zyousiki
共感は過ぎれば妄想にもなって、「どうせ俺の事なんかよく想っていないのだろうな」と不貞腐れる習慣にもなりやすいのでやめてしまった。こちらから確認できるのは右手を挙げるなどの人の物理的な行動のみで気持ちはいくら説明しようが証明はできない。そして、人の行動よりも、自分の行動を確認していた方が生活は濃くなり、遥かに気持ちは晴れてくるので他人自体気にしない、という結論に至りつつある。
「それでは誰にも必要とされないんじゃないか」なんて不安も、何を言っているんだ?元々そんなに必要とされていなかっただろう。というか、皆から必要とされる人自体滅多にいなくて、それでも皆どうにかして食っていけているのだから別に必要とされなくても大丈夫だ。必要とされることが、他人に共感されることがなぜ価値としてこんなに重要になっているのかの方がむしろ気になるが、おそらくどうでもいい理由なんだろうな。
ただ有名になりたいからという人はとりあえず置いておいて、一つは孤独の怖さがある。一人では生きてはいけないと不安が募る。でも、よく分からない。今時社会から切り離されることなんてそうそうなくて、スマホなど便利な道具もあるせいで他人と繋がりすぎるぐらいだろう。福祉も以前より整っていて田舎では近所の人が自分の様子がおかしければ訪ねたりもする。本当に一人になりたければ外国か離島に行くぐらいしかなくて孤独に怯える必要もなくむしろ「一人の時間があるのだ」と喜んでいいぐらいだ。
また、あるとすれば非難される不安。常識から離れていけば必然とお節介からの注意は増えてその対処にも億劫にはなる。他人から何か言われて変わる人なんて殆どいないのに人はいつも人を変えたがる。意味が分からないよな。給料を支給しているのに好き勝手にやってもらっては困るという社長の言い分の方がまだ合理的で、社長でも上司でもない自分の気に触ると言う理由だけその人変えようとする人は多い。放っておけばいいのに感覚的にそうできない面倒な人の相手は本当に疲れてしまう。そしてそのような人とは話してもいつも埒は明かない。「人それぞれで結果に支障もないのだから放っておきましょう」と言っても何か理由をつけて関わり続ける。だからその人ごと放っておける、何を言われても受け流せる強さが、「言語で理解し合いましょう」という論理より必要になる。面倒だけれど。
さて、俺は常識から外れているタイプの人間だ。自分で言えばショボさ際立つが、何度思い返してもやはりそうだ。わざとそうしているのではなくて、作業をしていて「こっちの方法が良いよな」と思えば常識がどうだろうと変えてしまうのでいつのまにか常識から外れている。ただ自分としては心地が良い方法を探っているだけなんだけど周りからは「また自分の方法でして」と言われやすくて困ることもあった。「あ、内容よりも指導した通りやれているかどうかが価値なんだ」と大学生になってやっと気づいた思い出がある。社会人になればよりそれは目立って思えた。常識は大勢の他人が作っていて、他人に合わせることが必然と常識になる。
とは言いつつ、可能なかぎり迷惑はかからないように気をつけているつもりなので、なぜそこまでして周囲に合わせなければいけないのか未だによく分かっていない。それぞれの仕方でやればいいとしか思えなくて、ルールからはみ出ている人間が気に食わないだけじゃないのか。今やっていることはスポーツじゃないし俺たちは家族でもない。ピリピリしないで、興味も近くなる必要はなくに淡々と最低限のコミュニケーションだけ行い、気分が乗れば雑談でもすればいいんじゃないか。「天気がいいですね」など相手に興味がなくても話せる話題はいくらでもある。「そういえば、オリンピックはどうなりました?」なんて言いながら俺はそれを全く観ずに「俺、バレーは今度金を取ると思うんですよ」なんて適当に話している。
個人的に興味がある人もいる。その人自身のことを聞きたくなる。常識でなく自分の感性でそれは決められる。だから興味がない人も当然いるわけでそれはどうしようもなく、矯正するよりも従っていればいいだけの話だ。全員に平等に接する必要はなくてただ故意に傷つけないようにしていればいい。嫌われれば交流はやめて距離を取ってあげればいい。「全員に優しくしましょう」、「友達は多い方がいい」なんて14期はただ個性を殺すだけの鎖だよなと、改めて思う。
常識を捨てていくと不思議と他人という概念には興味が無くなっていく。自分と好きな人だけに注意が向く。その好きな人も片手で数えるほどで大方は自分だ。自己中心に世界は傾く。だからと言って何か損をしたか?と考えてみれば特にない。自分のペースが確立できて幸福度が増したぐらい。
常識は世間を気にし続ける装置で、世間を気にしなければ、「俺は何がしたいのか」が全てになり俺と俺の好きな人のために行動するようになる。意味があるかどうかすらも考えていたくはない。その意味の基準は常識によってできているのだろうし。意味よりも、なんとなく「楽しそう」を重要にして行動の理由にする。意味があるどうかを考える時点でもう個性は死んでいる。いや、お前はもう死んでいる。言ってみたかった。
今日も書きたいこと、自分が読みたいものを書いている。自分のためにしかならない文章を今日もダラダラと書けている。その一つであった常識の意味のなさを訴えたかった。常識を無視して変態に生きたく、もっと周囲にもそうできるような人が増えてくれればと思った。補足しておくと、むやみに人を傷つける人は「変態」と呼ばない、ただの病気だ。「変態」は他人に興味がなくても、いつも快く自分の興味と知識を説明し押し付けることはしなかった。「こんな世界があるんだよ」と教えてくれてそれはいつも斬新で心がエグられた。自分の興味を決して恥ずかしいとは思わない、ただ「自分」を純粋に表現できる人たちだ。
精進します。