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そう言えばの話

そう言えばなんて思うことは珍しくない。そもそもそう言えばの連続で毎日がなりたっているようなものである。ま、特に忘れっぽい人や興味のないことをやってる時なんかは多いだろう。日常動作の中にある無意識がそうさせるのだ。多動で思考がぶっ飛び、思いつきで物事を途中で止める僕の頭はそう言えばが多すぎる。

そう言えば、ブログをたくさん更新しようとしていた。ネタが無くても書けば出て来るだろうと思っていたが案外ないものだ。

以前、イベントで友人が一箱古本で出品した本を読んでいた。一冊は『20代で得た知見』という本だ。前から気にはなっていた本だ。だがハウツー本か自己啓発の類いだったらやだなぁと思い購入を渋っていた。友人と一緒に来ていた友人の友人を交えダラダラ日常の事や釣りのことでも話していたらなんだか欲しくなってしまい購入した。
なるほど本はこういう買い方もあるのだなと思った。その一箱にはその人の好きや推しが詰まっている。まるで頭の中の一部を覗き見したような感覚になる。
熱意と言うには暑すぎず、売りっ気があるかと言えばそこまでない(笑)むしろ思い入れがあって売りたくなさそうでもある。それでも買ってしまう僕は意地悪かもしれない。もし本人がこのブログを読んでいたからここで謝りたい。あなたの本は大切に読ませていただきました。しっかりとボクの知識の血肉となっています。ありがとう。

だが読みたかった。ここを逃せば恐らく1年、いや一生読まないかもと感じた。んで、実際読んだら大切にすべき何かが確実にあった。この本は20代で読めばヒリヒリとした感覚を感じるし年齢が上がればノスタルジーになる。ただノスタルジーでは意味がない。そのほとんどは哀愁であり過去への置き土産だ。わざわざあげたお土産を取り戻しに行く事はない。だから20歳になったら買って読むべきだ。29になって読んでは遅い。正直21でも遅いと思っている。10代で読めば絶望と諦めと共に希望の匂いがするだろう。むしろそのくらいが良いかもしれない。多大な期待を持って大人になるより少しの絶望がある方が恐らく生きやすい。カレーで言えば希望はスパイス、絶望は隠し味と言ったところだろうか。隠し味にオリジナリティがあれば尚のこと各々の絶望は個性かもしれない。
そう、逆に言えば今読んで良かった。おじさんになって読めば悲しくて自分の色を塗り固まり後はくすんだ色にしかなれない様に夜も眠れなくなるだろうと思わせるものだった。

2冊目は「もしもし、運命の人ですか」である。この本はひと回りも離れた友人から購入した。数年前たまたまあったその人は初対面なのになんともリズムが合う人だった。会話、考え方、感覚、どこか似ていて全く違う。たまーに偶然会ってそこから話が盛り上がるような、会うたびに自分自身に新しい発見をさせてくれる素敵な人だ。

そんな友人の一箱も個性豊かだった。「みうらじゅん。僕も好きなんですよ〜。」と言いみうらじゅんの話をして盛り上がったが他の本は全く知らなかった。しかしタイトルや本の解説を聞いているとその人の一部を確実に構成しているものだとなんとなく気づく。そして何より好きなことを生き生きと話す人を見るのは誰であろうと気持ちがいい。「1人草くんはこれとか好きそう。」そう言われて勧められた本のうち一冊がこれだった。穂村弘という短歌を書く人らしい。読むと確かにボクが好きなタイプの本である。不器用で妄想癖があるのは共感する部分が多い。そして作者を憎めない。この人本当はモテるはず。てか、いや、あんたモテてるだろ!可愛げがあるというか男女問わず好かれる人なのがよく分かる。読んでいて嫌いになれない。むしろ好きになる。この本が出版された時は47歳だったそうだ。こんな歳の取り方をするのもありだなぁと思える。おじさんになっても冗談の2つでも言いながら昔話はほどほどにカッコよくもがきたいと思った。

そう言えば、というかついでにこんな話もしておきたい。本の内容は忘れてもいいと思っている。なぜなら潜在的に残った部分が最終的に自分のアイデンティティになると考えているから。


僕の場合、ほとんど本の内容は忘れている。元々暗記が得意ではなく概要や要素で覚えるクセがあるため登場人物などの名前はほとんど覚えてない。
映画を観て劇場から出た後感想を話したりするときは概ね「主人公が良かった」「金髪ロン毛の敵がイマイチだった」「あのアライグマみたいなやつは一体何だったのか」のような会話をする。それくらい覚えてない。むしろ大事にしているのは観ている時の感情、感覚、楽しさ、ワクワク度などだ。
それと同じで本も大枠だけ覚えている。もちろん読んでいる時は覚えているがそれより後はあまり覚えてない。しかしそれを肯定している。

大切なものは潜在的に覚えているものだ。「アレだよ、アレ、あぁ〜なんだったけなぁ〜ここまで来てるんだけどなぁ」ってものは大概覚えている。ただ出てこないだけ。

誰かと話しているとき、自分でも思いがけない言葉が出てくる瞬間がある。しかもよく考えるとその言葉は以前読んだ本や聞いた話が元になっていることは結構ある。

結局、人間は他人の引用を繰り返し、いつしか自分の考えになっていく。誰かの考えが見えなくなるくらい薄まったとき、別の誰かの言葉とか自分の持っていた言葉とかがくっついてオリジナリティになる。オリジナリティには比較が必要だ。
だってさ、「自分らしさ」なんて言ってる人は少なくとも一回は必ず他人と比較したから出る単語じゃん。比較なんてだめ!優劣なんてだめ!みんな違ってみんないい!ってのがこの時代の空気感だけどさ、みんな違うって価値観は比較から生まれるわけじゃん。現実世界だろうとフィクションだろうと何かと比較しないと自分らしさは見つからないのよ。スーパーマンが世界を救った陰で自分は何もできなかったと無力感を覚える普通の少年がいる。その少年は無力感を背負いながら自分なりの正義を探して警察官になってるかもしれないじゃん。比較していいんだよ、じゃないといつまでも自分は他人のままなんだよ。
もちろんやりすぎは体に悪いからダメ。感情が鈍ると体に影響するから。

っと話がそれた。だから内容を覚えてるうちは引用でしかない。内容が薄まって自分の中で概念化したときやっと出てくる言葉だったり、感性だったり、考え方だったりができてくる。
ある意味質より量ってことかもしれない。

なーんて偉そうに言っているが結局は暗記が苦手だって言い訳のように我ながら聞こえる。ただこう、自分らしさみたいなものは他人から受け取るのが早いというか、こう言ったら怒られるかも知れないがうん、でも好きなものとかに没頭するのは良いよね。水曜どうでしょうを永遠に見てたときは大泉洋の話し方が写っちゃって大変だったけど少しづつ抜けていってそこに今までの話し方と新しくハマってる人の話し方が混ざってみたいなw

あ、そう言えば後3時間後には家出ないと大学遅刻するんだった。寝まーす。(雑な締め方)

なんか前からあった下書きに放っておくには勿体無いと思ったブログ。ノリで投稿します。気が向いたら改訂版出すかも。
よしなに。

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