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自分の鼓動に感動し続けられたら

なんだかつまんないなぁと感じる時、私は「感動すること」を忘れている。

本を読んで感動するとか、映画みて感動するとか、綺麗な景色をみて感動するとか、そういったことももちろんものすごく大事で、絶対に欠けてはいけないものではあるけれど、1番忘れてはいけない感動は「自分自身に感動する」ということだ。

つまり、自分という存在の『外側』にあるもので自分を感動させるのではく、自分の『内側』に既にある自分自身に、感動するということ。でも、自分自身に感動するってどういうことなのか、正直「感動を忘れている私」にとってはどういうことかよくわからない感覚。そんなことを考えていたある日の朝、軽く瞑想していたらふわっと自分自身に感動するっていうことか?という感覚に巡り会えた。

瞑想にも種類が色々あって、呼吸に集中する呼吸瞑想や、身体を一つ一つ辿っていくようなボデイスキャニング瞑想があったりと様々だけど、ただただ何にも集中することなく、シンプルにぼーっとするというか、自分をジャッジすることなくただ観察するというのも瞑想なんじゃないかと思っている。そして私はただぼーっとする、を日常で隙間が空くたびにやるようにしている。そして、このぼーっとしている中で私は、私の鼓動に、感動したのだ。

瞑想しながら五感を丁寧に感じる、というのはよくやるのだけれど、それよりももっともっと内側から絶えず振動している自分自身の鼓動を感じること、そしてその奇跡に自然と感動できたとき、『ああ、生きてるってすごいな』と、感動しようと思わずとも、自然と心が大きく動いたのを感じた。

自分の鼓動が今この瞬間鳴り響いているということ、それがどれだけ奇跡的なことで、自然であり不自然なことか。頭の先から爪先まで全ての細胞が、この鼓動によって生き永らえていて、今日も私は私を生きている。物質的にこの鼓動を止めたのならば、私という存在も意識も心も今この瞬間になくなる。

少し恐ろしくもなりながら、じっくりじっくり自分の鼓動を感じてみる。そして、この小さな小さな鼓動がなり続けることで、私の全てが機能し、私の小さな毎日が積み重ねられ、私の大きな人生になる。今こうして紡げている言葉たちも、この鼓動があってこそ。気持ちよく深呼吸ができるのもこの鼓動があってこそ。自分の両親の鼓動の中で私の鼓動が生まれて、鼓動が重なって命は続いていく。そして、おじいちゃんもおばあちゃんも、その何代も前のご先祖様も、たくさんの鼓動の中で人生が繋がって今この私の鼓動が在る。

「当たり前」を「奇跡」だと感じれたとき、自分自身に最も感動ができるのかもしれない。そしてそのひとつの感動が、連なるように次なる感動をも引き起こす。この小さな感動を感じれるだけで人生はこんなにも色鮮やかなものになるのかと、またそんなことにも感動している。

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