あずかり知らないことだ。

すみれはすみれのように咲けばよい。
春の野にどのように影響を与えるかは、すみれのあずかり知らないことだ。

図書館から見る景色は、いつも似ている。
様々な色の表紙をもったたくさんの本が、内容ごとに分類されて、置かれている。そして何より、決して、それらは動かない。毎日変わり映えすることなく、ただそこにあり続けている。この景色が変わり映えをするとしたら、それの主体となるのは、人である。

今僕の目に映る景色には、「2つ」の、人がある。
変わり映えのないこの景色の中にある人は、景色それ自体の印象をガラッと変える。右端にある人がいることにより、景色の主体が人になる。そして、その横にいるiPadを見ながらテスト勉強する人により、景色それ自体が台無しになっている。

なぜiPadを見ながら勉強する人により、景色が台無しになってしまっているのだろうか?やはり、そこに関わってくるのは、僕という人の、図書館という場所の認識に、クセがあるからだろう。

図書館という場所は、静かであり、学ぶには最適な場所である。調べたくなったら、小型化したパソコンから、すぐに調べられる。本を読みたくなったら、適当に歩けば、何かある。たとえ、その日が自分が医学の本を読む気分がないとしても、物理学の本があり、哲学の本がある。こんな風に、自分が興味が湧く何かは必ずある。しかし、それらの本は決して僕らに読ませようとアピールしてくることは、あまりない。ただそこに在り続けている。それ以上でもそれ以下でもない。そして、それは本だけではなく、そこにいる人にも同じことが言えるのではないだろうか。すみれがすみれのまま咲いているように、人も人として在り続けている。そこに在り続けた本と人が、今僕が見ている景色を作っている。

テストの勉強をするということは、そこに、人の汚い欲のようなものが湧き出てくるように思える。勉強している自分、医学を学ぶ自分がかっこいいと溺れる欲。人と点数で競争し、数字として人よりも優れてることを示そうとする欲。そして、その欲は人が湧き出し、そして、人から湧き出てくるように見える。

人が湧き出し、人から湧き出る、その欲は、工場の煙突から排出される煙のように、常に濁った色で、僕の見ている景色の中に排出されている。そこに在り続けること以上に、自分を示そうとする。

そのことこそが、この景色と合っていない。必要以上に自分を示そうとする欲こそが、自分の見ている景色を濁している。しかし、その中でも、本はただそこに在り続けている。

ものはただそのまま在り続ければよい。
君はわからないかもしれないけど、ただ在り続けていることの美しさを、君は十分放っているよ。

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