【表現の自由】を構成する不可欠の要素の一つ。
情報や表現には当然にしてその表現の送り手と受け手が存在する以上、送り手だけでなく受け手の権利もまた保証されなければ、その自由は有名無実となる。
もし仮に独裁国家の政権が「反政府勢力××党の発行するビラを読んではならない」という法律のみを作った場合、発行側を規制していいないからといって独裁者が「我が国では表現の自由を認めている」と言ってもそれがナンセンスなのは明らかであろう。
知る権利は伝統的な「国家からの自由」的性質をもつ権利であるが、同時に「国家への自由」すなわち参政権的な要素も持ちあわせている(情報公開請求権など)。
また一部の大企業の意向による歪曲された情報しか受け取れないのでは国民の知る権利が十分に保証されているとはいえず、ひいては国民が政治参加にあたって公正で十分な判断をくだすことができないか。
20世紀になってマスメディアが発達し、情報の受け手と送り手の乖離が顕著になったことからこのことが強く認識されるようになった。
世界人権宣言や子どもの権利条約に、情報を「求め、受け」伝える自由が謳われているのはこのためである。
表現規制が「年齢制限」や「ゾーニング」の形を取っているものならば問題ないとか、甚だしい場合には規制ですらないと主張されることがある。
しかしそのような意見が上記の子どもの権利条約の精神をないがしろにした、言語道断なものであることは論を俟たない。子どもにも知る権利がある、と子どもの権利条約は主張しているのである。
知る権利に関連して【アクセス権】が主張されることがある。
団体や個人が、マスメディアによって自己について歪曲された情報を流された場合、それはその個人の被害であるにとどまらず、国民の正しい情報を知る権利も侵害されたと言えるからである。よって、正しい情報を持っている可能性が高い当事者から情報の訂正を請求する権利(アクセス権)を認めることが国民の知る権利の保障につながる、という議論である。
しかし最高裁は、アクセス権を認めるには明文の規定が必要であると【サンケイ新聞意見広告事件】で判示している。
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