小説「ある定年」⑦
その7、
青葉茂る樹冠の隙間から初夏の日差しが、木洩れ日となってスギ、ヒノキと雑木の混交林に差し込んでいる。江上はゆっくりと歩きながら、沢筋の斜面に目を凝らす。盗掘されていなければこの辺りなんだが。昨年夏、偶然、見つけ、場所は特定している。枯れ枝を片手に持ち、蜘蛛の巣を払いながら、注意深く探し求めた。
メジロが高音を張り、縄張りを主張している。繁殖期の真っ最中で、林は命の息吹に満ち溢れている。
ふと、右前方を見遣ると、倒木が数本折り重なり、枯れ葉の堆積するどんよりくすんだ一角が、別世界のように華やいでいる。特徴的な長い楕円形の葉が何枚か見えた。10数株の茎が林立し、その茎の上部に白や褐色の花弁や萼片の可憐な花が競うように密生している。ラン科の山野草、エビネだ。
自生地で満開のエビネに出会うのは10数年ぶりだろうか。江上はデイパックからデジカメを取り出し、シャッターを押した。
仮見出しが浮かんだ。
ーー野生ラン ひそやかに開花
記者生活も秋の65歳定年に向け、カウントダウンの状況となっている。2年分40日の年休を消化しながら、漫然と無味乾燥とした出社記事で凌いでも良かったが、何故か、心が騒いだ。
(せめて月1本、やり残した”江上らしい”と言われる記事を残そう)
まず思いついたのが山野草の話題だった。
山野草は約30年前、先輩記者に触発され関心を持つようになった。当時、その先輩記者に連れられ、里山を歩き回り、その愛らしい姿に魅了された。
年平均気温13度の等高線が西の足利市と東の那須烏山市との間を横断する。丘陵帯と山地帯の境界とされ、動植物が豊かで知られる。
地元の高校教師が、足利周辺の山地で咲く山野草のイカリソウが通常の薄紫色とは異なり白色であったり、樹木のミズナラに似た通称モンゴリナラ(フモトミズナラ)が自生することを機関誌で公表し、取材、記事化したこともあった。
国内に自生するラン科の山野草はシンビジウムやカトレアに代表される洋ランのような絢爛豪華さには欠けるが、清楚で可憐で美しい。アツモリソウ、クマガイソウなどの野生ランの多くは心無いファンの盗掘や自然環境の悪化で絶滅の危機に瀕している。
新聞紙面では季節感があり、写真映えのする花の話題を随時掲載する。身近な里山にありながら、絶滅の危機にある貴重な野生ランを知ってもらおうと、常々考えていたが、忙しさにかまけて先送りになっていた。
ハイキングコースに戻り、尾根筋まで登り、尾根道を北に進む。
コナラ、クヌギ、ヤマザクラなどの雑木が新緑を競い、ヒガラがリズミカルな囀りを繰り返し、イカルの口笛にも似た長閑な響きがこだまする。山道を横断し、下草の踏みしだかれた獣道が樹林奥に伸びている。
子供の頃、里山は絶好の遊び場だった。
「鳥捕りに行こうぜ」
悪友と連れ立ち、秋の早朝、山に分け入った。樹木の枝に囮の入った鳥籠を掛け、鳥餅を塗った枝を鳥籠に仕掛けた。囮の声にひきつけられ、どこからともなく小鳥がやって来る。鳥は首を盛んに振り警戒しながらも枝を伝って囮に近づき、やがて鳥餅に両足をとられ、飛ぶ自由を失う。
木陰からその様子を盗み見しながら、今か今かと獲物がかかることに胸を躍らせていた。たまに猛禽類のモズが囮を餌食にし、弱肉強食の厳しい自然界に慄いたこともある。捕獲したメジロやヤマガラは餌付けして、その姿、鳴き声を楽しんでいた。
鳥獣保護法で野生の鳥の捕獲、飼育は厳しく制限されている。最早、トリトリは死語になった。
「こんちわ」
山道脇の切り株で休んでいた年配の男性が声を掛けてきた。
「こんにちは、いい季節ですね。ハイキングですか」
「ええ、週に2、3回は。健康のために」
「やはりハイキングで」
「いえ、山野草の写真を撮りに。綺麗な花が咲いているんですよ」
「どんな花が」
「今、エビネの花を撮って来たんです」
「まだあるの、エビネが。最近はめったに見かけないけど。そりゃ貴重だね」
「あと、2、3種類、ランの仲間を撮影しようと思って」
「こんな尾根筋にもあるの」
「意外と足元に咲いているもんですよ。気付かないだけで」
「どんなランの花が」
「キンランとかギンランですね。小さいけど、名前の通り、黄色や白で愛らしいんです」
「いい趣味だな。見つかるといいね」
うまい空気を吸い、心地よい汗をかいているからだろうか。見ず知らずの人との会話が心を和ませる。
年配の男性と別れ、山道を進む。山歩きから遠ざかっていたせいか、少し息切れを感じる。年を取ると、足腰から弱るという。定年後はウオーキングやハイキングに励もうと江上は思った。
山林内には下草が繁茂し、落ち葉が堆積する。立ち枯れしたアカマツが目立ち、スギ、ヒノキの幹には枝が密生し、やせ細った樹木が何本も倒れかかっている。昨年春、足利市街地近くで大規模山林火災が発生した。長く枝打ちなどの人の手が加わらず、放置され荒廃したことが被害を拡大させた。
林を切り文明が栄え、森を切り文明が滅ぶ、という。
林は人が利活用した里山の2次林で、萌芽更新するクヌギ、コナラの雑木は薪炭材に、スギ、ヒノキは植林を繰り返し建築材として利用した。森は犯してはならない原生林で、人類の生存を担保する生物の多様性の宝庫であり、薬品の原料など人間に有用な資源を秘蔵する遺伝子の宝庫でもある。
林は放置され、文明は栄えるのだろうか、それとも滅ぶのだろうか。
時折、足を止めては、山道の両脇、樹林の下草を舐めるように見渡す。木漏れ日がまだら模様を描いている。最初の一株、ひと花を早く見つけたい。一度、目にすれば、環境に順応するのか、勘が冴える。
足が止まった。下草から1本真っすぐに茎が立ち上がり、その茎先に黄色い小花が数個、浮き出るように輝いている。そのすぐ後ろにも、目当てのキンランはあった。
65歳定年を祝福し、取材の意図をくみ取ってくれたのだろうか。
数メートル先の山道脇に、ササバギンランも一株、佇んでいた。
その8、に続く。
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