見出し画像

人生が一時間だとしたら

人生が1時間だとしたら  高階杞一

人生が1時間だとしたら
春は15分
その間に
正しい箸の持ち方と
自転車の乗り方を覚え
世界中の町の名前と河の名前を覚え
さらに
たくさんの規律や言葉やお別れの仕方を覚え
それから
覚えたての自転車に乗って
どこか遠くの町で
恋をして
ふられて泣くんだ

人生が1時間だとしたら
残りの45分
きっとその
春の楽しかった思い出だけで生きられる


『高階杞一詩集』(ハルキ文庫、2015年)より
------------------------------------------------------

私は自分の体に別れを告げる時、
きっと週末日曜の夕方を思い出すだろう。

私は「お連れ様」とともに日曜、はとバスツアーに参加した。

日曜は雨が朝から降り続いて、花冷えの様相であったが、
幸いにも夕方からは雨が上がり、船に揺られながら目黒川の桜を眺めた。

ふと思い出す。
いつかのまだ青かった時期。
そして生きるのが苦しかった頃の記憶の断片。

馴染みの店に連れていくパートナーが、私の価値だと思っていた。
パートナーのキラキラとした容姿、勤務先、住んでいるところ。
周囲から嫉妬される視線を、ひたすらに欲していた。
それが世界の価値だと疑わなかった。

ただ、欲しながら、いや欲すほどに、それらは遠ざかっていき
私を縛り付け苦しめように思う。

はとバスツアーには、私の両親と同年代と見受けられるご夫婦がたくさん参加されていて、
「あのさ、さっき思ったの。
 お父さんとお母さんも、参加させたいなぁってなったけど、
 お父さんもういなくなっちゃったから、
 それってもう二度と叶わないことなんだなって」
と夕食時に、口にしたのだが、
「お連れ様」はちょっと困った顔をして、
「それでいいんじゃないかな」
と、ビュッフェのローストビーフを一切れ、取り分けて分けてくれた。

この記事を書きながら、さっき偶然目にした地元の記事。
記事の河本さんには全く罪もないのだが、私が持ち得ることが出来なかったすべてを前に、一瞬胸をギュッと掴まれる想いがした。
-----両親は、私にはずっと地元にいてほしかったのではないか
  孫は欲しかったのではないか
  家庭を持ってほしかったのではないか
  私は親不幸者ではないだろうか-----------

世界への視線が自分から他人に逸れそうなとき、
いつだって満ちているのに、自分自身に欠損を感じたとき、
いつかのように、自分自身を「欠陥品」と蔑みそうになったとき、
私は何度だって、日曜に焼き付けた幸せの隅々を思い出そう。

夕暮れ時の目黒川を船に揺られながら愛でる、
川の水面に広がる桃色の絨毯、
川辺に並びぼんやり灯る提灯、
橋の上から手を振る親子に、はにかみながら手を振り返す光景。

そして私の視界には、私の世界をまるごとひっくるめて肯定してくれる存在が映っていた。
また、たとえ何者であろうと、これからや今までがどうであろうと肯定すると決めた存在を、私は映した。


お連れ様とともに@阿佐ヶ谷神明宮
目黒川での川下り@はとバスツアー



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?