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SNSがその人を100%表しているなんてことは絶対にない

僕はエッセイをたまに読む。読むものはそれぞれだが、もともと知っている芸能人の方のものを読むことも多い。ちょうど今は、この前発売された長濱ねるさんの「たゆたう」を読んでいる最中だ。

他の人もそうであるが、特に芸能人の方のエッセイもしくは有料でしか触れられない文章を読む時に感じることがある。それは、同じ人間なんだ、ということである。

芸能人の方々はやはり華やかで煌びやかで輝いているように感じてしまう。その人自身のSNSを含めた多くのメディアで見られる姿は、自分とは違う人間である、そうあってほしいじゃないと自分の醜さを受け入れられない、とさえ思わせるような雰囲気を感じる。

でも、エッセイで触れる文章からは、同じ時代同じ世界を生きる、人としての上も下も感じない同じ人間であるように思われる。それは、その方々が普段のSNS等での発言に関して気を遣っていることも、恥ずかしいと思っていることも、それでも誰かに伝わってほしいし共感してほしいと思っていることも、いろんなものが乗っかっているような気がしている。

かくいう僕も、こういう場で匿名でなら発言できるし、自分のためではあるけど誰かに届くかもしれないと思いつつ文章を書いている。それは、生きてるだけで気が狂いそうになる世の中で、どこかにいるかもしれない自分を理解してくれる誰かに向けて、あげ続けている鳴き声のようなものだ。

ただ、この場でも書けないこともあるし、仲の良い友達にも話せないこともある。話したいけど、気持ちをどう言葉で表現すれば良いのかわからないこともある。これは芸能人の方もたぶん同じだと思う。エッセイで書かれているのは誰かに伝わっていい自分であって、本当の自分ではない。もはや本当の自分がなんなのかよくわからないこともあると思う(僕もそうだし)。だから、僕はエッセイを読んで共感しても、その人をわかったとは思えない。数年前のエッセイのイメージという眼鏡をかけて今のその人を見ようとも思わない。それは自分だったらそんな眼鏡で今の僕を見て欲しくないと思ってしまうからだと思う。

好きなエッセイは少ない読書量なりに幾つかあるし、読むことでその人をより好きになったこともいっぱいある。ただ、それはそれとして今のその人の活躍は応援したいと思う。友達とは会った時に感じた気持ちや話してくれた言葉を信頼したいと思う。ずっとこのやり方で、人と向き合っていきたい。

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