
「もうお腹いっぱい!」
 と、先輩がそう言ったときは、ほっと一安心、安堵に胸をそっと撫で下ろしたのでした。

「失敗したわ。後輩ちゃんに先輩の文化的な一面を見せようとしたのに、何もそれらしいことを言えなかった」
 なんとかそれらしく美術鑑賞を終えたわたしたちは、美術館に付属のこぢんまりとしたカフェで一息入れることにしました。
 居心地がよければそのままお昼にしましょうかほらこのハヤシライスなんていいですねお手頃ですよええこういうところは公営だからすこし安いのかしらなんてわいわい話しながらとりあえずおそろいでカフェラテを頼んで席について。
 そこで先輩が出し抜けに放ったのが、先ほどのセリフというわけでした。
 カフェは半地下になっていて、裸電球ふうのLEDとカクテルライトがコンクリートの壁をあたたかな光で照らす、いい意味で穴ぐら感のある今ふうな空間という感じ。
「ほぁぇ、てっきり先輩はこういうのがお好きなのかと」
「わからないわ、美術って。イラストとかなら綺麗よねとか言えるけど、美術ってそういうストレートなことを言いづらい雰囲気があるでしょ?」
「だとしたら、やっぱり学生の作品じゃなくて常設展のほうに行けばよかったかもしれませんね。有名な作品のほうが……わかりやすく感動できるかもですし」
 わたしはカフェの壁に貼られたポスターに目を走らせます。去年更新されたばかりの展示の目玉は、さる教会の壁から切り出された、とてもとても大きな宗教画なんだそうです。絵の内容や歴史には興味がなくても、少なくとも実在感、迫力のようなものは、変な言い方ですが——見世物としての迫力はあるように思われます。
「それは逆って考え方があるのよ」
「逆?」
 うんぎゃく。そう言って、先輩はスティックシュガーをカップの中のカフェラテにさらさらと注いで、なんとも様になった動作でプラスチックのマドラーでくるくるとかき混ぜます。
「ルネッサンス期のイタリアに住む偉大な画家は、朝ご飯のお気に入りはどんな献立かしら? 夜寝る前に何を考えるのかしら? あなたは知ってる?」
「知らないですよ、ルネッサンス期のイタリア人じゃないですから」
「そう、そうなのよ。でもね、今日観た絵を描いた子たちはそれに比べてずいぶん感情移入の余地があるわ」
「感情移入?」
「たぶん朝ご飯はお米かパンかコーンフレークで、電車で通学してうんざりして乗り換え駅でコーラを買ったら炭酸が吹き出て困ったりして、授業中にはミュートにしたスマホでこっそり字幕つきの動画を見てひまをつぶして、夜に寝る前には好きな子からのメッセージが来ないかなとか来月は定期テストだな困ったななんて思いながら寝る、そういう生活の中で描かれた絵だってことが、私たちには実感をもって想像できる」
 ところで、後輩ちゃんは最近あまり夜にメッセージをくれないわね、と茶目っ気たっぷりに付け加えてから、先輩はこう締めくくりました。
「彼女が言うには、そういうことだから同級生の描く絵には価値があるんだそうなのよ」
 先輩はひととおり満足したような息をついてから、カップを傾けます。ミルクたっぷりのカフェラテをひげひとつ作らずに飲んでみせてから、先輩はその古い琥珀のような深い輝きの瞳で、わたしの瞳をのぞき込みました。
 わたしははっと気づきました。これはお誘いです。
 先輩はもっと深く自分の話を聞いてほしいのに違いありません。自分から質問するのではなく、わたしが質問し、それに答えるというかたちで。
そして、わたしが先輩の望みに気付かないことなど、疑ってもいないのです。
 それは例えば先輩が伸ばした両の手の間に飛び込んで抱きすくめてもらうような、親愛のあるやりとりという感じがして、わたしは嬉しくなります。
「彼女? 誰か、昔にそう言ったひとがいるんですか?」
「ええ。でもそんなに昔の話じゃないわ。とにかくそういう子がいたのよ——いえ、もちろん今もいるけれど」
 先輩はただでさえまばゆい瞳を思う存分きらきらさせて、わたしを見つめながら、一つの物語を語り始めました。

 ある学校で、美術部で部活動に励む、とある女子生徒がいた。
 彼女は自分にさほど才能がないことに気づいていて、それでも絵が好きだから放課後の部室で絵を描いていた。その時間が好きだった。
 その時間の楽しみはもう一つあって、それは同級生らの中でも特に才能豊かな、ある友人——同期の女子生徒——の絵を観ること。
 果たして友人の絵が、才能が、世界に届きうるかはわからない。
 でも自分よりもよほど才能があることだけは確か。そしららぬ顔で日々を過ごしながら、胸の内に情熱を秘めてその子は過ごした。
 遠くの天才画家になんか興味はない。知りもしない場所で生まれ育った彼らが何を描き出すかなんて興味がなかった。
 自分と同じ街に住み、同じような食事を摂り、同じようなベッドで眠る彼女。自分とさして変わらない原材料から生まれる美術が、どうしてこんなにまばゆいものか。
その情熱は、もはや信仰に近かった。

「ただただ膝を折り、頭を垂れるしかないものがある」
「と、その方が言ったんですか」
「ううん、これは一般論。そういうものに……後輩ちゃんは、出会ったことはあるかしら?」
「すこし考えさせてください」

 うん。考えながら聞いて。
 そう言って、先輩は続けます。

 とにかく、友人とその絵は、自分を凡才と信じる女子生徒にとって、神様だった。
 才能ある友人は、コンクールでもしばしば賞を取った。けれど生み出したあとの自分の作品には無頓着で、コンクールで賞を取った絵は、手元に戻り次第キャンバスを剥がしてフレームを再利用して、スマートフォンで雑に写真を残すことすらしなかった。
 最初はただ残念と思うだけだった。けれど、友人の隣で時間を過ごすうちに気持ちは膨れ上がって、怒りになった。
 自分が膝を突き、祈る対象が、不当に世界から失われている。
 守らなくては。残さなくては。それは望まれている。
 これが自分の祈りだと信じて。
 心の熱にまかせて、彼女は行動に出た。県の展示会場からその絵をこっそりと盗んだらしい。どんな方法を使ったのかは、未だに知られていない。
 ともかく首尾良く彼女は自分の家、子ども部屋のクローゼットの中に絵を安置した。
 その日ずっと、彼女はずっと絵を眺めていた。達成感に浸りながら。
 これが自分の祈りの姿であると、誇らしい気持ちで。

「うわあ。派手にやりますね。それって本当の話ですか?」
「どうかしらねえ」
「えーっそんな。それで……このお話は終わりですか?」
「ううん、肝心なのは最後」
「絵をずっと眺め続けているうちに、あんなに熱かった心がすっかり冷え切っていることに、彼女は気づいたんだそうよ」
「どういうことですか」
「彼女は考えたわ。ずっとずっと。そして一つの結論に辿り着いた」
 衝撃のクライマックスに備えて、わたしは心なしか温度を失った指先をぎゅっと握り混んでから、そうだ温かいものがあるじゃないかとカフェラテのカップの縁に手を添えて暖を取りました。
 そして先輩はまるで判決を言い渡す裁判官かなにかのように、低く、揺るがない意思を含んだ声で、最後にこう述べました。

 これは祈りではなかった。

「と、いう話だったのよ」
「うーん、ちょっとよくわからなかったです。あっわかりました、もしかして意味がわかると怖い話ですか? 最近ショート動画でよく流れてきて」
「後輩ちゃん、見かけによらずあなたは意外としょーもない——」
 まさにその時です。カフェを照らす照明が一斉に光をなくしたのは。
「えっ」
 びっくりした拍子に掴んだままのカップが揺れて、わたしの手の甲にカフェラテがこぼれます。
 カフェは半地下でしたからつまり半分は地上の光も入ってくるので、真っ暗になるということはありません。けれども予想外の出来事に、やっぱりびっくりはするわけで。
 きっと停電。見回してみると、どうやらカフェの厨房も電気が落ちているようです。
 先輩と、どうしたんでしょうどうしたのかしらねと困惑のアイコンタクトを交わしながら、のろのろとした時間が数十秒ほど。
 何事もなかったかのように、照明が光を取り戻します。厨房の機器たちも、ぴぴぴと再起動の音を鳴らしてから、ふたたび低くうなり始めるのでした。
 ほどなくして館内にアナウンスが流れます。電気系統のトラブルによって停電があったことへのお詫びのようでした。原因はまだ調べているけれど、とにかく火災の心配はないらしいということ。でも一旦外に避難しましょうとかなんとか。
「行きましょうか」
「あっはい」
 わたしは手の甲をペーパーナプキンで拭いつつ席を立って、先輩のあとに続きます。
 先輩が目指すのはもちろん外——ではなく、なぜか先輩は順路を逆にたどって、学生作品の展示ホールへ向かっているようです。
 なぜ? どうして? そんな疑問を投げかけるひまもないくらいの早足で先輩はずんずん進みます。ホールの入り口で立ち止まった先輩に、半ば息を切らしながら追いつきました。
 先輩の肩越しにあるのは、さっきさんざん見た展示ホール。
 同じ照明。同じ閑散ぶり。
 一つ違うのは、そこには一枚の絵もないということです。
 ぬけがら。
 わたしの脳裏にそんなことばがよぎります。
 先輩は、もはやオフホワイトのパネルが並ぶだけの空間をゆっくりと横切りながら、言いました。
「彼女はまだ探しているんですって」
 先輩の言いたいことがわかるような、わからないような。
 わたしが返したことばは、果たして本当にわたしの意思によるものだったかさえ自信がないまま、口から転がり出てきます。
「それは祈りではなくて、欲望という感じがします」
「うん、そうかも」
 先輩の返事もまるで先輩の返事じゃないみたいな冷たい残響をまとって、ホールのがらんどうな空気の中を、ひらりと泳いで、そして消えたのでした。

  4


 ぴ。
 先輩がエアコンの温度を一つ上げたので、エアコンが駆動音をわずかに小さくしました。
 たしかにちょっと冷えすぎていたので、これでますます過ごしやすくなるに違いありません。
「快適ね」
「はい、まったく快適です」
「でも、つまらないわね」
「それも同感ですけど」
「せっかく合宿に来たのに!」
 日に焼けた畳の上で、先輩はごろごろと転がりながら「しっぱいしたー」とうめき声を上げました。
 着ているのは、半袖のTシャツに、スポーツメーカーのハーフパンツ。そのまま学校案内の表紙にだって載れそうな普段のぴしっとした制服姿とはうってかわってラフな着こなしの先輩は、夏の太陽よりもまぶしくて。
 わたしは目の毒からそっと目をそらしながら回想します。
 思い返してみれば、今年は激烈に暑くなるらしいという話はもう初夏からさかんに騒がれていました。しかしです。もし自己弁解が許されるならですが——まさかこれほど暑くなるとは、まさに想定外だったというほかありません。
 夏なんだから合宿だなんだと先輩に言われるままにネット検索そして確保した海辺の民宿はお安いお値段のわりにきれいなお部屋・冷房完備の穴場で、そんな快適な一室を抜け出して命の危機を承知で摂氏39度の砂浜を探検してみるなんてまあそれも魅力的だけどちょっとやめておくのが人間の生存本能だよねという感じで。
 そのような判断の下に、わたしたちはうだうだと民宿備え付けのWi-Fiでおもしろ動画を見て笑ったりしながらやや無為気味に三日目の朝を迎えてしまったのでした。
 予約画面で見て心ときめかせた完璧なオーシャンビューも、もう三日目となれば教室の黒板と変わらぬ背景の一部に成り果てて久しいものになりました。
 もしかすると合宿自体をとりやめるべきだったでしょうか。そもそもわたしたちのような謎の部活に学校から補助が出るわけでもなく、これは自称・合宿にすぎないただの個人的な旅行に過ぎないのです。
「……後輩ちゃん」
 回想にふけるわたしの葛藤を、知ってか知らずか。
 先輩は突如むっくりと立ち上がると、窓の向こうの海を眺めながら、わたしに問いかけます。
「なんだかどうでもよくなってきちゃったりしない?」
「何がですか?」
「命……とか」
「うわあ、物騒ですね」
「せっかく後輩ちゃんと合宿に来たんだもの。今年の夏は一回きりでしょ? いっぺんくらい夏の海の波打ち際でバチャバチャしてみるべきだと思うのよ。命がけだとしても」
「命を掛けたバチャバチャ・・・・・・ですね」
「あっあっ、バーチャル・・・・・では知り得ない実感がそこにあるっ!」
「うーん、ちょっとむりやりという感が」
 わたしは命を尊ぶ考え方の持ち主ですからそのあとも三回くらい外出を拒否したのですが、しまいには先輩が一人でも行くとか言い出したゆえに、それならばわたしにはついてゆくほか選択肢はありませんでした。
 外に出るとそこはまるでオーブンの中に放り込まれたような熱気のただ中で、べったべたに塗ってきた日焼け止めも驚嘆すべきスピードで汗とともに流れ落ちてゆきます。
 雲一つない青い空——は、たしかに美しくはあるのですが、それは太陽をさえぎるものがひとつとしてないことと同義で、昨晩の天気予報によればまだまだしつこく洋上でくすぶっているはずの台風が唐突に出張してくれやしないかと思ったり。
 五歩歩くごとにペットボトルの水をちびりちびりと口に含みながら、今はすっかり遠くに感じられる海へとまさに決死の行軍の気持ちで進むこと、十時間。
 いいえ、それは実際にはきっと十分くらいだったのでしょうね。
「海だわ! ノルマ達成!」
「やりましたね! じゃあ帰りましょう!」
 部屋で嗅ぐよりもますます濃密な海の香に包まれた砂浜は、先輩のむきだしの腕よりもなお白く輝いていました。一歩、また一歩と足を踏み出すたび、ビーチサンダルが灼けた砂を巻き上げて、無防備なわたしたちのくるぶしを焦がしてゆくようです。
「まだよ、証拠を残さないと。写真を撮りましょう! はいそこに立って!」
「わたし、自分の写真なんか欲しくないですよ」
「部活なんだから、活動の記録をしないと」
 空と砂浜の両方からていねいに焼きを入れられて、もはやオーブンの中どころか電子レンジの中で直接マイクロ波を浴びているような心地です。人類の耐久力の限界。そんなワードばが脳裏をよぎり、そしてじゅう、と音を立てては蒸発していくその音すら聞こえてくるようでした。
 せめて外出は夜にするべきだったのではないか、と今さらながらにまともらしい考えも浮かんできます。
 ああそうだ、こういったひとけのないところの夜の海は女ふたりではすこし怖いという話をしたのでした。せっかく海ならば花火をやりたかったような気もします。いずれにせよ花火なんか買ってきていなかったから——
「あっ」
 先輩がなにかに気づいたように声を上げましたが、わたしはとにかくノルマを達成したかったので無視して先を促します。
「ああもう、早く済ませましょう」
「ふっふっふ、見てこれ」
「あーーーっ」
 先輩がハンドバッグから取り出したのは、活動記録を撮影してくれるスマートフォン……ではなく。
「まちがえたわ」
「どひー」
「どひーなんてきょうびそうそう言わないんじゃないかしら」
 先輩が掲げて見せたのは、見覚えのあるエアコンのリモートコントローラーでした。液晶に表示された26℃の文字が、涼しい室内への情景をますます募らせます。
 そういえば先輩は部屋でずっとこれを握りしめていましたっけ。厚さも大きさも確かに似ていますから、ひとたびバッグの中に放り込んでしまえばその存在感から自分の間違いに気づくのは難しい、のかもしれません。
「どうして肝心なところでかっこいいところをみせられないのかしらね、私は」
「そんなことはないですけれど」
 ほう、と息を吐いて、先輩は海の彼方に目を向けました。
 涼やかな横顔。ほとんど真上からの太陽が、先輩のお顔に長い睫毛の影を落としています。
「この沖合、ちょっといわくつきらしいのよね」
 先輩の声は砂浜にやってきた時よりもすこし力が抜けて、自然体な感じです。暑さに体が慣れてきたということでしょうか。そういえばわたしも、多少、適応できてきたような……
「漁師さんが変なものを見たりとかそういう?」
「うん。船の行方不明もあったって。いわゆるゴールデントライアングル」
「もしかしてバミューダトライアングル」
 わざとかあるいは天然か、物騒な間違いを検索エンジンの要領でそっと正しながら、わたしは先輩にならって太平洋のバミューダトライアングルの先、地平線に目をやりました。
 いやまてよ。
 地平線よりは近く、けれども空気遠近法的に色褪せを感じるくらいの距離に、なにやら——くねくねしたものが——
「先輩、あれって」
 前に、動画サイトのショート動画で紹介されているのを見たことがあります。
 これはあの怖いヤツ、もしかして、それが何であるか理解すると狂ってしまうというアレでは——でもあれって畑にいるんじゃなかったかなあ。
「ええ、ちくわぶね」
 くねくねの正体を知ってか知らずか。涼しい顔で先輩は言ってのけます。
「あっそうか、ちくわぶかあ。海ちくわぶという名を授けましょう」
「いいわねっ。海はほら、生命のおでんだから」
「もしかして生命のスープ」
「おでんはね、カレーにシチュー、ビーフストロガノフに、もちろんおうどん……何にでもなれるのよ。私たちみたいに」
「カレーとかはいいですけど、おでんがベースでビーフストロガノフとかできるものでしょうか」
「出汁とよく染みた具材! 黄金のゴールデンルールは何だって可能にするのよ! それが明日の残り物処分だとしても!」
「いま金が重ね塗りされてましたね」
 うーん。理解の範疇を超えた話になってきました。あるいはわたしたちはすでに狂っているのかも。
 あまり海を見ているのもなんだか怖くなってきて、わたしは砂浜になにか気になるものがないかなと目を移します。
 ふと視界に入ったそれに目を留めてから、茶色く錆に覆われたそれが何なのか理解するまでに何秒か時間がかかりました。
 遊泳禁止を注意する看板あたりが海風でぼろぼろに浸食されたものかと思われたそれは、ハンドルからフレームの半ばまでなんとも豪快に砂浜へ突き刺さった、さびた自転車——おそらくマウンテンバイクの類——に違いありませんでした。
「うわー自転車。このへんのひとは環境の美化にあまり頓着しないんでしょうか」
 海から注意をそらしたくて、わたしはちょっとおおげさに驚いてみせました。
 先輩はわたしの横にそっと立つと、同じく自転車のなれの果てを見つめながら、静かに答えてくださいます。
「いいえ、そんなことはないわ。単にきりがないってだけよ。見て」
 真昼の幽霊のように音もなく、先輩は自転車の向こう、広がる砂浜の先を指さします。
 広がる砂浜。ぎらぎらと光を反射するその地面に、まるで無数の影のように突き立っているものがありました。
 彼方まで並び立つ赤錆色の墓標。
 いえ、よく見れば墓標ではないということがわかります。それはどれも同じく錆びて朽ち果てつつある、自転車の群れなのでした。不気味な光景に、わたしの背筋に冷たいものが走ります。
「大事なのはもっと先。崖の上を見て。家があるでしょ」
 自転車の死屍累々の続く先には、たしかに崖とその上に建つ一軒家がありました。
「みんなあの家を目指した。けれど、全員が辿り着くなんてできなかった」
「あそこに何があるんですか?」
「ゲームを作ったひと」
 ゲーム? どうして? ゲームそのものじゃなくてひと? 就職活動ってことでしょうか。
 わたしが疑問をぶつけると、先輩はどこか遠い目で、静かに語ってくれました。

 あの家に住んでいる男は、あるゲームの作者だった。
 だったというのは、それがもう十年以上の昔のことだから。
当時、大学生だった男がインターネットに公開した無料のロールプレイング・ゲームがあった。物語や音楽、もちろんグラフィックも、器用な彼のお手製で、コミュニティ内でまあまあの人気を誇っていたらしかったけれど、それはまあ言ってみればありがちな自主制作ゲームに過ぎなかった。
 それからしばらく時が経って、男は普通に大学を卒業して、就職して——コミュニティも、彼自身さえもゲームのことをほとんど忘れた。
 自転車の主たる少年たちが同時多発的に現れ出したのは、ゲームのリリースからずいぶんあと、パソコンのOSが二回もメジャーアップデートされた未来だった。

「話の流れからして……ここにあるのはその少年たちの自転車ということでしょうか」
「うん。それでね、少年たちは、男の作ったゲームをすごく気に入ったんだって。まるで崇めるみたいに」
「ゲームを崇める、ですか」

 できのいい自主制作ゲームを紹介する動画がきっかけとも、それとも共同編集サイトに記事ができたせいだとも言われていて原因はわからないけれど、そのゲームに熱狂的な崇拝を捧げる少年たちはどこからともなくやってきて、一つのコミュニティと化した。
 コミュニティは有効に機能した。古い解析ツールを使ってゲームのプログラムをのぞき見て、プログラムの合間に残されたちょっとしたバグを見つけた一人の少年は、もはやヒーローのように褒め称えられた。宗教的英雄のように。

「そういうコミュニティってよくわからないです」
「私も遊んだことはないんだけど、大人がやるとちょっぴりこっぱずかしい感じの内容だったそうなのよ。でもそのこっぱずかしさは少年たちの心をがっちり掴んだというわけね」
「あ、音楽とかでもありますよね。鬱屈とした少年の心に寄り添ってくれる音楽というか」

 その新しい宗教は少年たちを熱狂させて、信心者たちはゲームの中のセリフを競って暗記し、グラフィックの元ネタを検証し、BGMを楽譜に起こし、誤字脱字を見つけ、それはなぜ起きたのかまで考え始めた。ゲームをどれだけよく知っているかが、彼らの信心の寄る辺だったから。
 そして、ついに少年のひとりが、なんらかの手段を用いて男の現住所を突き止めてしまった。もちろんコミュニティは大いに沸いた。
 一部の、特に信心深い部類の少年たちは、己の神様の元を目指すことに決めた。
 彼らの中に、バイクや車の免許を持てるような年齢の信徒はひとりとしていなかった。だから、自転車で。それはきっと彼らにとっての初めての一人旅。
 自分の神様に、一対一で祈りを捧げるための巡礼の旅だった。
 もっと知りたい。知りつくした時、きっとなにかが変わるから。

「でも、みんなここで阻まれて終わっちゃったんでしょうか」
「うん。ほとんどはそれで終わっちゃった。けれど一人だけ、辿り着いたそうよ」
 わたしは突き刺さった自転車のフレームをしっかり掴んでから、力いっぱい引き抜こうと試みます。けれど自転車はびくともせず、とても深く埋まってしまっているようでした。
「会えたんでしょうか、彼の神様に」
「戻って来た少年は、掲示板に書き込んだらしいわ。『普通におもしろかった』って」
「ふつうって……ありがたみがないですね」
「そうね。これは想像だけれど、気づいてしまったのじゃないかしら。ぜんぶ知ったって、別に自分はなんにも変わらないことに」
「そりゃあ……そうでしょうけど。それで、そのあとはどうなったんですか? 掲示板は?」
「わからない。この話はこれで終わりだから。でもそうねえ、後輩ちゃん。せっかくだし、あなたが続きを空想してみせて」
「うーん、よわりました、そういうのは苦手で」
「あなたの空想のおおきさならきっとできる」
「たかがしれてますよ」
 先輩の瞳がわたしをじっと見つめます。それはおそらく、信頼のまなざし。
 けれども、わたしにはその資格があるのでしょうか?
 彼女の後輩であるに足るために、なにか重要なことを身につけないまま来てしまったような気がします。
 まるで、進級にはあとたった一日だけ足りないまま学年末を迎える出席日数みたいに。
「空想には力があるわ。自由を与える力が。私たちを乗せられる唯一の乗り物」
 先輩はそう高らかに宣言してから、バッグから例のリモコンを取り出して先端を空に向けました。
「見てて」
 その液晶に表示されていた文字が温度でも湿度でも運転モードでもなく、ただ漢字の「昼」であったのは、わたしの見間違い、いや空想だったでしょうか。
 先輩がボタンを押すと、どこからともなく、ぴ、という電子音が鳴り響き、そして太陽に変化が起きました。白色電球色の天体は、急速に色を赤く染めながらおそるべき速さで地平線に沈んでゆくのです。
 同時に反対の空から昇りゆくのは、輝く満月。突き立った自転車が砂浜に投げかける影がはっきりと見えるほどに明るい月の晩に、あまりに唐突ながらしかしたしかに——わたしたちはそこにいたのでした。
 息も荒くへたりこむわたしを尻目に、涼しくなったわねえ、と楽しそうにはしゃぐ先輩。
「わたしにはもう、よく、わからないです」
 わたしはやっと声を絞り出します。
「わかることよりも重要なことはあるわ。ねえちくわぶー!」
 相も変わらず沖合でくねくねしていたらしい海ちくわぶが、まるでうんと歳を取ったクジラみたいな鳴き声を上げて、先輩の呼びかけに応えます。
 あはははっ。先輩が無邪気に笑って、砂浜の上の影と一緒にくるくると踊ります。
 弛緩した現実。理屈も常識も夏休みを取っているのでしょうか。
「先輩、来年の合宿はどこへ行きましょうか」
 ならばと、力を抜くことにしました。ただなんとなく心に浮かんだことを先輩に尋ねます。
「後輩ちゃんが行ってみたいところ」
「じゃあ月ですかねえ」
 もちろんわたしがアポロ計画に憧れているとかそんなことはなくて、ただただ適当に昇った月を眺めながら発したことばなので、あまり意味はありません。
「ああ、いいわね月。綺麗で。少なくとも暑くはなさそう」
「あははたしかに。でもそのためには来年までに人類の科学力がもっとこう、飛躍的に上がっていかないと……どっかーんって感じで」
「科学力もいいけれど、想像の飛躍をさせたほうがもっと手っ取り早いと思わない?」
「というと?」
「そうね。例えばこんなふうに」

 どっかーん。

 果たしてそれは先輩の声であったか、海ちくわぶの声だったか、判然としないのですが。
 とにかく、世界が、わぁん、と唸って、そして揺れたのです。

  5


 おまたせー。スパイシーソースのほうでよかったわよね。
 ありがとうございます、ええとそうですはい。どうも。あ、お代はあとでいいですか。
 りょうかいっ。
 そんな会話を交わしつつ、わたしは先輩から、串に刺さったラム肉を受け取ります。
 そのままわたしたちはふたり、改めて空いているベンチを探して街路をきょろきょろと見回すのでした。
 わたしたちがいるのは、ティコ・クレーターはアインシュタイン駅南口。
 いかんせんどこもかしこも物価高気味の月面都市において、リーズナブルにおいしいご飯を比較的安価で食べられるこの屋台街は、バックパッカーや学生の旅行客にも人気のスポットです。
 買い食い用にベンチとゴミ箱もしっかり必要十分な量が設置されていて、ルナ自治区を訪れる観光客に広く愛されてるとのことで……
「最近ティコは現地ふうのソースをべっちょりつけたシシケバブ屋さんが流行りで、振興のために協会ができてさかんにピーアールしているそうです」
 ……というのもすべて、動画サイトでヒットした動画情報の受け売りなのですけれど。
 月面いちばんの繁華街は、夕刻を過ぎてなお(とは言っても街の中央にそびえる人工太陽が24時間さんさんと輝いているおかげであまりそんな感じもしないのですが)人通りもさかんです。
 なにぶん歴史の浅い都市ですから、どれもこれも角で指が切れるくらいぴしっとした大理石ふうの建物はどこれも人工太陽の光をぴかぴかと反射してきれい——だけれどどこかしっくりと馴染みきっていないような感じのする、なんだか不思議な感じのする土地でした。
 ちょっと歩いたところに空いているベンチを見つけて、わたしたちはそこに腰を下ろして今まさに名産品への階段を登りつつあるシシケバブにかじりつきます。
「スパイシーソース、どう? けっこう辛い?」
「そうですね、甘辛って感じでおいしいです」
「ノットスパイシーソースもなかなかいけるわよ。ハーブ系の味。でもそろそろ、ひらたい感じの味が恋しくなってきたかも」
「ひらたいお味とは」
「えっとね、つまりスパイスばかりじゃなくて、出汁で味を調える感じの……たこ焼きとか」
 連休を利用したこの旅行も既に四日め。月の料理はアメリカン・エスニックがポピュラーなので、先輩のおっしゃりたいこともわからないではありません。
「あっあっ、ティコでもたこ焼きを売ったらどうかしら。ティコ焼き・・・・・! みんなちょっとあきれながら笑って買っていくに違いないわ」
「日本人観光客には人気が出るかもしれないですね。ああでもタコなら火星で売りたい感じもします」
「出たわね、伝統のタコ型火星人!」
「そうそれです!」
 なんて、地球の引力を離れてもわたしたちはいつも通り。まぼろしめいた会話はわたしたちのお約束デフオルト。水銀色の光を投げかける街灯の下、広場の時計に目を走らせると、そろそろ電車の時間のようでした。せっかくの旅行なのに、電車に乗り損ねて予定をふいにするなんてあまりにも悲しいことですよね。
 食べ終わったシシケバブの串をゴミ箱に放り込んですばやく駅前の無人キオスクでおやつと飲み物を仕入れたら、旅行者用パスで駅の改札を通過します。
 案内表示に従って、改札から入ってすぐ右方向。四番ホームに乗り入れてくるのは、赤と青の車体が印象的なアームストロング線のリニア車両です。

 れでぃーす あんど じぇんとるめん。あてんしょん ぷりーず。
 ざ ねくすと とれいん あらいびんぐ あっと あいんしゅたいん すてーしょん おん とらっく なんばー ふぉー いず ざ あーむすとろんぐ らいん えくすぷれす さーびす……

 のべ三日間の移動の間にすっかり乗り慣れた月のリニアカーは、ティコの市街をあっというまに北につっきって、まるでフライパンの上をすべるバターみたいに月面の荒野を進みます。あらかじめ指定席を取っておいたこともあって、列車の旅は快適そのもの。
 太陽光を反射してぼんやりと光る白銀の月面と、その中でひときわ白く輝く大理石造りの建造物たちが、大昔のブラウン管に映したピクセル・ゲームのように走査線をにじませて音もなく流れてゆきます。
 月の景色はたしかに美しいけれど、しかしどこもあまり変わりばえしなくて——何年か前から景観保護とかなんとかで大規模な広告掲示も禁止なんだそうです——こらえ性のないわたしは、わざわざ月まで来ているくせに、つい自分のスマートフォンをいじり始めてしまいます。
 ホーム画面に届いたアラート通知を開くと、地球ではついに件の台風が上陸したとのこと。詳細ボタンをタップすると、それが文化祭の日とぶつかるかもしれないらしくて……そういえば、まだ文化祭のプリントを出していないことを思い出して、わたしの心は急激にそわそわと落ち着きがなくなります。
 ねえ先輩、そろそろさすがにまずくはありませんか。ひょっとしてもう遅いかも……
 焦りのままにスマートフォンから顔を上げると、先輩はわたしのとなりできれいな寝顔を月の荒野に向けていました。
 うーん、起こすのはさすがにはばかられるなあ。そもそも旅行先でこういうことをいきなり言い出すのは無粋でしょうか……

 あてんしょん ぱせんじゃーず。ざ とれいん なう あらいびんぐ あっと せれーねー はいらんず すてーしょん いず ざ あーむすとろんぐ らいん ふろむ あいんすたいん すてーしょん。
 ぷりーず すたんど くりあ おぶ ざ ぷらっとふぉーむ えっじ あんど……

 若干もやもやしながら、そのあとわたしも結局すこし眠たくなってうつらうつらしているうちに、体感的にはあっというまに目的の駅に到着してしまいました。
 ここはセレーネハイランズ・ステーション。日本らしく言うと、セレーネ高原駅ということになるでしょうか。ティコの喧噪からちょっと離れたいひとむけに整備された観光地ということです。もちろんこれも動画が教えてくれただけなのですが。
 駅前の無人レンタル・ステーションで、けさアプリからばっちり予約しておいたバギー——ええ、もちろんあのムーン・バギーのレプリカです——をさっとレンタルして乗り込んだら、出発進行。
わたしたちはティコの荒野を、エンジン音を響かせてぶんぶんと進みます。
 わたしたちのどちらも運転免許は持っていないから、運転はオート限定。所定の場所まで連れて行ってくれる、実質的にはタクシーみたいなものともいえました。
「ぜんぜんひとがいないわね」
 例によって美しく、そして例によって代わり映えのしない月面を眺めながら、先輩がつぶやきます。
「オフシーズンの平日っていうのは、どこもこんな感じなのかもしれないですね」
「それにしてもこれじゃあ、開拓企業の経営状況が心配だわ」
「地球のほうから補助金とかいっぱい出てるんですよ、きっと」
「うんっ、守られているのね。私たちみたいに」
 やがてバギーは自動で停止して、やけに抑揚のない英語でなにかをまくし立てました。
 あまり聞き取れませんでしたがおそらく、ここが目的地で、帰りはもう一回乗り込んでボタンを押せということなのだと思われました。
 改めてだだっぴろい月面に降り立ったわたしたちは、しばし黙って空を見上げます。
 見ているのは、どこまでも広がる黒い天幕の中に、一つ輝く、青い星。
「大きいわね!」
「えっと、地球から見る月の四倍くらいの大きさで見えているそうです」
 今度こそ、とかなんとか言いながら、先輩はわたしと——半ばむりやりに——肩を組んで、スマートフォンのインカメラで地球をバックに、記念写真を撮りました。
「ほらほら、みてみて」
「自分が写ってる写真なんて見たくないですよう」
「うーん、目で見る地球より、ずいぶんしょぼいわね」
 一体、しょぼいとはいかなることでしょうか、と——自分の顔を直視したくないから薄目で——写真を確認すると、たしかにわたしたちの背後にある地球は、言われてみればなんか青いかもねくらいのサイズの点にしか見えません。
 ちゃんとしたカメラなら違うのかしら。うーんまたしくじったわ。
 しょんぼりとこぼす先輩ですが、彼女はきっとすぐに立ち直って不屈の精神で何度でもわたしを写真に収めようとするに違いないので、わたしはさっさと次の手を繰り出すことにしました。
「そうだ先輩、はたです。を立てましょう」
「あっあっ、はた・・と気づいたわけね!」
「あっはい、ええと、さすがです」
「ふふん。せっかく追加料金を払ったんだものね」
 先輩はうきうきした様子で、バギーのトランクを開きます。
 我らが動画さまの教えによれば、自分たちをティコニアンなんて称しているらしい地元の若者の間で流行っているアクティビティが、月面に旗を立てて写真撮影をすることなんだそうです。
 バギーのレンタル料金にちょっと足すだけでそれが体験できるなら、ちょっとやってみようよというわけでして。
 先輩はトランクからするする長い旗を取り出して、月面の空に掲げました。
 肝心の旗の模様がアメリカ国旗なのはちょっとシュールですが、まあ歴史的には合っているのでよいのかもしれません。
「どのへんに立てましょうね」
「誰もいないんだし、好きなところに立てたら大丈夫ですよきっと」
「じゃあこのへん。わーい! 地球は、青かった!」
 やっていることは圧倒的に地味なので、先輩もすこし無理をしている気がしないでもありません。けれど、その空回りした感じもまさに個人的な旅行という風情でやっぱり楽しいものです。
「歴史に残る瞬間ね」
「きっと夜中に係のひとが回収しちゃうんでしょうけど、ゆかいではありますね」
「うん。これは歴史の再現。価値のない複製にすぎないわ。でもいいのよ、愛おしければ」
 自分で自分の発言にふんふんとうなずきながら、ちょうどいいあたりの地面に、先輩はアメリカ国旗の軸——の、やや尖った先端——を突き立てます。
「唯一無二であるよりも、愛情を注げることのほうがよっぽど重要」
「量産品のぬいぐるみでも、名前をつけて可愛がったらそれはそのうちの子っていいますもんね」
 われながらあまりに苦し紛れな返答でお茶を濁しながら、わたしはスマートフォンで先輩の姿を写真におさめました。あおりの視点で撮っても、やっぱり地球は小さい点のままで。
 それは人類にとっての大きな一歩を記録した宇宙飛行士のあまりに雑な再現で、そしてわたしにとっての大事な思い出でもありました。
「わたしたちがわたしたちである必要はどこにもない。でも、ふたりでこうして、ここまで来られたものね」
 真っ黒な天幕。写真にすると途端に小さくなってしまう地球。
 それらを背負って無機質な月の大地に立つ先輩の姿の、なんと素敵だったことでしょう。この高原の由来たる月の女神セレーネだって、すっぽん同然に違いありません。
 しかし、わたしが涙を流したのは、ただその美しさに胸を打たれたせいではないような気がしました。
 なぜでしょう、わたしはとてもうれしかったのです。
 そう、わたしたちは、ずいぶん遠くまで来たのです。他でもないわたしと先輩のふたりきりで。
 かつて、先輩はわたしに言いました。

『目にしたとき、ただただ膝を折り、頭を垂れるしかないものがある』
『後輩ちゃんは、出会ったことがあるかしら?』

 問いかけからは長い、長い時間がかかってしまったけれど、わたしはその答えを見つけたような気がしました。
 わざわざ月まで遠出して、わたしは出会うことができたのです。
 月の上で、星よりなお輝く、わたしの先輩。
 どこまでも気高く、お茶目に、わたしを導くもの。
 ただただ膝を折り、頭を垂れるしかないひと。
 わたしは胸の中で祈ります。
 全ての災いが、彼女を避けて過ぎ去ってしまいますように。
 願わくば、わたしたちの時間がきっと終わりませんように——
「きゃっ」
「せんぱい!」
 そのときです。突風が月面の岩と砂を巻き上げ、旗をばたばたと打ったのは。
 大気の活動がない月面で突風など、果たしてありえてよいのでしょうか。
 半ば確信にも近い予感と共に、わたしは頭上の青い星——地球に目をやりました。もちろん論理的に考えれば、38万キロメートルの彼方にある地球とこの突風は関係あるはずがないのです。
 けれど、わたしはたしかに見たのです。
 わたしたちを襲った突風。その源たる嵐が、故郷の星で膨れ上がるさまを。
 わたしたちが礎としてきたものが、崩れゆくその始まりを。

  6


 あちゃあ。
 なんてまぬけなことでしょう。
 わたしは固く閉ざされた校門の前、ぼうぜんと暗雲立ちこめる曇天を仰ぎました。
 わたしは本当にこんなにまぬけだったでしょうか?
 いえ、この状況こそ動かぬ証拠。実際まぬけなのでしょうね。
 ぬるく湿った風が、わたしのため息を緩慢に押し流してゆきます。
 太平洋の上でそのまま熱帯低気圧になると思われた台風が突如として息を吹き返して巨大台風になって上陸したとかなんとかで、今日は学校まるごと休校。学校にも来る必要などないということを、わたしはすっかり失念していたのでした。
 学年の連絡システムからの通知を見てやったあ明日は休みだなんて小躍りしたのに、一晩眠ればポカンと忘れて惰性のままにのこのこと通学してくる自分のまぬけぶりに嫌気が差しつつ、強烈なめんどくささに襲われながら、わたしは、それでもなんとか帰路につこうとした、そのはずでした。
 その感情をどう表現したものか、的確なことばが思いつきません。
 気がつけばわたしの手は校門の枠を掴んでいました。いい感じのとっかかりを見つけて足を引っかけて、腕と足の力を総動員して体を持ち上げて——近隣住民がわたしの姿を見ていないことを祈りつつ——閉じた校門を乗り越えて、学校の敷地に転がり込んだのです。
 ちょっとした好奇心。あるいは社会への反抗心などなど、いかにも若者らしい動機で休校中の学校に忍び込む。それはなんだかありそうな話で、ある種健全といえるような気もします。けれど、わたしを動かしているのはそんなさわやかな意思の力ではないのだろうなと思います。
 だれかが、なにかが、わたしを追い立ててそうさせているような。
 自分でも自分がわからないまま、施錠の漏れたドアの一つから校内に侵入しおおせたわたしは落ち着きのない早足で校内の果て——部室棟を目指します。
 まるで——これがおかしな表現であることはわかっているのですが——もう、わたしにはそこしかないみたいに。
 電気の点かない校内は、曇天のせいでしょうか、湿った灰の中に沈んでいるかのよう。一方、窓の外では木々がざわつき始めました。嵐が、ついにこのあたりにもやってきたのです。文化祭の日程にかぶらなかったのは不幸中の幸いでしょうか。今まさにさしかかったこの部室棟で、たくさんの生徒たちがその日のために日夜準備をしていましたからね。
 ここまで来てしまえば、もう行くべきところは一つしかありません。——部室です。
 とりたてて特徴のない引き戸に手をかけて、引く。
 それは、何度となく繰り返した動作です。けれどもなんだか、とても久しぶりのような気がしました。
「来たのね。通学お疲れ様でした」
「あっあっ、これはどうも」
 部室には、さも当然という感じで先輩が椅子に腰掛けていて、わたしたちは場違いにもごくふつうの挨拶を交わします。吹き荒れる嵐の気配さえなければ、まるでいつもの放課後とそっくりのやりとりです。
「放課後でもないのに鍵が開いてるって、よくわかったのね」
「あーっ、たしかに、前もそんなことがありましたね」
 うーん、どうやらわたしはこの部室に鍵がかかっているという事実を忘れがちなようです。異常な状況といつもらしい日常のふたつが同時にやってきて、どうにも気持ちがざわざわとして、まったく落ち着きません。
「ふふ。なつかしいわね」
「先輩はどうしてここに?」
 うん、と、答えにならないような生返事と共に、先輩は椅子から立ち上がると、窓のほうに歩み寄って、外を見つめます。
「くらいわね」
 この部室は西向き採光ですから、午前中は薄暗いんですね。
 そんな無難な返答でお茶を濁そうとするわたしをたしなめるように、ごう、と吹いた突風が、窓ガラスをがたがたと揺さぶりました。
 それも、くりかえし、くりかえし。
 窓ガラスはもちこたえてくれています。それは心強いことで、よいのです。しかし、それよりも問題は窓の外でした。
 風が吹き付けるそのたびに、空が、雲が、木々が、大きく揺れます。揺れるそのたびに景色が、黒く沈んでゆくのです。
 まるで早送りの映像のように、急速に光を失ってゆく窓の外の世界。もしかすると誰かがリモコンを空に向けて「夜」のボタンを押したり離したりしているのでしょうか。
 あまりにも常軌を逸した情景を前に、いかに鈍感なわたしとて声を上げずにはいられませんでした。
「先輩!」
「うん」
 また生返事。
 もうやめてと思っても、風は幾度となく吹き付けて、やがて窓の外は真夜中のように暗く——まるで古典の授業で出てきた、黒洞々たる夜を再現したような——しずみきった荒れ地に姿を変えました。
 やがて吹き付ける風が奪うことができる光すらなくなったあと、ようやく先輩がこちらを振り向きます。不思議なことに、外は真っ暗、部室の電気はついていないはずなのに、先輩の姿と愁いを帯びた瞳だけははっきりと見えるのでした。
 先輩はわたしが知らない理由による悲しみの中にいて、そしてすっかり弱っているように見えました。
 あの日、月の上でアメリカ国旗を打ち立てた先輩が月の女神であったなら、この先輩はその姿だけを象った石膏像のようです。
 あれ?
 そもそもあれはいつのことだったでしょうか? どうやって帰ってきたのでしょう? いえ、そもそも宇宙にわたしたちのような女子高生がぽっと行けてしまうほど人類は……
「後輩ちゃん、あなた、震えているわ」
 生気のない声。けれど、その中にも慈しみを込めて、先輩がわたしに気遣いの声をかけてくださいました。
「すみません、ちょっと寒いみたいで」
 反射的にそう答えて初めて、わたしは自分が体の芯から指先まで、すっかり凍えていることに気がつきます。この部室は寒いのです。冬の朝の凍てつくような、でも体ごと透き通ってゆくような寒さではない、もっと痛みを伴うような寒さであるよな気がしました。
「だいじょうぶよ」
 先輩はすっかりとかじかんで感覚がにぶりつつあるわたしの手を、ぎゅっと握って微笑みます。その部分にだけ火が灯ったように、触覚と、そして勇気のようなものが充填されていくようでした。
 楽しかったこと、思い出しましょう。
 先輩は真夜中のキッチンシンクに落ちる蛇口からの一滴のようにさびしい声でそう言って、まるで子守歌を歌うように、語り始めました。

 とびきり怖いと評判のホラー映画を、ふたりで観に行ったこと。
 夜中の学校に忍び込んで校長先生の弱みを握ろうと画策したこと。
 補習から逃れるために、ファミリーレストランで朝から晩までテスト勉強をしたこと。
 自信喪失した顧問の先生をふたりで元気づけたことも、そういえばあったということ。
 ふたりの思い出。

「そんなことあったでしょうか」
「まちがえたわ。これは予定だった。私、いざというときにかっこつけられない、だめな先輩みたい」
「そんなことないですよ。どれも楽しそうですし、これから先に——ぜったいにやりましょうね」
 うん。
 先輩の手がわたしの手を離れたかと思うと、その手はわたしの腰に回されます。
 そのまま、先輩はわたしをそっと抱きしめました。
 あたたかい。先輩の熱がわたしに流れ込んできて、滞っていた血液がふた、全身をめぐり始めるのを感じます。
 そのあたたかさは、あまりにやさしくて。
 幸せなぬくもりが、意識と理性を塗りつぶしてゆきます。
 でもどうしてだろう、すこしさびしい気がします。
 眠りたくない。でも、眠る以外の選択肢は塗りつぶされて、もう、ない。
 だから、祈ることにしたのです。
 ずっとこの時間が続きますように。わたしと先輩のささやかな夢がきっと叶いますように。
 友人の絵に神様を見た少女。あるいはインターネットの向こうの神様を崇めた少年たち。彼らの祈りを束ねたよりも、ずっと強い気持ちで、わたしは念じます。
 かつて先輩はわたしに尋ねました。わたしはいかにように祈るのか。
 これがわたしの祈り。
 この強い気持ちが、祈りでないはずがない。ぜったい。

  7


 真っ暗な部室の真ん中。わたしは椅子の上で目を覚ましました。
 変な姿勢で深く眠ってしまっていたようです。はっとして驚きのままに立ち上がると、変なかたちで凝り固まった全身の筋肉がみしみしと不満の声を上げました。
 先輩の姿はありません。いえ、そもそもわたしは先輩に抱きしめられたままうとうとしていたのであって、そのときわたしは二本の足で立っていたはずです。一体、いつ椅子に腰掛けたのでしょう?
 ならばいっそ、すべてが夢であったというほうがしっくりきます。例えば、放課後に部室で眠りこけて、そのまま夜になってしまったとか。
 だとしたらまぬけにもほどがありますが、まあそれも甘んじて受け入れられなくはありません。
 あんな悲しげな先輩が、現実のものであって欲しくはありませんから。
 とはいえ本当に夜中まで眠ってしまったとしたら、これはまずいことになりました。だって親に、先生に、それからもちろん先輩に、どう説明したらよいのでしょう。
 頼みの綱たるスマートフォンは——そんな気はしていました——電池切れ。こういうはめになるのだから、普段より部室に充電器を置いておけばよいものを。
 というわけで、わたしは夜中の校舎で途方に暮れることしかできない、そのはずでした。
 しかし、本当にここが夜中の校舎であるなら、どうしてひとの気配が、ざわめきが聞こえるのでしょう?
 もしひとがいるならば、そのひとに会いたい。そのひとが先輩だったなら、もっといい。
 そんな思いに突き動かされるがまま、部室を飛び出します。
 転がり出た部室棟は、やはり真っ暗。外から差し込むわずかな街灯の光が、なんとか視界を確保してくれています。つまり、今は深夜なのでしょうか。
 けれども、そうであるならば、棟をつらぬく廊下の彼方、つまり教室棟のほうから楽しげな音楽が聞こえる道理はありません。
 なにかがおかしい。焦る気持ちのままに、わたしは走り出します——それは何度となく繰り返した約半キロメートルのマラソンに似ていました。
「いてっ」
 最低限の視界はあるとしても廊下はやはり暗いので、足下もどこかおぼつきません。なにか重たいものを盛大に蹴飛ばして、バランスを崩しかけます。立ち止まって確認すると、それは見慣れた食品メーカーのロゴがプリントされた、どうやら半既製品のホットスナックを保存・運搬するための箱のようでした。隅のほうにちいさく「陸上部」とマジックで殴り書きされています。
 暖めて売るだけで模擬店ができる、文化祭にありがちなパッケージの一部。
 よくよく見れば、廊下のあちこちには段ボールの切れ端やつくりかけの看板、飲みさしで放置されたペットボトルなど——お祭りの混沌の残滓とも呼べるようなものたちが散らばっているのでした。
 わたしは嫌な予感と共に、ますます走る速度を上げます。
 すこし、あともうすこし。
 何がもうすこし?
 わたしが教室棟に飛び込むと同時に、わたしを包むものがありました。
 それは声のないざわめき。光のない輝き。
 それは暗い校内いっぱいにひしめき合い、そして行き交う影。そして、影たちが上げる楽しげな笑い声。
 月の市街地のような上品な活気とはすこし違います。あまりに力まかせで、今だけで、ただそこにいるのが楽しくて仕方がない——あまりにもなじみ深い、文化祭の空気。
 窓の外の夜を集めて固めたような影はよく見るとひとのかたちをして、きっと友達なのでしょう、隣り合う影と談笑しながら足早に雑踏を行き交います。
 ある影は、ばたばたと落ち着きなく廊下を右往左往してなにか見えないものを運びます。
 にぎやかな影たちの中でわたしだけがひとりぼっちで、廊下の隅でぼうっと影たちを眺めています。
 ふと、校内アナウンスが鳴り響きました。13時から体育館で演劇部が公演をやるからぜひ来て欲しい、今なら最前列もたくさん空いている——そうです。ふと香ってきた、この香ばしい匂いは、フランクフルトの焼ける匂いでしょうか。
 さすがのわたしも理解しました。
 間違いありません。
 今は、ここは、文化祭。
 県内有数のマンモス校を挙げた、それはもう盛大なお祭りです。
 それはわたしと先輩がプリント提出を先延ばし続けて、ついに迎えることのなかった日のことでした。
 その日にはきっとなにかが起こるべき日だったのに違いありません。
 けれど、わたしたちを乗せた空想の速度よりも、嵐の速度のほうが速かった。
「先輩」
 わたしは先輩を探して、校内をむやみやたらに走り回ります。
 『クレープ屋さんのクーポンがあって』
 わたしは文化祭なんて決して好きではないけれど、
 『演劇部の公演、行くんだっけ?』
 でも、先輩と過ごしたならすこしくらい愛せたかもしれない。
 『あっこれ? 手芸部で買わされちゃったやつ』
 わたしたちもその一部になれたかもしれなかったざわめきが、今となってはただ悲しいだけです。
 『うわー、なつかしいな。ここ準備室だったんだよね』
 足がもつれて転びます。息が切れて立ち止まります。
 それでも。
 『え? 先生のコスプレ見てないの? 動画あるよ』
 影たちが演じる幻の文化祭は、決して終わってはくれません。
 どこまでもいつまでも続きます。
 『やべ、タピオカこぼした』
 もはや、世界にはそれしかないのだと、わたしは心のどこかで理解しているのです。
 影たちを、恐ろしいと思うことはありませんでした。それはわたしにとってやはり影でしかなくて——まあ、楽しそうな様子がすこしうらやましくはありますが——
 そもそも、わたし自身だってもはや、影とどんな違いがありましょうか。影は実体がありません。もはや、傷つくことすらないのです。
 暗闇に目はだんだんと慣れてきて、視界は幾分良好といえました。
 部室棟は、やばた文化祭の準備のためか、やはりずいぶん散らかっているようです。一度しかつまずかなかったわたしは、この期に及んで幸運だったということでしょう。
 部室棟の廊下を歩き始めて、体感で——どうでしょう、数十分程度でしょうか。
 さすがのマンモス校だって、こんなに敷地が広いはずはありません。どこにも行けないまま、ずいぶん長く歩いてしまいました。
 ここで引き返して、教室棟に戻るほうがきっと、賢い選択に違いありません。
 でも、だめです。
 まだ、わたしの部室がないのです。
 いくら探しても見覚えのある引き戸はなく、磨りガラスの向こうに真っ暗な闇をたたえた部室が、書き割りのようにどこまでも続いているだけ。
 ただ雑然と続く廊下は、果てしなく変わりなく。わたしに戻るよう促すきっかけひとつ転がっていないのです。
 疲れ果てて痛みの出てきた足。冷え切った指先が、じんじんと痛みます。
 いつまでこんなことが続くのでしょう。何度目かの強い悲しみの高波が、ついにわたしの視界を、冷たい涙でじわりと曇らせました。
 そのときです。ついに座り込もうとするわたしの歪んだ視界の向こうに、ちいさな明かりが見えたのは。
 無数にそして無機質に並ぶ部室のドアの一つ。木製の表面にはめ込まれた磨りガラスが、その向こうから蛍光灯の光を透かして輝いています。
 それはわたしにとって、あまりに久方ぶりの光。いてもたってもいられず、引き戸を開けて部屋に飛び込みます。
「あら」
 ちょっとうすぐらいけれどたしかに明かりの灯った部屋の中では、
「先輩!?」
 先輩が——そうです、あの先輩です——が、ちんまりと席について発泡スチロールの皿に乗った、たこ焼きを一つ口に運んでいるところでした。
 開いた口が塞がらないとはまさにこのこと。わたしは床にへたり込みながら、とにかく抗議の声を上げました。
「な、なーにのんきに食べてるんですか!」
「だ、だって……たこ焼きは……おいしいものだから……」

  8


「ああもう、そーじゃなくて!」
 感情の温度差に気持ちが耐えきれなくて、声量を適切に調整できません。
 先輩はしおらしくも瞳に当惑の色を浮かべつつ、たこ焼きをぽとりと取り落としました。
「わわわわ、わわ、わたし、わたしがどんなに心配したか!」
 感情は高ぶってはち切れそうなのに、涙があふれたっていいはずなのに。
 のんきにティコ焼き、いえたこ焼きを頬張る先輩のあまりに自然な姿は、わたしの張り詰めきった緊張の糸を、ぷちん、と切ったのです。
「ちょ、ちょっと落ち着いて」
「これが落ち着いていられますか!」
「座りましょ。ほらたこ焼きいっこあげる」
「あっあっ、これはどうもどうも」
 先輩が差し出した串先から、たこ焼きを、ぱくりと頬張ります。
 それはすっかり冷めていたし、いかにも文化祭の出店らしいクオリティでしたが、ソースの甘みと粉もの特有のもったりとした満足感は、わたし自身がずいぶんお腹を空かしているのだということを思い出させてくれました。
「もういっこいる?」
「あっあっ、その、ご迷惑でなければ」
 惜しげもなく先輩が差し出してくださる追加のたこ焼き。せっかくなのでいただくことにします。呑み込むと同時にすかさず先輩が新しいたこ焼きを差し出してくださるので、それもまたおいしくいただきます。
 そんなことを、何セットか繰り返したでしょうか。
 お腹が満たされたおかげで、ささくれ立った気持ちもすこしは落ち着いてきます。
 そのせいでしょうか、わたしの内側にもわずかながら洞察らしきものが芽生えてきて。
「先輩、ちょっとお手を借りてもよろしいでしょうか」
「はいどうぞ」
 わたしの突然の申し出にも、文句ひとつ言わずに応じてくださる先輩。
 差し出された白くなめらかな手を、わたしはそっと握ります。
 やわらかなその指先は、しん、と冷え切っていました。その奥に隠れているかもしれないぬくもりを、わたしは必死で探します。
 その間、先輩がなにも聞かなかったのは、わたしの行動の意味を既にわかっているからに違いありませんでした。
「あなたは……違うんですね」
「はて。違うとはどういうことかしら。ぜんぜんわからないわ」
 息切れした明かりを投げかける蛍光灯の下で、先輩の瞳の輝きもまた、ちかちかと明滅していました。
 その輝きから決して目をそらすまいと見つめながら、わたしはただ黙って、次の一言を待ちました。
 さすがにわかるのねえ。
 先輩は寂しげにすこし微笑むと、わたしが絡めた手をそっとほどきました。
「ちょっと気持ち悪かったら申し訳ないんですけど……ぬくもりが違うんです。あのときの先輩のあたたかさを、あなたからは感じなくて、その、なんだろう、すみません」
「ううんいいのよ。鍵が違えば錠は開かない。当然よね。私はあなたの先輩ではないんだから」
「見た目はおんなじなのに、意外とわかるものですね」
「そうよね。あなたはあの子じゃないんだって、触れればちゃんとわかる」
 わかったってもう、私にできることはなんにもないけれど。
 先輩はそんなふうに自嘲してみせてから、わたしの肩越しの壁——正確には、そこに映し出されているに違いない彼女の思い出——を見つめながら、ゆっくりとことばを紡ぎます。
「空想は順調に育って、私たちの世界を広げた。私たちを乗せてどこまでも行ってくれた」
「けれど、嵐が来たんですよね」
 嵐。後になって振り返ってみれば、それは最初からわたしたちの日々に影を落としていたではありませんか。
「先輩と後輩。そしてよくわからない部活とその部室。私たちはゴールデン・ルールそのものといってよかったわ。けれど、それ以上に物語はデリケートなのよ。嵐の中で簡単に引き裂かれて、ごみくずしか、残りは、しない」
「ごめんなさい、泣かせるつもりじゃなくて」
「ううんっ、勝手に、私のせいだもん。口に出したらね、意外と悲しくなっちゃってね、ごめんねっ」
 わたしはただおろおろと、制服のポケットにハンカチを常備していないがさつな女である自分を呪いながら、せめてものなぐさめになればと先輩の手を取ります。
 だって、あの先輩が涙を流すところなんて想像だにしたことがありませんでしたから、おろおろもしようというものです。
 冷たくも温かくもない、灰を固めたような感触の先輩の手を握りながらわたしは思います。
 わたしたちはコンクールに応募された無数の絵画であり、砂浜に突き刺さった自転車であり、月面に突き立てられたイミテーションのアメリカ国旗の群れなのです。
 強度の低い空想に依拠した、客観的には価値のない複製。
「先輩はここで何を?」
「私、失敗しちゃったから。ずっとここにいるだけ。不便で寒くて、嫌なところよ、どんどん暗くなって、いつ終わるのかなって」
「わかりました。お話ししてくれて、ありがとうございます」
「ねえ知ってる? 私って、肝心なところでは決してかっこつけられないの。結局、最後までうまくいかないの」
「そんなの知ってますよ。でも、わたしはそんな先輩が——」
 いつだって、どんなときも大好きですよ。
 なーんて、言う度胸はなくて、その代わりに、
「うん、まあそのほんとうによくて。ええと、フランクフルトでも買ってきましょうか。さっきわたしがずいぶんいただいちゃいましたし。他のやつがいいですか。シシケバブとか——腹ごしらえしないとですもんね」
 まったくしどろもどろにしまらないことを言って、でも話しながら考えていくと、すこしずつ考えもまとまってきました。
 先輩が「失敗」し、嵐の中で彼女の後輩を失った結果としてここに縛られているなら、わたしもきっと同じようなものでしょう。
 ならば、まずは腹ごしらえをしなければ。まずはあたたかい食べ物と飲み物が欲しいです。さもなくば、わたしと先輩のふたりとも、気力を充実させないとつぶれてしまいそうでしたから。
 先ほどのたこ焼きの入手元は、やはり模擬店でしょうか。他の屋台でなにか——タピオカ屋さんの話をしていたような。
 影たちが執り行う、まぼろしの文化祭の会場へ戻ろうとするわたしの手を、先輩がぎゅっと握って引き止めます。
「だめよ」
「えっとわかりました、じゃあふたりで行きましょうね」
「人数の問題ではないの。後輩ちゃんはそんなことをしてる場合ではないということよ」
 わかりましたけどまずちょっと落ち着きましょう、と身をよじるわたしですが、先輩は強い力で、決して離してくれません。
 それどころかますます強い力で、わたしの手を痛いくらいに強く握りしめます。
「熱はすぐに冷めてしまうもの。ねえ、今から重要な問いをするわ。聞いて」
 空いているほうの腕で、ぐい、と男前に涙をぬぐってから、先輩はわたしの瞳をしっかりと見据えて言いました。
 わずかに横に流れたアイライナーの黒色が愛おしいな、なんてちょっとだけ関係のないことを考えながら。
 はい。まるで模範的な後輩のように、わたしは返事よく答えました。
「私は終わっている。だって先輩だから。でもあなたは終わってない。後輩だから」
 こんなに余裕のない先輩は未だかつて見たことがありません。
 だからこそ、先輩がとても重要なお話をしてくださっていることがわかるのです。
「これは越権行為だわ。けれどね、きっと許してもらえると思うことにして——あなたの先輩に代わって、おそらく二度目の問いを投げかけるわ」
 そのとき、試練の気配をわたしは唐突に悟りました。
 これから、わたしは試されるのです。
 もちろん、自分に自信などあったためしがありません。でも、そんなの関係ないのです。
 強い不安と高揚の中、私の先輩とあまりにもよく似たひとと指先でつながりながら思うのは、やはり先輩のこと。
 ああ、どうか、わたしを見ていてください。
「あなたを導く先輩を失い、嵐のあと、自分すら失いかけた影の中で」
 これ以上ないほどに強く握られた先輩の手を、いつの間にかわたしも、強く、強く握り返していました。
 緊張と恐怖を通り越しておかしくなってしまったのか、手が、指先が——どうしてでしょう——あたたかいのです。
「あなたは、どうやって祈るの?」
 教えて。
 まるでわたしを試すような先輩のことばをきっかけにして、わたしの脳裏に遠い記憶がよぎります。
 前にもたしかこんなことがありました。
 そう、これはまさに正真正銘、二度目の問いかけです。
 あのとき先延ばしにしたことの決着を、今ここでつけなければなりません。
「わたしは……祈りました。先輩とずっと一緒にいられることを。いつかちゃんと文化祭のプリントを、生徒会に出せることも、ありったけ強く祈りました」
 思考をことばへ、ていねいに転写して、暗い夜道を歩くみたいに、ゆっくりとたしかめながら結論を目指します。
 大丈夫。ちゃんとたどり着ける。いつしかそんな勇気が胸の中であたたかく燃えていました。だから、怖くはありません。
「それが、あなたの祈りのかたち?」
 友人の絵に神様を見た少女。インターネットの向こうの神様を崇めた少年たち。そして、月面で笑う先輩を前にした、いつの日かのわたし。
 対象はそれぞれ。けれど、どれも等しく真摯な祈りには違いないと、わたしは思っていました。
 しかし、それらが無残に風化した残骸を、わたしはすべて目の当たりにしてきました。
 それはどうして?
 その答えを言うのにはすこし追加の勇気が必要に思われて、だからわたしは先輩に抱きすくめられたあのときの、あのあたたかさを思い出すことにしました。
 いいえ、思い出すまでもないということに、わたしは、はた・・と気がつきます。
 あのときもらったあたたかさは、今やわたしの体温となってわたしを動かしているのですから。
 ですから、あとは自信をもって言えばよいだけです。
「——祈りとは、違った」
 自分にとって価値のあるものが永遠に残りますように。
 誰かが僕たちのことを変えてくれますように。
 そして——先輩との幸せな時間が続きますように。
「では、あなたはそれを何だと言うのかしら」
 それはとっても尊いことです。やさしいことです。うれしいことです。
 けれど、とっても厳しいことですが、祈りではないのです。
「それは——願いでした。希うばかりで、わたしはなにもしていなかった」
 頬を、一筋の汗が流れる感触。なぜでしょうか、どうにも暑くて仕方がないのです。
 あごを伝ってこぼれた水滴が、わたしの膝に落ちると同時に、じゅう、音を立てて蒸発しました。
 体温にしては熱すぎる——まるで、火の熱。
「ただただ膝を折り、頭を垂れるしかないものがあります」
「そういう一般論があるわね」
「一般論の話をしているんじゃありません。先輩にも、そういうことはありますか」
「……あるわよ。もちろん」
「ありがとうございます。そういうとき、胸の中があったかくなりますよね。出会えた喜びとか、高揚とか歓喜——好きって気持ち」
 好き。そのことばの響きがなんだかうれしくて。自分の口角が上がるのがわかりました。
 もう恐れることはありません。
「わたしの祈りは——その熱で、新しい火を燃やすこと」
 うん。
 うなずく先輩の瞳の中で、火が燃えています。
 それはわたしに灯った、古くて新しい火の輝きに違いありませんでした。
「わたしたちは、先輩と後輩、そして一つの部活は、黄金の組み合わせ。祈りがつながる限り、わたしたちは空想の限り、なんだってできるんですね」
「ま、しょせんそんなのは価値のない複製かもしれないけど——」
 その先は、既に空想の月で聞いていましたから、わたしはそっと先輩の頬に指を触れて、その先をひきとりました。
「いいですよね、愛おしければ」
「うんっ、愛おしければ!」
 先輩はうれしそうに言うと、わたしをぎゅっと抱きしめました。
 先輩の体はやっぱり冷たくて、このひとはわたしの先輩ではないのだなと思います。
「後輩ちゃん、あたたかいのね」
「ふふ、なんせ、先輩がいいんです」
 それでも、わたしを導いてくれた先輩には違いありません。思いを込めてわたしも強く、抱擁を返します。
 わたしの熱が先輩に触れました。けれど、彼女の体を温めることはありません。
 それは彼女の後輩のぬくもりではないから。
 ただ、燃えるだけです。
妬けちゃう・・・・・わね」
 行き場のない熱。それは先輩の肌を奔ったかと思うと、次の瞬間には炎のかたちで先輩の体を包み込みました。熱くはないのでしょうか。わかりません。先輩は柔らかな笑みをたたえたまま、炎の中へその存在を急速に溶かしてゆきます。
 灰が炎に還ってゆく。まるで、そんな風に見えました。
 幻想的とも悪夢的とも言える光景の中、わたしは残り時間の少なさを感じつつ、脳裏に浮かんだひらめきをとりいそぎそのまま口に出します。
「あっあっ、妬けちゃう・・・・・ってそれ、つまり先輩が焼けてるだけにですか?」
「うわあ、あまりにしょーもないわ」
「えっ」
 失望の一声が発せられるのと、先輩の体が完全に燃え尽きてしまったのは、ほとんど同時のことでした。
 残ったのは先輩の残滓たる火の粉と——やっちゃったなあというやるせない空気。
「あああああ、いやその、わたしの先輩はそういうのが好きで、あなたはそうじゃないと知らなくて、だからその、よかれと思って……ほんとなんですよ」
 はあーーー。
 言い訳をしても一人。
 わたしは部室にひとりきりで、聞いてくれるひともいないのです。
 まあ、それはそれとして、です。
 頭を振って気持ちを切り替えると、わたしは早速行動にかかります。
 廊下に飛び出すと、立ち並ぶ部室から適当な一室を選んで、そこをわたしの根城と定めます。
 真っ暗で雑然とした、からっぽの部屋。でも場所はどこだってよいのです。部室であることが重要なのですから。
 そのあたりの部室から掃除用具を拝借してほこりっぽい床を掃いたら——椅子もよその教室から補充しましょう。
 えっちらおっちらと椅子を運んで戻ってくると、暗かったはずの部屋に電気の明かりがついていました。
 心なしか空気もあたたかく思えるのは、きっと気のせいではないはず。
 たしか、もっともっと大きな物語の中で、神様は世界を七日ほど使って作り上げたそうです。それに比べたら、わたしの世界はもっとインスタントにできあがるので、そんなに時間はかからないでしょう。ディティールへの大したこだわりもありませんし。
 いやまて、スマートフォンの充電設備は欲しいですね。そこはちょっとこだわったほうがよさそうです。
 そういえばホワイトボードも欲しいです。うーん、意外とこだわりたいことはあるな——
 と、いうことで意外と凝り性な自分にいまさら驚きつつ、ひとまず満足のいく部室を整備して——わたしはへとへとに疲れ切って、部室の椅子に腰掛けました。
 蛍光灯以外のまぶしさを感じて窓の外を見ると、いつの間にか生まれた空がうっすらと白んでいるのが見えました。
 そうです、朝が近いのです。
 それはつまり、やがて朝が来て、昼が来て、そして放課後がやってくるということ。
 けれど、それにはもうすこしばかり時間がかかることでしょう。
 わたしは眠ることにしました。数多の夢を見るために。わたしの後輩がこのドアを開けるまで。
 そのときわたしは目覚めて、もはやひざをついて傅くしかないあのひとのぬくもりで、新たなぬくもりを繋ぐのです。

 祈りを。

  エピローグ


 ちょっと、いい加減くっつきすぎですよお。
 わたしが先輩を押しのけると、先輩は存外素直に体を離してくれた。
 抵抗されてはなかなか難儀するに違いなかったので、わたしはほっと安堵する。先輩の体はわたしよりも頭ふたつほど小さいけれど、意外とパワフルなのだ。
「あー、ごめん、ちょっとほら、後輩ちゃん、抱きしめがいがあるから」
「なんですか抱きしめがいって。新しいっすね」
「うん、生まれたて。えっと、今日もお勉強ごくろうさま」
 小さくて細身で、声も小さくて——大人しそうに見える先輩だけれど、なんというかちょっと背伸びしてまでわたしの先輩らしく振る舞ってくれている感じが、どういうわけかすごくしっくりくる。
 同年代の女子たちりより少し大きな図体のせいかなにかと頼りにされがちだったわたしにとって、被保護者でいられるこの関係はきっと心地いいのだろうね、と、いっちょまえに自己分析してみたりしてから、別にする必要はなかったなと後悔してみたり。
 満足げな様子できびすを返して、定位置の椅子にどっかりと腰を下ろす先輩。
 わたしもなんとなく、その向かいに腰を下ろす。これが、とりたてて何に追われるでもない、わたしたちの部活動。
「そうだ、先輩。なんか生徒会の人から、文化祭のプリント預かりましたよ。早めに出してって言われました」
「あー、それは実はまだけっこう時間があるから、ホワイトボードに貼っておいて。やりたいことが見つかったら埋めたらいいよ」
「その先延ばし、たぶん忘れるやつっすよ」
「ホワイトボードに貼ってたら忘れないでしょきっと」
「その油断が命取りに……」
 先輩の手元の定位置には、充電ケーブルが繋がれたスマートフォンが今日もばっちり置かれている。べつに先輩はSNS中毒というふうには見えないけれど。
 話を聞いたところによると、充電がいっぱいでないと落ち着かないらしくて——
 スマートフォンの残りバッテリーには神経質なのに、プリントの提出には無頓着とはこれいかに。まあこだわりは人それぞれか。いかにも人間らしい感じがして、それも嫌な感じじゃない。
「先輩、スマホケース、変えたんすね」
「おおっ、気づいてくれた。このまえ行った水族館のやつ。今日おろしたばっかり」
 昨日はケース違いましたもんね。
自慢じゃないけど、わたしはこういうのにはけっこう気がつくほうだ。
 やわらかな合皮の手帳型スマートフォンケース。
 水色の表面には、いま動画サイトで流行のシー・ヌートリアのヌーくんが長く伸びたピンク色の前歯でさまざまなスイーツを食する姿がプリントされている。
 このまえ先輩がヌーくんに会いに行くんだとか言いだしてはるばる隣県の水族館まで二人で遊びに行ったとき、そういえば買っていたっけ。
「わたしも買えばよかった。ヌーくんいいなあ」
「うん、いいっ。文化レベルが同じくらい低俗だと、話題が共有しやすくて、いいっ」
 一体何が琴線に触れたのか。足をばたばたとさせる先輩。こういうときの先輩はまるで中学生みたいにかわいらしい——のぞき込む角度によってさまざまに色の変わる、オパール色の女と名付けよう。それがいい——
 うーん、ちょっといじわるしてみたくなってきたぞ。
「低俗って、先輩! もしかしてわたしのこと、なんかばかにしてます?」
「あっあっ、してないしてない。魅力はいろいろだなって話でね、あのね」
「冗談ですよ、先輩はそんなこと言わないっすよね」
「わたしに冗談を冗談と見抜く力はないのでそういうのやめて!」
 それからも何往復かぎゃあぎゃあというやりとりがあって、さすがにちょっと疲れてきたわたしたちは少しクールダウンして、お茶などを飲んでみたりする。
 ペットボトルのお茶をすっかり空にしたあたりで、先輩がほっと息を吐きながらぼんやりと言った。
「でもさ、水族館楽しかったね。今度はどこ行こうね」
「えーと、じゃあ火星とか」
「月のほうが過ごしやすいと思うけどなあ、わたしは。料理もピリ辛でおいしいし」
 なーんて、ときどき正気なんだかわからない先輩だけれど、わたしはこれからも彼女といろんなことをするのだろう。
 今はただ、それが楽しみで。
 時間は有限だとしても、そのあたたかい時間ができるだけ長く続いてくれることを、わたし胸の中で、そっと祈った。

「ところで先輩。さっき、どんな夢みてたんですか?」 
「えっとね……神話の夢。世界がどうやってできたかっていう」
「うわ、めっちゃ長そう」
「うん。長くてちょっとあつくるしい、部室創造の、神話の夢だよ」

〈ふたりの部室神話ブシツソロジー おわり〉


最後までお読みいただきありがとうございました。

以下に、本作をPDFで出力したものを以下にご用意していますが、小説の内容は上記のものと違いはありません。以下のような感じに、一応ちゃんとした文字組みで、より書籍ライクな縦書きにて読むことができます。

縦組みPDF版のサンプルです。

本作はくだけた地の文の続く小説ですが、しっかりと組版してあげるとかなり「小説」っぽさが増しておもしろいものです。
物語の外側のちょっとした楽しみとして、もし縦書きがお好きでしたらご一考くださいませ。

それでは。

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