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kimoi

「キモい」なんて誰からも嫌われるもので、自分でもそれは避けたいものだったと思っていたものは「自分」だったのかもしれない。

基本的に人前で「自分」を出すのは恥ずかしいと思う派だった。大きな失敗をすればそれこそ一日中死にたくなり、常識めいたことをすればとりあえずは誰からも何も言われないもの、正解として、それぞれ好みで何かと批判されやすい「自分」はキモいものとしていた。恥ずかしいものとして可能限り人前に出さないための分かりやすい目印にしていた。

だから最近は、「キモい」部分を出せれば「自分」を表現できている、ということにもした。色々試してみて、やはり「自分」を出していた方が生活は上手くいく、そして継続もしやすいことを知ってそうしている。恥ずかしい、キモいだろうなということでも人に伝え、文でも表現して自分が色濃くなるよう努めている。最近では「変わっているね」と言われるのを待ち望んでいる。

内容はそのままに表現を「柔らかく」すればいいと思った。もちろん無闇に他人を傷つけるのはカバだし、せっかくの安全な日本で自ら法に触れることももっとカバ。そうしないよう、その上で「自分」を表現して、例え非難、嘲笑されても特に何も思わなくなり、罪悪感は消えて楽しさが上回る。「恥ずかしい」、「キモい」は出せばそれだけに個性にもなって自分らしさを取り戻す一つの手っ取り早い方法だった。

俺はキモいし、そんなところが好きだし、もっとキモい文を書いていたくなった。むしろ誰からも文句を言われない内は醜さが足りないのだろうかなんて考えたりもして夢中なっている。キモさが個性を呼ぶのだと盲信している。

最近の、金、名誉、恋愛、結婚の話にはもううんざりしてきた。金や相手が欲しいとかどうでもいいから、あなたはどんな人なのか、どんなことをしたいのか、「どんなキモいところがあるのか」知りたい。人それぞれのキモい魅力を知りそれについて朝まで語りたいぐらいにある。ところで、オタクが笑われている文化はいつになったら終わるんだろうか。常識と評価に依存する人を見て聞いてどこか楽しいのか、を聞いてもみたい。

キモい文と人は毎日を飽きさせない。地獄だなんだ文句を言いながら沢山の人の興味もそそる。俺のキモさも大したことないな、と落胆して楽しくなり、自分がまたたぎる。とりあえずキモさで、文も人間関係も生活も最近俺は輝いている。


精進します。