叱ることが本当の愛だとは思えない話
本気で厳しく向き合ってくれている人ほど厳しく叱ってくれるという話をよく耳にする。そういう人は本当にあなたのためを思って言ってくれてるのだからその人の話はありがたく聞くようにと、言われてきた。
特に疑うこともなく、ああこの人は本当に私を大事に思って言ってくれているんだと思って人のお叱りを受けてきたけれど、どこかずっとそれに違和感があったのをここにきて思い出す。
「怒る」と「叱る」も違うから、怒ると間違えてるんじゃないかと思われるからもしれないが、そういうわけではない。「叱る」を辞書で調べてみると、「目下のものの言動の良くない点などを指摘し、とがめること」を指すらしい。もうこの定義からして、私には叱ることのどこが愛の表現なのだろうと疑問で仕方がない。
そして、私自身が叱られることで愛を感じてきたことがそもそもないということもある。親が子を叱る、大切なパートナーを叱る、親友を叱る、いろんな関係性においての「叱る」があると思うけれど、私はどの関係性においても、「叱る」は愛の表現ではないと感じている。
「叱る」が持つ意味
私にとって叱ることは、そもそも相手を心底「信頼していない」ことの表れではないかということがひとつ。
私の中にある大前提として「その人の人生はどんな形であれ今1番うまくいっている」という考えがあって、その人の人生は全て1番いいタイミングでその人がちゃんと動かせるという絶対なる信頼を置いている。その人にとって良い状態であれ悪い状態(マイナスと思われる出来事が起きるなど)であれ、その状態が今のその人にベストであって、それを変える必要がそもそもないという考えである。
意見を問われたり、アドバイスを求められたりした場合に、感じたことを伝えることはもちろんあってもいいと思うが、それを一方的に「叱る」という方法で「あなたのここが間違っている。こうすべきだ」と押し付けるのは、とても心地が悪い。(実際間違ってるという言葉を発していなくても、同じような意味合いを持つことはたくさんあるように感じる)
表面的には、それはあなたが失敗しないように、うまくいくように、スムーズに進めるように、という思いがあって発せられている言葉だと思うけれど、そもそもそれが「あなたはそのままだと失敗する」「そのままだとうまくいかない」「そのままだと辛い思いをする」という前提に立った上での言葉たちであると同時に、失敗することがいけないことであり、マイナスな感情になったり辛い思いをすることを否定する行為でもあるように思う。
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そして叱ることが含む意味合いのもう一つが、叱ることで相手をコントロールしようとしているということ。
相手の人生は相手のものであり、その人がどう生きようが自由であるにも関わらず「こう生きるべきだ」「こうすると成功する」「これはしてはいけない」という正論と呼ばれるであろうものを相手に伝えることで、一見相手のためのように思えることだが、それによって「相手を変えたい」「相手に何らかの影響を及ぼしたい」という自己顕示欲の表れの行為になっている場合があるように思う。
それを、「これは愛だから」という理由で鵜呑みにしてしまうのもそもそも違うし、私を思って言ってくれているからと従うのも違う。
上記の叱るという言葉の定義にものあるように、叱るということはそもそも「目下のもの」にする行為であり、その時点でそこには上下関係が存在している。片方が優っていて片方が劣っている、片方が強くて片方が弱いといった、立場の差がそこには生まれている。
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叱られることで居心地の悪さを感じる人は、きっと自然とこの上下の差を感じ取ってしまっているのだろう。そして自分は「このままではいけないんだ」と「このままではうまく生きていけないのだ」と感じ、自尊心を削ってしまうことにもなるかもしれない。相手からも信頼されていないことを心の底では気づいてしまい、相手へ心を開くこともなくなっていく。
これはどれだけポジティブに加工された言い方をされたところで同じな場合もある。「あなたなら〜になれるから○○してみなよ!」といった一見叱る行為とはかけ離れた言葉に思えるものであっても、含むものは同じである。そこには相手へのコントロール欲と信頼のなさが感じられてしまう。
唯一、本当の愛から発された言葉で相手を変える可能性がある言い方があるとすれば、それはきっと「私はこう思う、こう思ったよ。」という、よく言う『I(アイ)』メッセージと呼ばれるものだろう。「私がこう思う」の言葉の中に、「じゃあこうしてね」という意味が含まれていないのであれば。
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