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Every dog has his day.②

 第2話、
「そう、決まったの。もう覆らないの」
 妻の映見は沈んだ声で、聞き返す。
「役員会で了承されたんだ。九月末で退社だ」
「そう……」
 無言の時間が流れ、映見は静かに電話を切った。夫・江上の説得を受け入れたものの、家計を預かる妻として10月以降、定期収入が途絶えることに言い知れぬ不安が募るのは無理がない。
 江上が早期退職の意向を伝えた後、映見は何度も足利から彼の単身赴任先の栃木支社に車を走らせ、問い質した。
「何、考えているの。奈々子も太郎もまだ大学生よ。学費はどうするの?再就職の当てはあるの?今後の生活はどうするつもり」
 妻の指摘に反論の余地はない。しかも映見は家計を支えようと、経理事務所でパートとして働いている。夫の身勝手と受け取られても仕方なかった。
 妻の映見が支社に来る度、江上は妻に社内で置かれた状況と決断した理由を諄々と説いた。
「小松原のことは知っているよな。俺らの結婚式で会ったことあるし、年賀状も毎年来るから」
「確か、弁護士になられて長崎にいるんじゃない。相談したの」
「ちょっと嫌な予感がしたから、念のためにね」
「嫌な感じって、組合やってたことと関係あるの」
「うん。印刷局に続いてのリストラだろう。専門家の見方を聞こうと思って」
「それで、小松原さん、何て言ってたの」
「それが案の定、芳しくないんだ……」
 ある晩、江上は帰宅時間を見計らって小松原の携帯に連絡を入れた。
「よう、しばらく。どうした、元気でやってる」
「体は元気なんだが、ちょっと相談したいことがあってな」
 小松原の張りのある元気な声が受話器から漏れた。
 江上とは大学の同窓で、サッカー愛好会で知り合い、共通の趣味が黒人ブルースで意気投合した。小松原は父と同じ弁護士の道に進み、江上は記者になった。年1回、同窓会で酒を酌み交わす。
「困りごと?俺に相談ってことは、明るい話じゃないな」
 小松原は即座に用件を察した。仕事柄、業務外でも友人らの相談に乗っているのだろう。
「実はな……」
 江上は時系列に抱えている問題を伝えた。
「仮に会社側がブラックリストを持っているとすると、江上は最上ランクだろうな。辞めてもらいたい社員として」
 小松原は職業柄、歯に衣着せぬ口調で解説を始めた。
「やはり組合の問題か」
「まあ、そういうことだ。世間を賑わせた労働争議の責任者だろう。会社にとっては面子をつぶされた、いわば目の上のたん瘤だ。俺はあの時、忠告したじゃないか、組合にのめりこむなって」
 印刷部門の分社化をめぐる労働争議で、江上は組合委員長だった。結果的に組合は敗れ、翌年、江上は降格の憂き目にあった。その後、同期のしんがりで管理職になったが、経営者から見れば要注意人物に変わりない。
「問題は今回のリストラで募集人員10人に達しない場合なんだよ。そうなると、会社は指名解雇も可能なんだよ。まあ、究極のリストラの前段として、今回、希望退職を提案したんだろう、地ならしとしてね。現行法で労働者は守れているから、解雇するのは大変な作業だからね。お前も組合やってんだから、釈迦に説法か」
「まあ、その辺りは分かっているつもりさ。それで気になっているんだが、解雇になると退職金はもらえないんだよな」
「いや、一概にそうとは言い切れん。退職金規定があれば支払われないこともないだろうが、そうはいってもリストラに走った会社だからな。少なくとも割増なんてことはありえない。だから今回はわざわざ特別措置と謳っているんじゃないか」
「そうか、退職金がパーになる可能性もないとはいえないんだな」
「悪いな、仕事柄、最悪のケースを想定しがちだからな。ただ、希望退職だろう。申請しても会社が認めない、引き留めることもないこともないんだが」
 会社の慰留を前提に早期退職を申し出ることはあり得ないし、労働争議の張本人、降格処分の経緯を考えれば、すんなり申請は認められるはずだ。
 思い悩み、足利の友人、家具職人の室田の元にも訪ね、江上は胸の内を吐露した。
「本当ですか。まったく、会社もひどいことをしますね。従業員の首は切って、経営者はどうせ居座る気なんでしょう」
 室田は鉋研ぎの手を止め、
「でも、江上さんいいですか、こんな話して」
 と、修行先でのエピソードを沈痛な面持ちで話し始めた。
 室田が松本の家具製造会社で木工技術を学んでいた時、突然、先輩が会社から解雇通告を受けた。その先輩は茫然自失となり、その消沈ぶりに室田は声も掛けるのもはばかれた。その後しばらく、アパートに引き籠り、室田が訪ねてもドアを開けることはなかったという。
「解雇を言い渡され、相当ショックだったんだろうな」
「後で連絡取れたんですけど、本当に辛かったって。要するに、お前はいらない人間だって烙印を押されたってことが」
 終身雇用という安穏な揺り籠から突然、引き離され、予想だにしない解雇通知を突きつけられたら。28年余の実績が否定され、家族が路頭に迷い、前途に希望を失い……奈落の底でもがき苦しむに違いない。不当解雇と訴え法廷闘争に持ち込む闘志は、労働争議に倦んだ江上にはさらさらない。
 去るも地獄。社は再就職の斡旋はしないという。52歳と中高年の上、前年のリーマンショックで世界的な不況の嵐が吹き荒れ、再就職の壁は一段と高い。割増退職金は手にできるが、妻と大学生2人の家族3人を抱え、老後の生活設計に不安が募る。
 残るも地獄。仮に早期退職に応じなければ、最悪、指名解雇となり、退職金ゼロもあり得る。解雇のレッテルを張られ、精神的ダメージ、再就職活動への影響も必至だ。今回、解雇を免れても、会社がリストラを進める以上、再度、リストラの標的にされる懸念も拭い去れない。
 悩みぬいた末、早期退職を選んだ。会社の思惑に怯え、人生が左右されるのは耐えられない。割増退職金を確実に手に入れて、人生をリセットする方が得策と判断した。
 社内に告知された夜、部下の後藤田の携帯は同僚らの問い合わせで鳴りやまなかった。
「家族持ちで辞めるなんて、支社長、何かやらかしたのか?財テクで儲けたんだって?」
 退社まで残り3か月。噂話を気に留める余裕は江上になかった。
                          第3話に続く。

第3話:Every dog has his day.③|磨知 亨/Machi Akira (note.com)

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