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小説「ある定年」⑧

 第8話、
「お父さん、今、電話で話せる?」
「急ぎか」
「うん、大丈夫だけど」
「そうだな、あと30分ぐらい待て。折り返し、連絡するから」
 電話は都内に住む娘の奈々子からだった。娘から電話を寄こすことはめったにない。昨年秋、待望の長男・翔太が誕生し、子育てに忙しくなってからはなおさらだった。妻の千香には連絡し、子育ての相談は頻繁にしているようだった。
 江上も久しぶりに初孫の声を耳にしたかったが、取材の執筆に急かされていた。
 この日の午前、定例足利市議会一般質問で、加藤市長が国広の名刀・山姥切国広を取得する意向を示したからだ。質疑の間の休憩時間に市長にぶら下がり、他社とともに追加取材。支社のデスクに連絡を入れ、県版トップで扱うことになったからだ。
 取材した印象だと、市長は所有者と何度か接触し、取得に向けていい感触をつかんでいるようだった。本社サイドが待ち望んでいる全国発信できるニュースだ。市長の側近、市議の猪口から事前に聞き出すべきだったと悔やんだ。
 江上は昼飯返上で、ファンや関係者を電話取材し、資料やスクラップを机に並べ、パソコンに向かっていた。山姥切取得は既定路線だっただけに、話の筋立ては難しくなく、写真は再展示の際、和装の女性が山姥切を見詰める一コマをパソコンに保存していた中から選び出した。送信前に再度、読み返せばいい。江上は携帯を手にした。
「悪かったな、待たせて。たまたま、取材で忙しくてな」
「もう、大丈夫なの。話せる?」
 電話を通して、傍で孫の翔太がワウ、アウと甘えた声を出している。
「大丈夫だ。翔太は元気そうだな」
「うん、とっても」
「もうハイハイできるのか」
「まだだけど、そう少しかな、両腕と両足使って前には進めるんだけど」
「それで、お父さんに用件ってなんだ」
「ちょっと待って、翔太が今、眠りそうだから」
「また、後で電話したほうのがいいか」
「うん、大丈夫。今、バウンサーに寝かせたから。足で揺らしていれば眠りつくはず。それに、お父さんまた、忙しくなっちゃうと困るから」
口ぶりから、娘が困りごとを抱えていることを察した。
「どうしたんだ、何かあったのか」
「それなんだけど。昨日、会社の友達から連絡があって、うちの会社が日本から撤退するっていうの」
「撤退、それでお前はどうなるんだ」
「まだ正式発表じゃないから詳しいことは分からないみたいだけど、従業員全員が他の社に移籍することになるみたい。会社を身売りするのかな」
「とすると、即、馘にされるわけじゃないんだな」
「当面わね。半年ぐらいは今の待遇を維持するらしいんだけど」
 奈々子は5年前、外資系ホテルに転職。年俸は良く、有給は完全消化を推奨し、年1回の社員旅行は本社のあるアメリカと、申し分なかった。だが、新型コロナウイルスの世界的な感染拡大の影響で、宿泊客が激減。欧米ではいち早くリストラに乗り出していた。
「日本は法律上、欧米みたいに簡単に解雇はできないからな。それだけは救いといえば、救いなんだが」
「でも、コロナでこの先どうなんだろう、と心配で。子供が生まれたばかりだし」
「隆君が働いているんだから、そんなに心配することはないだろう。隆君は何って、言っているんだ?」
 娘の夫の堀之内隆は娘の2歳下の33歳で、都内の貿易会社に勤めている。
「お父さんと同じ、心配するなって、言ってくれているんだけど。彼の会社もコロナの影響を受けて、業績も落ちているみたいだし」
「そうか、でも育児休業中なんだから、子育てに専念しなくちゃだめだ。あんまり取り越し苦労してもしょうがないな。当面、失職することはないようだし、隆君がついているんだから」
「そうね。騒いでも仕方ないんだけど、突然の連絡で驚いちゃって」
 無理もない。夫婦共稼ぎとはいえ、月々の賃貸マンション代をはじめロシアのウクライナ侵攻に伴う物価高で、子育て環境は厳しい。ダブルインカムを前提に将来設計を描いているだけに、失職の恐れに慄くのは当然だ。しかも乳飲み子を抱えて。
「隆君もいるし、金のことならどうにかなる、心配するな」
「ありがと」
「翔太は眠ったようだな」
「うん、寝つきがよくて助かっているの」
「秋には仕事復帰するんだろう。保育園も探さなくちゃな。近くにいれば預ってやるんだが」
「みんな夫婦でどうにかやっていることだから、大丈夫。保育園も目途がついて、お試しで預けようと思っているの」
 江上の場合、娘も息子も3歳まで、妻は家計をやりくりしながら、子育てに専念していた。価値観の多様化もあるが、夫婦共働きなのは若年層の低賃金が背景にあるようだ。この2、30年、他の先進国と比べた賃金の伸びの低下が指揮されている。
「ところでお母さんに聞いたけど、お父さん、秋に六十五歳定年なんだって。長い間、ご苦労様」
「そうなんだ。今、仕事探しさ」
「また編集のお仕事」
「それしかできないよ、40年もその仕事だったんだから。でも田舎じゃ、なかなか編集の仕事はなくてさ」
「でも年金出るんでしょ、65歳になったら満額で」
「月23、4万円ぐらいかな」
「じゃあ、何とかなるんじゃない。お母さんもパートで働いているんだし」
「だからさ、お母さん働かせて、自分だけ、晴耕雨読ってのも気が引けてさ」
「でも無理しないで。お母さん心配してたよ、最近、お父さん、咳き込んだりすることがあるって」
「お父さん、前から鼻が悪くって、それでなんだよ。気にするな」
「それなら、いいけど」
「みんな元気そうで安心したけど、今度のようなこともあるから備えはきちんとしておくんだよ」
「分かっている。お父さんに言われて、ニーサのほかイデコも始めることにしたんだ」
「国の年金が怪しいからな。備えあれば憂いなし。お父さんもまだまだ働くよ」
「ところで太郎は元気?しばらく話してないから」
「先週末、釣り道具を取りに来たよ」
「お父さんのこと話したの?」
「定年のことか」
「そう」
「禄に話も聞かないで、帰り際、いいなあ、親父は、逃げ切り組でだって」
「まったく、太郎らしいわね。ご苦労様の一言もいえないのかしら、まったく」
                          第9話に続く。

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