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 表現弾圧を支持するフェミニズムなどの「学者」ということになっている人の肩書に、高確率でついているジャンル名。
 たとえば【「キズナアイ」のノーベル賞まるわかり授業】バッシングでデマを流した【千田有紀】や、【最善の相】をはじめとする珍発言を連発する小宮友根、その他にも牟田和恵や果ては上野千鶴子に至るまで、基本的にみんな「社会学者」である。
 というか表現規制派やアンチポルノか否かにかかわらず、フェミニズムは基本的に学問ジャンルとしては「社会学」に含まれている。

 なぜ学問たるものがこんな惨憺たる面子なのかというと、問題は社会学そのもののアカデミズム軽視にある。
 社会学には他の学問分野と違って、専門家相互の研究内容の批判的チェックがほとんど機能していない。これは単に「表現の自由」の観点からフェミニズムを批判する立場からの邪推ではない。
 事実、千田有紀が【「キズナアイ」のノーベル賞まるわかり授業】叩きの粗雑ぶりを批判された時、「私を誰だと思っている」と言い放ち、それどころか査読の英語論文が院卒以来まったくない事実に驚かれたことに対しては「招待論文の方が格上「私はもう査読する側」などと放言し、周囲を唖然とさせた。当然ながらまともな学問においては、査読する側であろうとなかろうと、誰の研究も査読をはじめとする専門家同士のチェックを受けて、その学問的水準が維持されているからである。

社会学に対する風刺画

 実際に京都大学の太郎丸博教授は、大阪大学からの異動に際し、プロの研究者の立場から社会学の内部批判を行っている。

 日本の社会学の特徴は、アカデミズムの軽視だと思います。すなわち、学会報告や学会誌を軽視しているということです。学会発表もせず、学会誌に論文を投稿もせず、それでも社会学者づらして本を出版したり、さまざまなメディアで発言することができるのが、日本社会学の実情です。このようなことが起きるのは、学会報告や学会誌が、新人の登竜門として位置づけられており、その評価が低いからだと思われます。エライ先生は本しか書きません。エライので査読を受ける必要もありません。こっそり紀要などに考えを公開することはありますが、人から評価されるのは恐ろしいので、学会誌には絶対投稿しません。出版社も本が売れさえすればいいので、研究の水準や主張の真偽は気にしません。エライ先生はシンポ等でのスピーカーを依頼されれば断りませんが、わざわざ学会発表なんて、バカバカしくてできません。大学院生たちもこのような先生を見て育ちますから、アカデミズムを軽視し、本に好き勝手なことを書くことを理想とするようになります。研究そのものから降りてしまい、研究成果をほとんど出さない人も多数あらわれます。
 このような状況下では、専門家どうしの真剣な議論など望むべくもありません。分業という美名のもとに相互不干渉の縄張りが多数形成されています。国際的な競争力もつきません。日本の有名社会学者で海外でも名の知られている研究者が一体何人いるでしょうか。外国語で出版したり、国際会議で報告している研究者は、全社会学者の10%にも満たないのではないでしょうか。

阪大を去るにあたって: 社会学の危機と希望

 パオロ・マッツァリーノは一般向けの著書『反社会学講座』の中で次のように述べる。

 社会学は非科学的な学問なのです。他の学問では「こじつけ」と非難される論説も、社会学では『社会学的想像力に富んでいる』と称揚されます。
 それでも非難されることが少ないのは、社会学という学問がカバーする領域がめちゃくちゃ広いせいでもあります。政治、経済、家族、労働、教育、統計、余暇、健康、なんでもアリ、なのです。(略)
 領域が広すぎるため、だれも社会学の全体像を把握するものはいません。それに、膨大な量に及ぶ他人の研究を、いちいち検証することも不可能です。社会学者同士の結束(とりわけ日本人同士の)は非常に固いので、他人の研究はとりあえず全部肯定しとくのです。ですから、社会学者による社会学関連書籍の批評は、「若手社会学者の成果が注目を集めた」などと誉めちぎるものになります

パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』ちくま文庫

 社会学にも優れた業績が存在しないわけではもちろんない。
 しかしそれは単に「ひとりで立派な本を書く人もいる」というだけの話に過ぎない。社会学という分野が専門家相互の学問的チェック制度を欠き、したがって信用ならないことの弁解には、残念ながらならないのである。

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