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「苦しみは、目だけでは見えない」神父に憧れたパン屋生まれの少年

「ひとすじ」は、”50年以上ひとつの仕事を続けている”方々を、フィルムカメラを用いて写真におさめるプロジェクト。
個人が自由に仕事を選べるようになり、転職や職種転換も当たり前になった現代だからこそ、その人々の生きざまはよりシンプルに、そしてクリエイティブにうつります。
このnoteでは、撮影とともに行ったインタビューを記事にしてお届けします。

晴れた冬の日曜日。福岡県・博多駅は、年末の雰囲気を帯びて、いつにも増して賑わっていました。
そこからタクシーで10分あまりの、街角にそびえる品の良い建物。美野島司牧センターです。
神父のコース・マルセルさんは、この仕事を始めて52年。日本での活動も50年になります。

「日曜にはミサがあります。取材も兼ねてぜひご参加ください」とお声掛けいただき、ひとすじチームは5名でお伺いしました。
約1時間のミサは、そのほとんどがスペイン語。ライターの後藤にとって、馴染みのない言語で行われた人生はじめてのミサ。そして、そのあとの取材をとおして感じたのは、世界の広さでも、50年の長さでもなく、神という存在の絶対的な力強さでした。


実家はパン屋さん。家のすぐ裏にあった憧れの教会

神父のコース・マルセルさん

―日本に来られたのはいつ頃ですか。
マルセルさん:日本に来たのが50年前。故郷のフランスで神父になったのは52年前ですね。
 
―小さい頃からずっと神父さんになろうと思っていたのですか? 
マルセルさん:そうですね。父はパン屋さんで、家ではパンやケーキを売っていました。
その店のすぐ裏に教会があったんです。
ずっと憧れていて、ミサの時には神父のアシスタントのようなことをやったりもしていましたね。
 
―かわいい!神父さんというのは、かっこいい存在だったんですか?
マルセルさん:そうですね。憧れに近いですね。
 
―何か他になりたい職業はあったりしましたか。
マルセルさん:確かに、そう考えると面白いね。昔からすぐそばにいたから、ずっと神父さんになりたかった。
 
―(笑)。お父さんのパン屋さんとかは…?
マルセルさん:そうだなあ。休みの日に手伝いをして、ケーキを作ったりはしていたけどね(笑)。
ー憧れの職業、素敵ですね。そもそも、どうやったら神父さんになれるのですか?
マルセルさん:大神学院という、大学のような場所に4年間通いました。
そのカリキュラムで、学校の先生の免許も取りました。フランスでは普通、強制的に兵隊へ行かなければならないんですよ。
でもその代わりに、アルジェリアで2年間、歴史と地理の勉強を教えていました。
アルジェリアはフランスの植民地だったので、アルジェリアの歴史について自分で調べて、教科書を作ったりもしていましたよ。

青年との暮らしで知る、労働者の過酷な環境

ー日本へ来てからは、ずっとこの街で神父さんをしているんですか?
マルセルさん:いえ、色々な街で暮らしていました。福岡には、40年くらいいますね。
東京に2年間住んでいたことがあって、その時は、若い労働者たちのグループと一緒に住んでいました。
 
ーなるほど。どんな毎日でしたか?
マルセルさん:日曜が休みだったから、その青年たちとミサに行ったり、そのあとはみんなで山に登ったりもした。
嬉しかったのは、その青年たちのおかげで、日本の社会や労働状況のことを少しずつ知れたことです。
労働者がとても苦労しているなんて、職場の仲間たちと一緒にいなければ分からなかった。
実家もパン屋さんでしたからね。(いわゆる一般の)労働者のことを知らなかったんです。
そこで、フランス人の仲間たちと一緒に、その職場や自分たちの生活の見直しのようなことを始めました。

―神父さんの目に、日本はどう映っていましたか。
マルセルさん:やっぱり、労働者の視点が大きかったですね。
たとえば、北九州で働いていたときは、はじめはキリスト教、カトリックの信者さんたちが来ていたけれど、次第に仲間を連れては、職場環境の見直しのようなテーマを持った人も多かった。

ー救いを求めて集まる人が増えていったんですね。
マルセルさん:黒崎・陣原で借りていた家には、若い女性たちが集まっていました。
メッキやチューブの仕事をしている人たちで、仕事が終わったあと、毎晩私たちのところに集まっていた。
蒸気のせいで真っ赤になった目をタオルで蒸してあげたり、こたつに入れてあげたりすることで、彼女たちを守っていました。
けれど、(その頃私は)日本語が上手ではなかったから、どうやって向き合えばいいのか、すごく考えた。
そういうことも、今の活動につながっています。

ー当時は過酷な状況があったんですね。
マルセルさん:はい、外国人労働者もたくさんいました。
特に、ブラジルやペルーの方々。日系の家族で福岡に来ていたり、大村入国管理センターに収容されていた人たちでした。
「正義と平和協議会」というものが世界にあるけれど、昔でいうと、イラクの戦争問題や、原子爆弾のこと。そういういろいろな社会の問題に反対する活動を、広島で行ったりもしていましたね。
たくさんの日系人が来たけれど、ペルー人が一番多かったと思います。今日のミサに来てくれているペルー人にも、その時から来ている人がいますね。当時は、日系人と嘘をついて日本へやってきた、不法滞在の人もいたように思います。

今もなお続く、数々の活動

ー今日来ていた方も!なるほど、あらゆる平和に立ち向かっていたんですね。
マルセルさん:そうですね。北九州にいた頃は炊き出しもやっていて、こっちに来てからも、もちろん続けています。
だけど、そういう活動を続けていく中にはうまくいかないこともたくさんあって、いまは当時とは別のグループを作っています。
それが「おにぎりの会」。この活動は28年になりますね。
 
ー他にも活動があったら、ぜひ聞かせてください。
マルセルさん:「ダルク」と呼ばれる、薬物依存症のリハビリですね。
東京から来てくれたグループと一緒に始めて、これは29年ぐらいになると思います。
今は8人の子が、ずっとリハビリを頑張っています。いまちょうど買い物に行った子達ね。(取材場所のすぐ隣に、彼らの寮があった)多かった時は15,6人の子が暮らしていました。

それから、外国人を支援するグループの代表もやっています。
1990年頃から始めて、水商売の仕事をしていたフィリピン人とか、ブラジル・ペルーの日系南米人とか、とにかく色々な国の人が来ていた。 
ベトナムのボートピープルが発生したときは、避難民たちが毎日曜日、必ずミサに来ていました。
40年ともなると、色々ありますね。

集まる人たちのために、新しい言語も学んだ

マルセルさん:このセンターも、来年で30年になります。
最初は主に、外国人のためにやっていました。当時は日本人との待遇に差があって、仕事がうまくいかない人が多かった。
子どもたちの学校の問題とか、いろいろな問題があったから、最初はお父さんだけミサに来ていたけれど、2,3年経つと家族みんなで来てくれるようになった。
その時来た子どもたちは、既に結婚してる人もいらっしゃると思いますね。
 
―そうですよね。
マルセルさん:今はそんなに毎週は来ないですけれどね(笑)。
 
―ところで、日本語はどうやってお勉強されたんですか?
マルセルさん:東京にいた頃、2年間ぐらい学校に通っていました。教会が日本語の学校を持っていたんですよ。
神父たちやシスターたちみんなで通って、そこで日本語を覚えました。
 
―今日のミサはほとんどスペイン語でしたが、スペイン語はそのあとに?
マルセルさん:そうです。ラテンアメリカのスペイン語圏の方々が来た時に覚えました。
 
―いまは何ヶ国語くらい…?
マルセルさん:スペイン語、英語、日本語、フランス語・・・
 
―すごい!いろんな国の方が集まるから、みなさんに対応できないといけないんですね。
マルセルさん:はい。20年くらい、毎月いろんな人の元へ面会に行っていたので。アジアの人たちが多かったかな。特にパキスタンとか。アフリカの方もいましたね。ナイジェリアとかカメルーンとか…、話しているうちにそういう言語も覚えました。

苦しみは、目だけでは見えない

―ここまでお話を聞いて、いわゆる神父さんの活動とはイメージが違うように感じました。日本でどういうことをするか、来日当初からイメージされていましたか。
マルセルさん:分からなかったですね。日本の社会がどういうものか、分からなかった。
若い労働者のこと、彼らがどういう苦労してるか、目だけは見えないんですよ。話を聞いて、一緒に過ごして、やっと少しずつ分かってきた。それを知ることが出来たのが、恵まれていたと思いますね。
 
―神父さんの仕事をとおして、どういう時に辛いと感じたり、逆に喜びや幸せを感じますか?
マルセルさん:そうですね、やっぱりこれまで、薬物依存症者が自殺したりとか、関わった人が病気で亡くなったりとか。そういうことは辛いです。
あれもだいぶ前のことですけどね、20年前くらいかな。既にここのダルクを離れていた子が、月曜の集会に来ていなくて。どうしたかなと思ったら、亡くなっていた。
お葬式には、ここのすぐ隣のお寺を紹介したんです。私が名前を間違えて呼んでしまって、悲しみながら、みんなで笑って。そういう切ない思い出もあります。

野宿者たちが亡くなっている時もありました。長い間、時々会ってる方ですからね、やっぱりさみしい。だからこそ、2週間に1回炊き出しに行っています。

でも、そういう人たちの社会復帰がうまくいった時は、とてもうれしいですね。
薬物依存についても、当時は全然分からなかったんです。九州にはリハビリグループがなかった。だから、何ができるかなと心配していました。

ある夜に、薬物依存と戦っていた子がシンナーを吸ってしまって。「私はチョウチョだ」って言って、3階から飛び降りようとしたのを捕まえたんです。
こういう出来事があると、やっぱり神様からのメッセージかなと思うんです。絶対に見捨てられない、一緒にやらないと、と。

いつもかならず「何か」があった

―この50年間はあっという間でしたか。
マルセルさん:昨日日本に来たみたい。あっという間でした。
  
ー神父さんになった当時から、日本へ来たいと思っていたんですか? 
マルセルさん:いえ、神父にはなりたかったけれど、日本に来るとは思っていなかったですね。
アジアには関心があったけれど、どこの国に行くかは自分では決められない。入会したパリ外国宣教会が決めることです。
 
―そうですよね。そこから50年日本にいて、フランスに帰りたいとか、別の国に行きたいとか、思ったことはありますか? 
マルセルさん:あまりありませんね。言葉のことがあるからね。アジアの国は、言葉が難しいです。
だから何もない限りは、別の国には行かない。同じ国にとどまります。
 
―もう神父さんもやめて、別の仕事をしようとか…。
マルセルさん:そうね、あんまり考えたことがないですね。
3年に1回は休みで、2ヶ月ぐらいフランスに帰ることができる。
でも1ヶ月ぐらい経ったら、もう日本に帰りたいと思ってしまいます。
 
―ええ、それは素敵ですね。日本のどんなところがそう思わせるのですか?
マルセルさん:やっぱり青年たち、若い労働者たちとのつながりが、私にとって大きなものになっているんですね。
フランスを離れてこんなに時間が経ってしまったということもあります。
それから、国によっては活動が管理されてしまうところもある。インドとかミャンマーとか、ビザが厳しかったりします。特に宣教師に対してはそうです。でも、日本ではそんなことがないから。大学でフランス語を教えたりもさせてもらっていました。もう20年以上も経ちますね。
 
―本当にいろんなことをされているんですね。ところで、お友達の神父さんも、長く続けている方は多いですか。 
マルセルさん:そうですね、神父は、死ぬまで続けることが多いです。
でも、神父はみんな独身ですから、結婚したら神父をやめなくてはならない。それを理由にやめた仲間もいるけれど。時々、そういう友達にも会っています。
 
―お話を聞いていると、大変な時期もたくさんあったのかなと思いました。 
マルセルさん:そうですね。いつも青年たちと一緒だったから。あとはやっぱり憧れが強かったから続けられた。
それから、私個人としての意義もある。何かがあった時、いつも何かに救われるということが多かった。長く神父を続けて、一緒に働いてくれているスタッフとか、いろいろな場所にお友達ができて、みんなで生きてきて。そういう人たちと一緒にいたいという気持ちもあります。
もう、81歳ですから。若い方に譲るか、という気持ちもあるけれど。
 
 
―その時々で、やっぱり神父さんがいないと救えない出来事があったんですね。
マルセルさん:はい、恵まれたと思います。神様からの私への使命だったと思います。人間ですからね、右に行くか、左に行くか、真っすぐに行くか。どうなるか分からない。
だけど、継続するか迷っているときには、いつも何かが起きて。お金のことでも、最後のところで誰か寄付してくれたりとか。いつも何かがありましたね。面白いなと思います。

編集後記

宣教師、神父さん、キリスト教。冒頭にも書いたように、無宗教のまま日々のうのうと生きている私にとっては、どれも、およそ馴染みのない存在でした。
マルセルさんのお話の中には、確かにやっぱり私には馴染みのない考え方や、想像し得ない出来事もたくさんありました。でも、今回の取材をとおして感じたのは、そういうお話のスケールじゃなく、もっと大きな、「信じる心」そのものの強さでした。
私たちは神さまにはなれないと思います。だけど、「人に優しくしよう」とか「お互いを思いやろう」とかそういうことを超えた、もっとシンプルに誰かや何かを信じたり、救いたいと願ったりすることの真っすぐさ。神父さんに対してこんなことを言うのは不敬かもしれないけれど、少なくとも、マルセルさんの言う「何か」は、その真っすぐさが惹きつけたものなのだと思いました。

書き手:後藤 花菜

撮影:中村 創
編集:新野 瑞貴
取材/ライター/監修:後藤 花菜

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