心の端に置くもの 絲山秋子『沖で待つ』について

仕事場で大好きな社員の方が辞めることをお聞きし(今月2人目)、感情が大きく揺れ動く1日だった。

帰り道に思い出したのは、自分が昔読んだ文章と、その感想文のこと。感情が揺れ動いた時に思い出せる文章があること、記憶に染み付くほど豊かな文章がこの世にあることは、本当に素敵なことだと思う。

1年前に書いた『沖で待つ』の感想文を引っ張り出して、改めて作品を読み直した。たくさん読んだ芥川賞受賞作品の中でも、特に印象に残っている大切な作品。

心の端に、文学に取り組む中で得た記憶がある。言葉を紡ぐことで作り上げてきた自分の一部は、感情が触れると影を増して、心全体を照らしてくれるのだ。


第1節. 序論

 「沖で待つ」は絲山秋子(1935〜)によって2005年に発表された短編小説で、第134回(平成17年度下半期)芥川賞受賞作である。(1) 
 語り手「私」とその同僚「太っちゃん」の関係を描いた物語は、芥川賞選考において、主に二つの点で評価された。まず、職業小説としての評価があった。河野多恵子は「彼等の職業の折り込まれ方の見事さには感心した。職業(生活の資を得るための仕事)を見事に描いた小説として、どういうものがあったかしら。... 〔中略〕...現代の本式の職業をこれほどまでに自由に書きこなした『沖で待つ』の新しさには瞠目する (2) 」として、現代の職業生活を反映した描写の巧みさを讃えている。次に、男女の関係を描いた小説としての評価がある。山田詠美の「友人でもなく、恋人でもなく、同僚。その関係に横たわる茫漠とした空気を正確に描くことに成功している。 (3) 」や黒井千次の「ここに見られる女と男の間にあるのは、恋愛感情でもなければ単なる友情でもない。仕事の中で灼熱する生命の閃光を共有することによって生れた新しい関係である。(4)」など、職場を媒介として繋がる男女の新しい関係性を捉えた点が、高い評価を受けている。芥川賞選評以外に「沖で待つ」に関する論考はほとんど存在していないが、いくつかある書評は「職業」・「関係性」描写(5)のほか、「距離」「敬体」「記憶」といった論点に触れている。本稿では、先行の論で示されたキーワードを念頭に置きながら、改めて物語内容を分析し、語りの特徴がもたらす効果についても検討したうえで、全体の解釈を提示したい。

第2節. 本論

1. 境界と断絶 
 職業小説としての評価がある通り、「沖を待つ」は仕事に従事する人物同士の繋がりを描いている。その繋がりが結ばれる、あるいは途絶える契機となるのが、仕事によって強制される人物の移動である。語り手の「私」(及川)は、東京の大学を出たあと住宅設備機器メーカーに就職し、ある時福岡に赴任することになる。「見知らぬ土地で、どうなるかわからない自分の運命が怖かったのだと思います。(48頁)」というように、それは、東京・福岡という物理的境界を越えるだけでなく、自己の連続性や確実性を揺らがせるような体験である。
 福岡に移った「私」は九州の空気を好ましく感じながらも、博多弁が話せない自分をよそ者だと思い、更衣室や給湯室で職場の人から標準語を用いられることに違和感を覚える。疋田(2016)は、「私」の赴任体験を東京・学生時代・同性総合職からの「断絶」であるとして、ここに「私」の同期である「太っちゃん」の関係の起点を見出している(6)。「太っちゃん」もまた、東京の大学を出て福岡に配属された、「私」と境遇を共にする人物である。「私」にとっての「太っちゃん」は地平を同じくする存在であった。「私」が「仕事のことだったら、そいつのために何だってしてやる。(54頁)」と語るように、二人は気の置けない同僚としての関係を築き上げていった。しかしながら、例えば「太っちゃん」が結婚したとき「私」が驚いているように、互いの全てを知っているわけでもなく、恋人のような感情もなかった。友達以上恋人未満の親密さと奇妙さを持った繋がりは仕事を通じて維持されており、だからこそ、それが絶たれるのも仕事の都合によってである。配属先の変更にしたがって、福岡に「太っちゃん」を残したまま越境する「私」は「飛行機に乗った瞬間、とり返しのつかない一歩を踏み出してしまったような気がして、胸が苦しくなりました。(54頁)」と言うが、「太っちゃん」と共有していた地平との「断絶」を予感したためだろう。

2. 秘密の共有
 「太っちゃん」の東京赴任を契機に「断絶」は薄れていく。仕事を中心として維持される関係性は「太っちゃん」からの提案によって一歩前進することになる。二人は「先に死んだ方が相手のパソコンのHDDを破壊する(56頁)」という約束を交わすのである。秘密の保護という名目によって、死という事象において二人は通じ合うことになる。死は終わりではなく、二人が共有する約束の一要素であり、大事なのは、秘密であった。
 それは「太っちゃん」が突然死した後も同じである。交わした約束に従い星型ドライバーを差し込んで円盤を見た「私」はその眩しさに「これが、死なんだ。と思いました。」(61頁)と言う。「私」と「太っちゃん」の関係性において、死は秘密と密接に結びついていた。「私」が、死に最も近づくのは「太っちゃん」の秘密を壊す瞬間であったのだ。
 「私」に再会した「太っちゃん」はずっとしゃっくりをしている。しゃっくりによって「太っちゃん」の発話は細切れになって、「私」と言葉のリズムがずれている。これは「私」と「太っちゃん」のいる世界の「断絶」を示唆している。ここでの「断絶」は仕事とは関係がない。二人を別けたのは「太っちゃん」の死であった。「断絶」の溝を埋めていくのは、二人が交わした秘密である。HDDに隠された「太っちゃん」の秘密が、彼の作成したポエムだったかどうかは明示されない。「太っちゃん」の秘密は維持される。死してもなお二人が隠すべき秘密が存在していることで、「太っちゃん」はこの世への接点を失わずにいるのである。
 「私」の秘密が明かされるにつれ、しゃっくりによって崩されていた「太っちゃん」の言葉のリズムがなおっていく(67頁)。このことは、僅かな隔たりを持っていた二人が秘密によって再び横並びになることを示している。「私」の心に残った「沖で待つ」という言葉は、本来「太っちゃん」の妻に向けられたものではあるが、「私」が「太っちゃん」のいる場所へたどり着くのを「太っちゃん」が待っているという意味を読み取ることもできる。二人を結びつける線は、岸から沖まで——此岸から彼岸まで——切れることなく一直線に続いているのだ。
 以上を踏まえると、「死んでからまた太ったんじゃない?(67頁)」という「私」の発言には着目する必要がある。「沖で待つ」への応答として読めるからだ。「また」という単語には、過去の繰り返し・再現、過去と現在の継続といったニュアンスが含意されている。「私」は、「また太ったんじゃない?」と口にすることで、「太っちゃん」をこの世にいない者としてではなく、変化する生身の肉体として見ようとしている。「私」自身が存在している世界に「太っちゃんを」を止まらせようとする意思、「太っちゃん」への親愛の情が反映された発話である。
 二人は秘密を共有する。同期を延長した共犯的な関係は死を超越する結びつきに発展する。そして、秘密が秘密のまま残ることで、二人は同じ世界に居続けることができる。秘密は「私」と「太っちゃん」を同じ地平に留まらせる縁である。「沖を待つ」において、死は日常・非日常を分ける「断絶」の契機ではない。流れに乗れば陸から沖まで容易にたどり着くことができるように、生も死も接続されたものとして存在しているのだ。

3. 敬体の語り
 秘密の共有によって維持される同期の関係と、生と死の接続について述べてきた。「太っちゃん」は幽霊として登場するが、当たり前のように「私」と会話し、まだ死んでいない存在であるかのように描かれている。「沖を待つ」が持つ現実と幻想の狭間のような空気感が、語りの形式によって支えられていることにも注目しておきたい。
 『沖を待つ』では地の文に敬体が用いられている。滝浦(2008)は「尊敬語」「謙譲語」の機能に着目したうえで、敬語は〈距離〉の表現であると定義づけている。『沖で待つ』で用いられている語りは敬語の分類でいうと「丁寧語」に近く、滝浦が定義づけた範疇とは異なっているかもしれない。(7)しかし、敬体の語りを〈距離〉に結びつけて考えることは、人同士の距離を語る物語の内容を読解するう絵で、有効な視点だろう。
 清水(2005)は「太っちゃん」との関係をノスタルジックに回想する「私」の語りに、人生や自分自身に対する距離感が存在している(8)ことを指摘する。敬体によって生まれる距離感は、「私」の語りに客観性を付加している。「太っちゃん」が幽霊として登場するというフィクショナルな出来事さえも日常の範疇に回収されていくのは、本文全体が一貫して敬体であるためだろう。常体よりも凪いだ、敬体の淡々とした語りは、日常と非日常の境界線を薄め、生と死の地続き性のイメージにも繋がっていく。
 疋田(2016)は「語りの敬体が何者かへの「告白」のように感じられる点には注目しておいてよい。(9)」と述べている。読み手と一定の距離を保つような語りによって、読み手に対する「私」の「告白」は印象付けられている。

第3節. 結論

 「沖を待つ」について、「断絶」「死」「敬体」「距離」というキーワードを挙げながら論じてきた。「私」と「太っちゃん」の関係は仕事を軸に維持される「同期」である。生者の「私」と死者の「太っちゃん」が再会し、同じ地平に立つという展開からは、生と死の地続き性が示唆される。また、内容が敬体・告白形式で語られることで、読者は現実と非現実の間のような世界観に入り込むことが可能となり、「私」の個人的な体験の中に生と死という普遍的なテーマを見出すだろう。「沖を待つ」は、死を生に接続されたものとして日常に回収するテクストとして読むことができる。

(1) 「沖で待つ」本文の引用は2005年9月号の『文學界』46〜67頁に依った。以下、引用の際は頁数のみを示した。単行本・雑誌名は『 』で示し、掲載された作品名は「 」、引用者の補足は〔 〕で示した。
(2) 『文藝春秋』2006年3月号より引用。
(3) 同上
(4) 同上
(5) 沼田真里(2010年)は「沖で待つ」の主題は仕事や労働の充実感や同期の友情であるとまとめている。
(6) 疋田(2016年)、108頁参考。
(7) 滝浦(2008年)、52頁より引用。53頁では「ちなみに「丁寧語」は、謙譲語や尊敬語から分離して発達した比較的新しい形である」と述べている。(8) 井坂洋子・清水良典・大澤真幸(2005年)、383頁参考。
(9) 疋田(2016年)、108頁より引用。

文献表

井坂洋子、清水良典、大澤真幸「創作合評 (第 346 回)「愛の島」 望月あんね 「真昼の DJ」横田創 「沖で待つ」 絲山秋子」『群像』、 60(10)、2005年、364-385頁。
滝浦真人『ポライトネス入門』研究社、2008年。
沼田真里「絲山秋子 『ニート』 論 (特集 プロレタリア文学とプレカリアート文学のあいだ)--(プレカリアート文学の発見)」『国文学: 解釈と鑑賞』、 75(4)、 2010年、185-191頁。
疋田雅昭「宛先の無い「告白」が誤配される時 : 絲山秋子「沖で待つ」をめぐって」『東京学芸大学紀要. I = 人文社会科学系』東京学芸大学学術情報委員会、2016年、97-110頁。

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