見出し画像

小説「ある定年」⑯

 第16話、
「あら、お久しぶりです、江上さん」
 支社に電話を入れると、庶務の藤田が明るい声で応対に出た。いつも愛想がよく、にこやかな表情が目に浮かぶ。
「お元気そうだね。コロナが流行っているけど大丈夫?」
「ええ、元気だけが取り柄なので。それにワクチンもきちんと打っていますから」
「宇都宮はコロナ感染者も多いけど、支社のみんなも元気にやっている?」
「幸い、誰も感染してませんよ。支社長以下皆さん、毎日、お仕事してらっしゃいますよ」
「それはよかった。ところで、今日の新聞を1部、送ってほしいんだ。取材協力者に頼まれちゃって」
「はい、分かりました」
 江上はノートに書き付けた取材協力者の住所、氏名を告げた。
 彼は先日、佐野市の唐沢山神社に伝統工芸品の天明鋳物の風鈴が飾られ、涼を呼んでいる話題を出稿した。写真撮影の際、協力してもらった参拝者から記事掲載の新聞を送ってほしいと頼まれていた。
「藤田さんとも寂しいけど、お別れだな。どうするの、もう海外に飛び立つの」
「早く日本を脱出したかったんですけど、私も予定が狂っちゃって。次の仕事を探して、もう少し資金を貯めなきゃならないんです」
「大変だな。早くいい仕事がみつかるといいね」
「ええ。皆さんいい人ばかりで、本当はもっと一緒に働きたかったんですが」
 彼女は大学卒業後、民間企業に勤めたが、ワーキングホリデーでオーストラリアに行こうと思い立ち、昨年春からパートタイムで働いていた。
 日本の構造的な低賃金に加え、米国の金利引き上げによる急激なドル高円安で、日本を捨て海外に新天地を求める若者が増えている。日本の時給単価は先進国でも低水準。オーストラリアは時給3000円前後で、高い物価を差し引いても、十分、豊かな生活と貯金ができるという。
「江上さんは秋に定年を迎えるとお聞きしましたけど、今後のことは決めていらっしゃるんですか」
「トライしていることはあるんだけど、先行き不透明かな」
「そうなんですか」
「大丈夫、こんな話をしていて」
「私の方は別に。まだ誰も出勤してませんから。突然の支社閉鎖で、家族を持っておられる方は大変ですよね」
「藤田さんは若いし、夢に向かって頑張ってね。オーストラリアで一旗揚げて凱旋してよ。成田に迎えに行くから」
「江上さんたら冗談がうまいんだから。そういえば、真志田さんは次の働き口を見つけたみたいですね」
「あつ、そうなの、へえ、真志田が」
 江上は一瞬、ドキッとしたが、努めて平静を装い、
「よかったじゃないか。それで、どんな仕事に」
 と、尋ねた。
「なんでも国会議員の秘書さんになるって言ってました。地元の事務所に雇われたんですって」
「本人が言ってたの」
「ええ、昨日、支社に上がって来ると、わざわざ話しかけてきて。代議士から頼まれて、引き受けることにしたんだって」
 真志田は江上より3歳年下の62歳。2年前、江上と同様に派遣社員として日新に勤めた。都内の建設関係の業界新聞に在籍し、営業も兼務していたことから、よく言えば人当たりがよく、江上に言わせれば、仕事より人に取り入るのがうまい男だった。宇都宮で政治を担当し、取材と称して政界関係者と飲み食いし、高額な接待費を社に経費請求したこともあった。
 庶務の藤田との電話を切り、江上は同僚の山口に情報を伝えた。
「本当だったのか、吉田代議士の秘書になるっての」
「知っていたの?」
「なんとなく小耳には挟んでいたけど、真志田が勝手にほら吹いていると思っていたから。それで最近、あいつ、吉田の事務所の私設秘書と飲み歩いていたんだな」
 山口は遊軍で政界にも独自の情報網を持ち、一早く情報はキャッチしていたが、同じ派遣社員で失職の決まった江上の心情に配慮して敢えて連絡しなかった。真志田とは反りが合わず、毛嫌いしている。
「真志田の野郎、仕事はできねえくせに。去年の知事選でも日栃に野党対立候補の出馬を抜かれやがって。酒飲みと口だけが達者なだけで。吉田の事務所も人を見る目がねえなあ。よりによってあいつとは」
 山口は、普段の鬱憤を晴らすように吐き捨てた。
「でも議員秘書は傍目より大変だろう。記者から議員秘書、しかも還暦過ぎて務まるのかな」
「広報担当で記者対応や後援会報、選挙用のチラシなんかやるらしいんだ。俺は記者だから任せろ、とか相当、売り込んだんだろう」
「俺も見習って、売り込まねえとダメかな」
「江上さんは65歳定年なんだから、あくせくすることないよ。そういえば、地域おこし隊員の件はどうなった?1次審査は受かって、面接は終わったんだろう」
「近々結果が出るんだ。人事を尽くして天命を待つ、心境だよ」
「朗報が届くといいね」
「まあね」
 江上の言葉が淀んだ。面接試験が思ったよりうまくいかず、65歳定年後の移住にも心が揺らぎ始めていた。難色を示す妻、面接官に念を押された厳しい自然環境、房州楼の女将の一言などが耳にこびりついている。
「それと、小和田さんはDV被害者支援のNPOで働くみたいだよ」
「それは彼女の適職だと思う。よかったねえ、次の仕事が見つかって」
「報酬はそんなに期待できないみたいで、ほぼボランティアじゃないかな」
「でも、やりがいがあればいいじゃない」
 小和田は40歳代後半の女性記者で、5年前から江上らと同じ派遣社員としてミニコミ誌の取材経験を生かし宇都宮周辺の街ダネを担当。女性の視点からDV(家庭内暴力)やGID(性同一性障害)に関心を持っていた。
「それより、山口さんの異動の情報は入ってこないの?」
「まだまだ、社員の異動はぎりぎりだよ。こっちこそ俎板の上の鯉さ」
 支社閉鎖まで1カ月余りとなり、1人1人が次の人生に踏み出そうとしている。同じ境遇の真志田にしても小和田にしてもピンチはチャンスととらえ、江上以上に前向きに対処している。
(一体、俺は何をしたいんだろう)
 焦燥、疎外感とともに、江上は原点を見つめ直すことを感じ始めていた。
                          第17話に続く。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?