自己不在と理想の自我像

私がカウンセラーになって人の相談を解決する際に、一番重要にしている考え方がある。それは社会学者の加藤諦三氏の著書に書かれていた“人間の本質を理解するうえで最も大切な考え方と言うのは、自分と他人は心底違う生き物だと認識する必要がある”ということである。




人間の考え方の違いについて、学びを深めるなら本が一つや二つでは足りないほど勉強をしないといけない。そして他人と自分との考え方の違いについて他人に理解してもらうのはさらに難しい。




先ず他人と自分の考え方に相違があって当たり前だという認識を深めるために話をするならば、決して他人と自分を比較してはならないという点から話しをするのが理解を進める上で助けになるのではないだろうか。




あの人のようになりたい。あの人のようにはなりたくない。と、いうような考え方は対象の人間と自分との間における比較の上に成り立っている。私が学生の頃に周囲の友人が人気のアーティストについて熱弁をふるっていて、あの歌手のようになりたいとか、応援しているスポーツ選手のようにサッカーがうまくなりたい。と、いうような会話が溢れていた。




とかく多くの若者が憧れの誰かのようになりたいと口にしながら、憧れの人と自分自身の比較を行っている。しかし残酷なようであるが事実として誰も自分以外の何物にもなれないのである。




自分は自分として生まれ、自分として死んでいくからである。




これ以上にシンプルで喜ばしい事実はないと受容する者もいれば、これほどに残酷な真実はないと落胆する者もいる。何故この事実に対する解釈にこのような大きな差が生まれるのだろうか?それは自己不在と言う状態に陥っている者が理想の自我像(ナルシシズム)を形成し、それを体現しようとするために起こる現象である。




自分と言う自我がない人間がこの世には多く存在する。自分であるということの認識は何を以って証明できるのだろうか?それをアメリカの精神医学の権威、カレン・ホーナイが見事に表現した言葉がある。それが「私はこういう人間ではありません」という言葉である。




ナルシシズムに陥った人間の口にする言葉の多くに「私はこういう人間だ」という表現があるが、これは自分自身の定義における視野の狭さを物語っている。何故ならば“私はこういう人間だ”という言葉に隠された劣等感を感じるからである。例えば喧嘩をしている人間の和解のパターンを二つ例にしてみよう。




喧嘩の内容が冷蔵庫に入れていたケーキが妻の物であったが夫が妻の物と知りつつ食べた。という設定である。それを知った妻が夫に怒りをあらわにする。




ここでAのパターンでは旦那の言い分は次のとおりである。

夫:お前の物と知っていたが、ケーキくらいまた買えば良いし私が買いに行くからそれくらいで怒るんじゃない。私ならそんなことで怒らない。今から買ってくるから待ってなさい。




Bのパターンでは次の言い分である。

夫:お前のものと知っていて食べてしまって申し訳ない。つい我慢できなくて食べてしまったが、いまから私が買ってくるから許してほしい。




この二つのパターンの結末を予想したとき明らかに後者のBのパターンの方が心理的に健康な夫である。Bのパターンは言葉の使い方も丁寧な分、印象も良いかもしれないが、本質的に見ればBのパターンにはカレン・ホーナイの言う“私はこういう人間ではない”というメッセージが読み取れるからである。これは国語の話にもなるかもしれないが、Aのパターンでは“私ならそんなことで怒らない”という言葉は信条という意味では、ケーキを食べたくらいで怒るのはおかしいというような自身の非を認めない上で自分自身の自我が優先されており、これを“私はこういう人間だ”という解釈に紐づけることが出来るのである。




このパターンではたいてい和解は進まない。




対してBのパターンでは“つい我慢できなくて食べてしまった”という言葉に着目してみるとケーキを妻のもと知りつつ、自身の欲に勝てなかった非を認めており、この自認の感情を人間的欠陥として相手の前で認めている。ケーキを前にして我慢することができなかったという意味では“私は我慢できる人間ではない”という意思を妻に伝えられている。




この流れでいえばAのパターンでは妻は自分が食べておいてなんて言いぐさなの?と怒るのが予想できるし、明らかに夫が妻の気持ちに寄り添っていない。目の前の妻が悲しんでいるという現実と心が触れ合っていないということになるであろう。




しかしBのパターンでは妻からすれば、ケーキを食べたという事実に対して謝罪もあれば、その後のフォローも適切であるから人間は我慢できない時もあるわねと納得もいく。




これが“私はこういう人間ではありません”という考え方が人と自分との考え方に相違があったとしても理解を深め合うために欠かせない要素の一つであると理解が進むのではないだろうか。




そして自己不在というのは平たい言葉で表現するなら責任感のない人間であると言うことである。責任転嫁をするタイプの人間である。




自分自身で生きる上で何が重要な要素かと言えば、自身の意思決定の自由である。




何か物事を決める際に自分自身であれるか?が円滑な意思決定には欠かせない。仕事をやめると言う決断にしても、集団でお昼に何を食べるかの意見を伝えるにしても、ありのままの自分を表現できるかということがとても重要なのである。




よく人の意見に従いますというようなことを口にする人がいるが、これは自己不在の典型である。重要な会議の場でみんなの意見がほしいと上司が語る。部下は各自思い思いの意見を口にする。ある程度の意見が出そろい方向性を決める時がくる。




このような場面で必要なのは今後を左右するかもしれない局面なのだから、いかに自分の熱意や想いを語るか重要なのにも関わらず“私は皆さんの意見に従います”というような発言をすることは“私は今後を左右するような重要なことは決められません”と言うようなものである。




これはひとえに責任がもてないということである。これを自己不在というのである。




そして何故自分自身の発言や行動に責任が持てなくなってしまうのだろうか?自分のありのままを表現できなくなってしまうのだろうか?このような人を目にした時、重要なことだからしっかり自分の意見を言ってほしいと上司が本人に伝えても、それは、これはと意見を言えない時、上司の中で何故この人は自分の意見を伝えられないのだろう?
と自分と部下の違いに悩むことだろう。




これが先に書いたように自分と他人とでは、そもそも考え方が心底違うんだと深く認識する必要があるという事なのである。




自己不在に陥り、理想の自我像を体現することをナルシシズムだと伝えた。一方でしっかりとした自己を持ち、何事にも責任を持てる人もいる。この違いはやはり成育歴や環境による本人の自己に対するイメージの持ち方に差があるのである。




心理的に健康な人は幼少期からありのままの自己を許された環境で成長していることが多い。それをよく本人たちが“私は人間関係に恵まれた”と言うが、反対にナルシシズムを形成した人の多くが“対人関係でトラブルが多かった”というケースが多い。




何故ならば理想の自分を体現するために彼らは人生の大変を“私はこういう人間だ”というような自己実現を行ってきたからである。幼少期よりいじめにあったり、親に愛されなかったり、兄弟姉妹間で比較されて生きてきたような人間は自分自身に対する劣等感を育んでしまう。




それを近年では自己肯定感が低いという言葉で表現する人が多いが、これは心理学的に表現を変えるのであれば“私は自己愛が欠如している”ということが言いたいのではないだろうか?心理的に健康な人はこの自己愛をしっかり持てているが、逆のタイプの人は劣等感を持ちナルシシズムを形成している。ナルシシズムと自己愛の決定的な違いは、人生おいて自己愛は必要不可欠なものであるとうことである。




よく考えてみてほしいのだが、どのような体に生まれ、どのような個性を持って生まれてきても人間はみな全く違う生き物だから自分以外の何物にもなる必要がないのである。魔法を使って他人の人生に生まれ変わるようなことが人間にはできないのだから。




そしてそもそも他人のような特性や個性や特技を身に着けようとすること自体がありのままの自己の否定なのである。憧れの人間になろうとすれば、それは自身の劣等感から目をそらし、理想の人間を理想の自我像として体現するナルシシズムに陥ってしまうのである。




それを体現しようとすれば、身の破滅を招く。自分と言う本来の自己を超えて能力の限界を超えてしまうからである。誰にも不可能なことはある。解けない問題もあれば、身につかない技能もある。理解の及ばないことも出てくる。それは我々が人間であることの証明なのである。




己の限界を知り、認め、受け入れる。




これが“私はこういう人間ではありません”という言葉に対する基本的な態度なのである。これが出来て初めて人間として成長できるし、自分の人生に責任は持てる。それはこの体に生まれ、この脳と心と精神をもってこの世に産まれ、これまで生きてきた。そしてこれからも完璧にはなれないけれど、人間として完全体を目指して生きていくんだという、諦念と決断ができるのである。






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