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『メディアの悪影響?~規制派にとっての統計と実験室』2022-02-02

ゆっくりしていってね!!!!
私は東方Projectとは独立かつ無関係に存在する不思議な生命体、ゆっくり手嶋さんよ!

……ん? 


はい。まあ、言いたいことは分かるわよ。
ここはヒトシンカさんのnoteよね。「手嶋海嶺のnote」ではない。

そう――おっしゃる通り。
これは、いわゆる「出張」よ。

私も社会に生きるゆっくりだから、そりゃ出張くらいするわよ。
みんな納得した?

したわね?
――よし。オッケーオッケー。素直な皆さんで助かったのだわ。ゆっくりありがとう!

じゃあさっそく始めましょう。
ヒトシンカさん&手嶋海嶺のコラボレーション記事、『広く表現の自由を守るオタク連合』(通称・新橋九段)批判よ!

簡単な経緯


まずは私のターン!

一連の流れを知らない人のために、ごく簡単にこの記事までの流れを説明しておきましょう。

1.新橋さんが私に表現の悪影響を述べた本、『フィクションが現実になるとき』を読むようにツイートを飛ばしてくる。

2.私、その本を実際に読んで「あまりにもうんうん(=大便、糞)めいた駄本、議論の科学的水準が最低」だと思ったので、そう判断した詳細をnote記事として公開

3.新橋さん、反論したブログ記事を公開

ちなみに、私と新橋さんのTwitterでのやり取りに関しては、次のTogetterにもまとめられているわ。神崎ゆきさん、ゆっくりありがとう!

当然ながら、私としては新橋さんの反論記事に、再反論する記事を書いていたのだけれど、その途中でヒトシンカさんに遭遇。お話を伺って、今回のコラボ企画が決まったわ。

そう、以下の謎めいたツイートは、実はこれを指していたってワケよ!

心理学で博士号を取得していらっしゃる新橋さんを相手にして、私とヒトシンカさんだけでどこまで粘れるか――ホント未知数で展開が読めないけれど――私なりにできるだけ、頑張ってみるわね!

ただ、あくまでもヒトシンカさんのnoteなので、私は一つの論点を重点的に述べさせて頂く形にするわね。
(新橋さんから私への反論記事にある他の論点に関しては、改めて私のnote記事で扱うわ。)

それは嘘です。

新橋さんは次のようにツイートしていらっしゃったわ。

はい、ダウト。
「事実」どころか、完全にただの嘘。

『フィクションが現実になるとき』の著者であるカレン・E・ディル-シャックルフォードさんは、明白に表現規制派よ。

じつはカレンさんは、カリフォルニア州ゲーム規制法の合憲性を争う米国最高裁において、非常に熱心に「表現規制派」として活動していらっしゃったのよ。

他ならぬご本人が、Psychology Todayに次のように書いているわ。

本日、最高裁はBrown v. Entertainment Merchants Associationという事件の判決を下すと予想されています。この訴訟では、ゲーム販売業者が、最も過激で暴力的なビデオゲームを未成年者に販売できるようにすべきだと主張しています。いわゆる「大人向け」の映画を子供が購入することは違法ですが、もし企業側の主張が通れば、暴力的なビデオゲームによって子供の安全は損なわれるでしょう。

私と私の同僚十数名は、暴力的ビデオゲームが害を及ぼす可能性があるという見解を最高裁へ伝えるために、法廷助言書を作成しました。このGruel報告書と呼ばれる暴力的ビデオゲームに関する報告書は、米国、ドイツ、日本の最も著名なメディア暴力専門家13名が執筆し、さらに102名の研究者が賛同の署名をしています。

Karen E. Dill-Shackleford『Sex Is Too Obscene for Kids, but Violence Isn't? Brown v. Entertainment Merchants(Psychology Today: 2011-6-27)

この最高裁の結果はご存知よね。「表現の自由」を侵害する法律だとして、きっちり違憲判決が出たわ。

最高裁に「メディア暴力の専門家13名(カレンさん自身を含むわよ!)が執筆し、さらに102名の研究者が賛同の署名をした」報告書を提出する行為って、表現規制を正当化・擁護する行動でしょう。

そして、表現規制を正当化・擁護する行動をとる人のことを、通常、私たちは「表現規制派」と呼ぶのだわ。

さてさて。
もちろん、Gruel報告書もばっちり入手してあるわよ。
ここでは結論部分のみを引用しましょうか。

ちなみに私の英文和訳や抜き取り方が不安な方は、PDFリンクを貼っとくから、ゆっくり内容を確認するのだわ。

Gruel Brief: Conclusion
 メディア暴力への暴露が攻撃的行動の増加を引き起こすかどうかについての科学的な議論は終わっています。実験、横断的相関研究、縦断的研究、介入研究、メタ分析など、あらゆる主要なタイプの研究方法が用いられてきました。三十数年にわたる多くの研究が、暴力や侵略を目にすることが、子どもにとっていかに様々な否定的結果をもたらすかを立証しています。同様に、暴力的なビデオゲームをプレイすることによる未成年者への有害な影響も論文になっており、ここに深刻な論争はありません(Andersonら, 2003; Gentileら, 2003)。またメディア暴力に関して最も新しく包括的な総説論文では、「......メディア暴力は、即時および長期の文脈の両方において、攻撃的・暴力的行動の可能性を高めるという明確な証拠」(Andersonら, 2003, p.81)が示されています。
 結局のところ、私たちに必要なのは、この増え続ける研究論文の海から戻って、単純な常識に戻ることだけです。社会は、未成年者が暴力的なビデオゲームに触れることをわずかに制限することに、直接的で合理的、そして説得力のある理由を持っているのです。実際、この法律の下では、どんな親でも自分の子供にあらゆるビデオゲームを提供する自由があります。 この法廷では、このような問題を直接扱ったことはないでしょうが、子どもたちを保護するという明確で理解しやすい慣習から下級審(の違憲判決)は棄却されるべきであり、心理学者のコミュニティによる科学的知見を考慮してカリフォルニア州の当該州法は支持されるべきです。

Gruel Brief

「表現の自由を侵害している」と最高裁に認められた州法を、カレンさんたち執筆者は、「当該州法は支持されるべきです」(...the California statute upheld)とはっきり書いた法廷助言書(Gruel報告書)を提出しているワケね。

特にカレンさんは、繰り返すけれど「執筆者」であって、賛同署名をちらっとした102人の有象無象のうちの一人ではないわよ。

じゃあ、逆に質問してみたいんだけど、この人が「表現規制派」と呼べないとしたら、その理由って何?

明々白々に、これ以上ないってくらい、「表現規制派」で間違いないでしょ。
自主規制ではなく、法的規制を正当化しているのよ?
しかもその「法」は、「表現の自由を侵害しているため、違憲」という判決が出てるのよ?
「公権力による規制じゃないからセーフ論法」も今回は使えないわ。

新橋さんは法廷の判断について次のように書いていたわね。

『・アンダーソン論文に基づき成立したカリフォルニア州ゲーム規制法が、裁判で「違憲」とされた件について、著者は「科学的根拠の不備ではなく表現の自由が優先されただけ」と説明しているが、イリノイ州における同法がやはり「違憲」となった件についてはまさに「科学的根拠の不備」で却下されたことに言及していない。』(※注:私のnote記事からの引用)

 しかし、この部分にはあまり意味はないでしょう。法律の専門家(つまり心理学の素人)たる裁判所がかつて下した判断を、その後一生心理学研究の評価として固定的に崇めなければいけないというのはあまりにも馬鹿げているからです。


九段新報:「化学修士」を名乗る人の『表現の影響論』が酷すぎるのでツッコミを入れておく【『フィクションが現実となるとき』批判の総論編】

この点、半分同意できなくはないのよ。私もnote記事で『裁判所の判決が、科学的見解の妥当性を決めるものとは考えない』『判事の判断が間違っている可能性はある』と書いた通りね。(上の新橋さんの記述は、この部分を「読んでない」から出てきた気がするわ)

裁判所は別に科学に関する見解の総意を決める場ではないでしょう。それはそう。仰る通り。

でも、「問題のカリフォルニア州法は、表現の自由を侵害しているため、違憲立法である」については、法律の専門家が下した法律に関する判断よね?

当然ながら、心理学の専門家(つまり法学の素人)であるカレンさんや新橋さんがウダウダ言うことではないわね。これは、新橋さんご自身の理屈によってもそうなる。

まあ、専門家の判断を尊重すべきよね。当該カリフォルニア州法は、表現の自由を侵害する違憲立法だった。これは現時点における確定事項であり、もし将来的に覆ることがあるとしても、それは法学の専門家たちが最高裁で議論して決めるもので、断じて心理学者の適当な「思い」などに従って決めるのではない。

そして「表現の自由の侵害」を理由として違憲認定された法律を、カレンさんは公式な法廷助言書を執筆までして正当化・擁護した。署名まで集めた。

ゆえに、カレンさんは、「表現規制派」と呼んでいい。

異論がなにかあるかしら?
我ながら、とっても分かりやすいお話だと思うのだわ!

――あ、もちろん新橋さんからの異論が仮にあるとしても、「法学の素人」の意見をどれくらい真面目に聞くべきかって話になるわね。「(専門家の判断ではないから)あまり意味はないでしょう。」と言ったのは新橋さんだわ。私は特に焦らないから、このあたりも含めてゆっくり考えてね!

満足したのでパスしちゃうわね!

さらに心理学実験の妥当性とか細かい話はあるし、実際にノイズブラスト試験を「妥当でない」としたファーガソン論文の紹介とかも出来るんだけど、あくまで今回は「出張」だから出しゃばるのはここまでにして、ヒトシンカさんにお任せすることにするわ。

この時点で私はヒトシンカさんによる批判を読んでいるのだけど、スッゲェわよ、マジで。

「その批判は、私では思いつかなかった!」が連打されてるわ。

もちろん、私とヒトシンカさんとはエンカレッジ・カルチャー関係で対立する部分もあるのだけど、まあ政治的見解がピッタリ何もかも一致する人ってそもそも居ないし、こうしてお互い協力できるところでは協力していきたいわね!

それでは、ヒトシンカさんファンの皆様、お待たせしました。
私は自分のおうちに帰ってゆっくり――するけど、有料部分のオマケ(ちょっとした制作秘話で、論旨とは関係ないわ)で再登場するから、興味のある方はそちらでまたよろしくね!

あ――私のTwitterをフォローしていくのだわ!

「続きを読んでから……」と思うときっと忘れるから、先にやっとくのよ! いいわね!?(圧力)

ありがとうございました。一旦、この場からは失礼させてもらうわね。


―― はい、ヒトシンカです。
手嶋さん、どうもありがとうございました。
それではバトンいただきます。

ここから「メディアの悪影響?~統計と実験室」について論じていきたいと思います。

偏見助長メディアを批判する者の偏見

 カレン・E・シャックルフォード『フィクションが現実となるとき:日常生活にひそむメディアの影響と心理』、私も読んでみたのだが本当に酷い本だった。
 科学的に重要な批判点はほぼこの手嶋さんが名著『ゲームと犯罪と子どもたち』を援用して出してくれている。

 本論に入る前に、それ以外の点について少々補足したい。

 本書の極めて酷いのが「ゲーム無害論者は『殺人鬼が大量発生していないからゲーム無害と言ってるだけ」「信じたくないから大企業の暴利を擁護しているだけ」というイメージ誘導である。

 メディアの目的は単に楽しませることだ、とどれだけ多くの人がこれまで私に言ってきたか、メディア研究者としては語りつくせないほどだ。メディアの批判的な消費者になるためには、救いようがないほど甘いこの考えを却下しなければならない。メディアが制作される一番の理由は、お金儲けである。私が見てきた限り、プロデューサーたちは、収益を維持するためなら必死になって何でもする。

フィクションが現実となるとき 日常生活にひそむメディアの影響と心理』112頁

 この「金儲けのためだ」というのは、どんな仕事にも言えることであるため、批判として成り立っていない。端的に言って「あなたの仕事は仕事である」というトートロジーに過ぎないので、意味がないのだ。

 一方で、自分達への批判者(彼女曰く「メディア擁護者」)はこのようにレッテルを貼られている。

 彼らが用いるもう一つの戦術は、メディア研究は間違っている、または、メディア研究ではメディアが人に影響を与えている結果は示されていないと非難することである。どちらの主張も事実無根である(ヒトシンカ注:本当に事実無根であるかは手嶋さんのnoteと『ゲームと犯罪と子どもたち』を再参照されたい)。皮肉なことに、第一章で述べたように、人は自分が操作されている(メディアによって検閲され、制限され、影響される)と感じたくないという理由で(ここの太字は原著者)、実際に自分たちを操っている、それもお金儲けのために操っている人々を擁護してしまう。メディアの収益で儲ける人々にとって、これは何と完ぺきな状況だろう! 彼らの操作に最も引っかかりやすい人々は、結局彼らの最大の擁護者になるのだ。

前掲書115頁

 要するに、自分達メディア有害論者を批判する者は、操られたと認めたくない願望を利用されて操られているだけ、だというのである。メディアが偏見をもたらすという糾弾は『フィクションが現実となるとき』にもそこかしこに顔を出しているが、彼女こそ偏見をもたらそうとしているとしか思えない。

 ではここで、日本のとある高名な精神医学者の言葉を紹介しよう。

 実をいうと、一九九〇年から始まった、いわゆるポルノ・コミック規制論や有害図書論争にも、私は初めはあまり関心を抱いていなかった。しかし、各方面から意見を求められたり、各種の研究会や討論会、委員会などに招かれるようになってから、イメージ情報としてのマンガ・コミックスが青少年に対して持つ重要性をしだいに理解するようになった。
 (中略)
 このようなマンガの内容、特に性的な表現や性的な内容が青少年の心の健全育成に果たして有害かどうかということがこの本の主要なテーマの一つであるが、資料を集め、論理的に考えていくと、有害論にはどうも根拠がない。性行動や性犯罪の統制にも自由な情報の流通を認めている現状が最も賢明な対応であるという結論に達した。
 正直にいうと、この本を書くまでの私は、性に関しては決してリベラルな主張に共感する者ではなかった。どちらかといえば、慎み深い、感情的な保守派であった。しかし、実証的、論理的に考えていくと、「マンガに関しても表現の自由を主張する立場をとる以外にはない」という結論に到達してしまった。初めから、憲法にうたわれている「表現の自由を守ろう!」というような殊勝な考えがあって書き始めたわけではない。しかし、結論としてはそうなってしまった。その結論に、私自身は内心少しとまどっている。

 これは所謂有害コミック論争のさなかに出版された、福島章『マンガと日本人【”有害”コミック亡国論を斬る】』の前書きである。

 福島氏は1936年生まれ、この本の出版時点で56歳、現在は86歳という御高齢である。世代的にも、また個人としても、当時騒がれていた「青少年に有害なマンガ」に親しんだ層ではない。第三者的立場で資料収集し考察した結果、有害論否定にたどり着いたのである。
 福島氏こそはシャックルフォード氏の「メディア擁護者は現実を認めたくないだけ」の完璧な反例と言えるだろう。

 もう一つのよくある操作の試みは、メディア批評家を「人騒がせな人」と呼び、また彼らが「人々を怖がらせようとしている」と言うことだ。もしある医者が、不健康な食生活は健康の問題に高いリスクをもたらすと知らせたら、その医者はあなたを怖がらせようとしているのだろうか。そうではない。少なくとも不当に怖がらせようとはしていない。専門家が情報を与えるときは、人騒がせな人とは呼ばれない。これはメディア・リテラシーの事実である。学校に行き始めた子どもたちのなかで、テレビを見る子どもほど語彙が少ない。心理学者として私はあなたを怖がらせようとしているのか、それともびっくりさせようとしているのか。否、私は教育者であり、あなたを教育し、力を与えるためにそれを伝えている。心理学者は人々に健康であってほしいと思っている。

前掲書115~116頁

 このおそるべき美化を、先ほどのメディア業者《拝金主義》説と比べてもらいたい。言うまでもなくあらゆる仕事は「○○をして、それでお金を儲けている」点ではまったく一緒である。
 エンターテイメントの製作者は人を楽しませることで金を得ている。
 心理学者は心理学研究や著書の出版で金を得ている。
 じゃあなんで心理学者は前半を美化した表現で言い表され、エンタメ作者は後半で表されるねん!w
 これを逆にしたら普通に「エンターテイメント作者の目的は人々を楽しませているだけなのに、金が目的の学者がそれに言い掛かりをつけている」になるわけだ。

 なお中盤の医者のたとえに答えるなら、「金のために人を怖がらせようとしている医者」は普通に存在する。お前たちは間違った生活や医療を受けてるんだぞ、ほらコレを買いなさい、という悪徳な(あるいは妄想狂の)医師は実際に存在するし、彼らの出版する『医療系トンデモ本」もいくらだってある。

 そして実際に「メディア有害論」の分野でそのような営業活動を行い、批判を受けている人々がいる。『ゲーム脳の恐怖』の森昭雄や、「ゲーム依存症」を病気=業務化しようと躍起になっている久里浜医療センターの樋口進らだ。
 大切なのは、メディア業界が悪・メディア叩きをする心理学者が善という職業差別ではなく、その内容を科学的に検討することだ。残念ながらその検討でシャックルフォード氏が失格なのは、すでに手嶋氏が検討してくれた通りである。

「統計フォビア」の正体

 この駄本を手嶋氏が紹介することになったきっかけは、手嶋氏の説明しているように「広く表現の自由を守るオタク連合」というアカウントがバイブルのごとく「これを読め!」と押し付けてきたかららしい。
 私はこのアカウントにブロックされているのでよく知らなかったのだが、どうもかつては新橋九段というアカウントが凍結されて作られたもののようだ。ちなみに幻集郎氏の量的調査によると、B級フェミニストとランク付けされている。
 確か絡んできて論理的な回答を返すと、ろくに再反論が返ってこなくなるタイプのアカウントだったと記憶している。

 さて。
 この件についてもそうだが、彼の発言の随所には「統計」に対する嫌悪がある。「犯罪統計なんて無意味だ!」としょっちゅう叫びたてている。
 実はこの「統計フォビア」は表現規制論者の多くに見られるもので、そのために「統計坊や」「統計はミソジニー」といったレッテルを作り出し、逆に嘲笑の対象になっていたことさえある。

 言うまでもなく、統計が「メディア有害論」(あるいは「規制の効果」)についてほぼ間違いなく、否定的な答えしか出してくれないからだ。
 有害論を唱える→統計を示されて小馬鹿にされる、の挫折体験が繰り返されることで表現規制派たちは「統計」というものに徐々にアレルギーを示すようになっていった。

 実際に、手嶋氏の『フィクションが現実となるとき』批判に対する「ツッコミ」と称する彼のブログには次のようにある。彼は手嶋氏が示した統計の一例に次のように反駁する。

これらは犯罪の増減について、それ以外の要因を完全に無視しているという問題があります。これもいささか極端に思える説明でしょうが、仮にポルノに悪影響があったとして、ここで取り上げられてない要因Xがその悪影響を上回る力で犯罪を減らしていたとすれば、統計上はポルノが増えているのに性犯罪が減っているように見えます。

 そして最後に、これは全ての犯罪に言えることですが、犯罪は一般に未来に行けば行くほど減る傾向にあります。どうしてそういう話になるかはスティーブン・ピンカーの『暴力の人類史』とかを読んでほしいのですが、重要なのは犯罪にそういう傾向があるなら、時系列的に増加あるいは減少するものと組み合わせれば何でも相関が見いだせてしまうということです。

「化学修士」を名乗る人の『表現の影響論』が酷すぎるのでツッコミを入れておく【『フィクションが現実となるとき』批判の総論編】

 この新橋氏の反論は「時系列推移」全般に関するものだ(ついでに言えば、特に後半は時系列推移型の統計にしか適用できない)。
 つまり同じ場所で、異なる時期での犯罪の数を比べたものである。しかし実際には犯罪と「メディアの悪影響」の関連を示す(というか、示さない)統計はその種のものだけではない。
 たとえば多くの人が指摘するように、同じ時代の、規制の厳しい国とそうでない国を比較してもそうなっている。

 外国と日本では違うことが他にも多すぎる?
 ではこういう例はどうだろう。

 ふたたび福島章氏に登場して頂こう。氏は前掲書『マンガと日本人』の中で、1990年代の「有害コミック問題」当時の各都道府県青少年条例の内容と性犯罪件数を比較検討しているのだ。

(ここまでお読みいただき、ありがとうございます。以降は有料部分とさせていただきますが、内容はヒトシンカ論考の後半と、手嶋さんによる制作秘話コーナーとなっております。
 なお、頂いたご支援につきましては手嶋さんと折半させていただきます旨、申し添えます。)

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