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話のどこについていくかの話

過去に書いたものから。2016年10月5日
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謎の咳が続き、熱も下がらない。

具合を心配して電話してきた母が、「あんたもう若いときみたいに無理きかへんねんから、仕事入れすぎたらあかんで」というようなことを言ってきたので、(うっさいな~!なんなんその呪い!)と思いましたが、なんせもう思春期を抜けつつありますので、適当に「そやな~」なんて返しておりましたら、

「わたしもこのあいだテニスで骨を折ったんは、歳を考えへんかったせいなんよ。みんなから若いね、て言われて調子のってやってしもうて。だいたい9月は忙しかったから無理してスクールも行かんでよかったのに、行ったばかりにあんなことになってしまって…」云々……。

ここで、「ああしなければよかった、こうしなければよかった、なぜあんなことになってしまったんだ」、のほうについていくこともできるけど、このときは、そこについていってもあんまりいいことにはならない感じがしたし、それよりも「若いねって言われて」のところがなんだか光ってる感じがしたので、

「若いねって言われてうれしかったんや」と返してみた。

そしたら、そのときのシチュエーションが具体的にでてきて、そのまま聴いてたら、「そもそもなぜ骨折するような体勢になってしまったのか、ああ、そうかあのときああいう体の使い方をするべきだったんだ」、と勝手に展開していって、最後には「まぁ、あんたはとにかくよく寝えや」みたいな唐突な感じで電話は終わりました。

なるほど、そうか、「光ってるとこを聴く」ということもやっていたのだったな、自分。と思い出した。でもいつもそうってわけでもなく。今の感情に寄り添うときもあるし、事実を確認していくときもあるし、語尾につくこともあるし。今まで培ってきた技術のどれを使うかは、そのときどきで違うんだよなぁ。

まぁでも、病人やのになんでこんな丁寧に聴いてあげなあかんねん!