「現実」を駆動させる血

Netflixで「魔女見習いをさがして」を観た。

デマやフェイクニュースが世間に溢れる昨今、物語やフィクションの存在意義を改めて再定義するような作家や作品が増えてきているように思える。
ただの現実逃避や感動ポルノではない、「現実」を駆動させる血としてのフィクション。
劇中で「おジャ魔女どれみ」というアニメシリーズが長瀬ソラ、吉月ミレ、川谷レイカら3人の年齢や出身が異なる女性を結び合わせたように、
また、「魔女見習いをさがして」という物語がこうして私を作文に駆らせたように、フィクションというものは我々が想像する以上に「現実」に作用するのだ。

そもそも、「現実」という概念は、全くもって不確かなものだ。
人間の認識能力には限界がある。
だだっ広く広がる「世界」のほんの一部分を切り取り自分自身の知る概念言語と結び合わせて「現実」を構築しているだけだ。
無意識のうちに日々紡がれる言葉。それはつまり、誰もが自分の中に「物語」を抱えて生きているのだとも言えはしないだろうか。
自分自身の趣味や興味、将来設計など、大小様々な物語が絡み合いながら流れを生み出し、「現実」を駆動させる。
「物語」はその全てがただの絵空事というわけではないのだ。身体中を巡り続ける血の如く、それは身近に存在し、かつ必要不可欠だ。

違う作品の話になるが、「マトリックス レザレクションズ」の終盤の方で、ある人物がマトリックスの世界に広がる光景を眺めながら「きれい」と呟いた一瞬が心に残っている。
物語は、フィクションはまだ死んでいない。最近はそれを強く感じている。
「物語」を捉える視点を「現実」に還元することで新たに見えてくる景色があるはずだ。

「メタ、ベタ、使い分け」ることで、なんかね、なるべく気楽にやっていきたい。


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