親不孝娘

私は母が嫌いだ。理由は簡単、幼い頃から私の全てを徹底的に否定してきたからだ。

私は物心ついた時から母に褒められた記憶がない。母に言われてきた言葉は大抵私の見た目を貶すものだった。

「目つきが悪い、人○ろしみたい」

「アンタは鼻が残念だね」

「姿勢が悪い、お化けみたい」

小4の頃私がストレスでパン耳を貪り始め、急激に太ってからはもっと悪化した。

「象の足みたい!」

「アンタ本当にヤバイよ」

ついには私のお気に入りの緑色のショートパンツを手にとって

「こんなんじゃこの服着られないね」

と言ってゴミ袋に突っ込んだ。あの光景が未だに目に焼き付いたままだ。

そんな事がずーっと続き、中学に上がる頃には私は卑屈を煮詰めたような人間になっていた。その態度が原因かは分からないが、同じ仲良しグループにいたスクールカースト上位の子にいじめられるようになった。毎日死にたかった。常に死ぬ事を考え、家では毎日泣いていた。

ある日耐えられなくなって母に相談すると、母は一通り話を聞いた後に

「まあ気にしなくていいって。それよりさ、お父さんが────」

と、私の父が如何に面倒な人間かを語って聞かせた。私の必死の訴えよりも母は自分の愚痴の方を優先したかったらしい。

この頃から、私の中の母に対する愛情のようなものがすっかり消えてしまった気がする。何か相談事があれば姉に言うようになったし、母の世間話に付き合うことさえ苦痛で部屋に閉じこもった。それでも顔を合わせるたびに吐かれる私の容姿への呪いにはもう耐えることもできず、ある日爆発して泣き叫びながら言うのをやめろと訴えた。

母は「家族だから真実を言ってあげている」の一点張りだった。私は家族だからこそ味方になって欲しかったのだが、その考えを理解してもらえることはなかった。

結局いじめは止まず、私はいじめっ子たちのレベルより上の高校に行くことでいじめから抜け出そうとした。

試験の得点は某塾の合格予想点のボーダー上だった。母はそれを見て「情けない」と言って泣いた。私は母の言葉には傷つかなかったが、母の事を「最低な人間だな」と思った。

志望校には無事合格し、自分の力でやり遂げたという自信がついた私は、母の事をいよいよ他人だと思うようになっていた。学校のこと、進路のこと、母に一切相談しなかった。高校の学費も、将来的に大学の学費を出してくれるのも父だったから、父だけには夢を語り愛想を振りまいた。

その頃丁度弟が中学でいじめにあい、不良になるという事件が起きた。弟は私も姉も母も父も助けてくれない中でそうなるしか自分を救う方法はなかったのだと思う。弟の部屋には煙草が散乱しその匂いが制服に染み付いた。部屋の入り口には特攻服が飾られ、バイクのエンジン音が深夜まで鳴り響くようになった。母はいじめを適当に聞き流した自分ではなく、グレてしまった弟を嘆いた。私は母に部屋まで突撃され愚痴を聞かされる事になった。まるで悲劇のヒロインのような振る舞いに、私はいよいよ彼女を最低な人間だと見下し、軽蔑するようになった。

高校を卒業して大学に入った。大学は遠くにあったため、朝は6:00に家を出て帰りは最低でも21:30になるという生活が続いた。母は遅くとも21:00には眠気が来て寝てしまう人だった。けれどなぜか私が帰ってくるまで待つ、と言って、私が家に入るのを見ると寝室に上がっていった。正直母の顔を見ずに済んだ方が楽だったので待たなくていい事、夜ご飯も自分で作る事を告げた。次の日から母は私を出迎えなかった。私はただいまも言わず家に入り、適当に料理を作って食べた。母と話さなくていい生活に、母の魚のような目に見つめられずに済むことに、心の底から居心地がいいと思った。

ある日、帰宅が早くなった時、母と夕食の時間が被ってしまい、運の悪いことに一緒に食事をする事になってしまった。母は私に山盛りの、それも脂っこい料理を押し付けては

「これ食べる?これは?」

と尋ねた。食べたら食べたでまた象の足と言ってくる癖になんなんだコイツは、と母が気味の悪い生き物に思えて仕方がなかった。私は大丈夫、いい、とほとんど断って、キャベツを千切りにしてドレッシングをかけ、母に背を向けてテレビを見ながら食べた。母は特に気にした様子もなく、最近ボケてきた彼女の母、つまり私の祖母の話を始めた。

祖母は母によく似て、会った時の第一声は決まって

「また太った?」

と言うような人だった。ついでに言えば母の兄である伯父も、その息子もみんなそうだった。人の容姿を貶しては嬉しそうにニタニタ笑う。やめろと怒れば冗談なのにと肩を竦める。私はこの最低一族の元に生まれてしまったことが嫌で仕方がなかった。

母の話が途切れた時、私はふっと思いついて言った。

「あのさ、おばあちゃんって酷いこと平気で言うじゃん。お母さんも、おばあちゃんに色々言われたの?」

母は酸素を求める魚みたいに顎のない口をぽっかり開けたまま私を見つめた。その顔が気持ち悪いな、と思ったので目を逸らしてテレビを見た。母にしては珍しくずっと黙ったままだった。しばらく経って、キャベツを食べ終わったので立ち上がろうとすると、母が徐に自分の皿から唐揚げをつまんでこちらに近づけた。

「好きでしょう、あげる」

私が中学の頃好きだった食べ物だった。中学でいじめにあい、デブと揶揄われてからは一切口にしていない食べ物ものだった。

母は本当に私の事を何も知らないんだなあ、と、今更ながら実感した。それに少しだけ安心した。そしていらない、と言って今度こそ席を立った。

大学を卒業し、いよいよ社会人になった。私は無理を言って一人暮らしを始める事にした。母には実家で貯金をした方がいいと言われたが、正直に実家から離れたい旨を、母と、母の兄弟とこれから先会うかもしれない事そのものが苦痛である旨を話すと、最初は私の家族を悪く言うな、と怒ったが、

「分かった」

とだけ言って了承してくれた。

一人暮らしが決まってから半年、私はゼミでの卒論やバイト、友人たちとの卒業旅行に追われていた。その間も母とはろくに会話しなかった。丁度母は星野源にハマり、部屋にこもってtwitterで星野源のツイートを見ようと躍起になっていたので好都合だった。そのままあっという間に時は流れ、大学の卒業式を迎えた。自分のバイト代で借りた、自分で選んだ柄の袴を履いて友達を待っていると、母から長いLINEが来ていた。

内容は私の大学卒業を祝う言葉が綴られていた。さっと読み流していると、最後の行に

『私はいい母親じゃなかったけれど、無事卒業してくれて嬉しいよ』

という一文が書かれていた。瞬間、今までの事が走馬灯のように駆け巡り、私は反射的にこんな返信をした。

『私はあなたが私に言ったこと、私にしてきた事、全部覚えています。全部許してなんかいません。勝手にいい気分になるな。私の人生を慰みにするな。象の足と言われた時からあなたが憎い。あなたの家族が大嫌いです。あなたの兄が私の目の小ささを揶揄った時、怒ったり止めたりもせず一緒になって笑った事も、私が怒ったら我慢するのが普通だと言った事も絶対に許しません。あなたの葬式にはいきません。行きたくないです。』

私の今までの憎悪を1/1000000000ぐらいにしか表現出来なかったが、とにかく憎しみと怒りを込めてこう返信した。私の言葉に傷ついて欲しかった。私の一生治らない傷に気づいて欲しかった。華やかな人混みの中、私は般若のような顔をして画面を睨んで返信を待っていた。5分ぐらいして既読がついて、15分後ぐらいに返信が来た。

『ごめんね』

『私もおばあちゃんに足が太いってよく言われて嫌だったのに、ほほえみにおんなじ事しちゃってたんだね。ごめん。

ほほえみが辛いなら葬式には来なくていいよ。心の中で思ってくれればそれでいいから。

卒業おめでとう』

それを見て、反射的に携帯を放り投げた。数秒してから、周囲の視線を気にしつつ何食わぬ顔で拾った。何度も何度も文章を読み返して、それから急いでトイレに駆け込んだ。喉の奥にスライムが貼っついてるみたいに気持ち悪かった。吐きたくてしょうがなくて、洋式の便器に顔を突っ込んでオエエ、とえづいた。何回やっても何も出てこなかった。いつまでも気持ち悪くて、いつのまにか目から涙がポタポタと絞りでた。何回やっても何回やっても気持ち悪さが治らなくて、私はバリバリと頭を掻きむしって大声で叫んだ。

苦しかった。

私はいったい何がしたかったんだろう。

私は、どうすればよかったんだろう。

母が憎いのは変わらないのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。



卒業式が終わり、私はなるべくそっと家に帰り、母に会わないように私の部屋に行った。母の部屋からは星野源の「夢の外へ」が流れていた。私はまとめておいた荷物を持ってそっと家を出て、玄関の扉を音を立てないように閉めた。新居への引っ越しは今日から出来る事になっていた。私はそのまま一人で電車に乗り、不動産屋に行って鍵を貰い、そして新居に住み始めた。


今、一人で暮らしてみて思う。私と母はきっと、一緒にいてはいけなかったのだと思う。私達は生きる力を根こそぎ奪ってしまうような恐ろしい呪いの連鎖の真っ只中にいて、その呪縛から逃れるにはこれが最適解だったのだ。現に、今は多少母に対する憎しみも薄れているように思う。残念ながら私の母への愛情は枯れたままのようだが。

けれど、もしかしたら私は母を許せる日が来るかもしれない、そう思っている。そのためには、私自身の器が大きくならないといけないだろう。長い時間が掛かると思う。

だから、私達が本当の意味で呪いの連鎖から逃れるその日まで、私は生涯家族を持つ事をしないつもりだ。本当に悲しい事だが、億が1パートナーに恵まれ、子どもが出来たら私は子どもを否定で傷つけてしまうだろう。

呪いは連鎖してしまいやすい。そういうものだと私はよく知っている。

“私は大丈夫”

だなんて思わない。そしてそう思ったから、と産んではいけない。

きっと、私を産んだ時の母もそう思っていたはずなのだから。

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