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中国の人は本当に『〜アルヨ』と言うのか—役割語についての話

みなさん、こんにちはある。

今日は「中国の人は本当に『〜アルヨ』と言うのか」という切り口で、役割語(言語のステレオタイプ)について書いていこうと思うあるよ。

難しことわからない人、居る知てる。
でも分かりやすく書くあるよ。
時間あるとき、気楽に読むよろし。

さて、まずはこれを見てほしいある。

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『らんま1/2』高橋留美子

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『銀魂』空知英州

二人とも語尾に「〜ある」を付けているある。
これ見て「中国人っぽい喋り方あるな」と思うのが普通あるが、でもほんとに中国の人、こんな風にしゃべるか?

最後に「〜ある」を付ける以外は思いっきり日本語あるよ。
それだけで、なんで中国人っぽくなるあるか?

さっき二つの漫画を例に挙げてみたが、どうやらここ数十年のトレンドというわけでも無いみたいある。

「あなた、この薬のむよろしい。毒ない。決して毒ない。のむよろしい。わたしさきのむ。心配ない。わたしビールのむ、お茶のむ。毒のまない。これながいきの薬ある。のむよろしい。」
支那人はもうひとりでかぷっと呑のんでしまいました。
『山男の四月』宮沢賢治

これ書かれたの1922年(大正11年)あるから、少なくとも100年前にはもう「〜ある」が支那人(中国人)の言葉づかいとして認識されていたということある。

意外と深いある。歴史。

この「アルヨ言葉」はその源流をたどると、日本に住む外国人がコミュニケーションのために使った「簡便な日本語(横浜ピジン日本語)」が元になっているみたいある。

たとえば「私は中国人です」「私は中国人ではありません」と日本語の肯定文と否定文を正しく用いるよりも、「私中国人ある」「私中国人ない」と「アル」「ナイ」で区別する方が簡単ある。

それに「よ」とか「ね」が付いて、「〜あるよ」「〜あるね」という表現になったのが、「アルヨ言葉」というわけある。

もともと中国の人以外もこの「〜ある」使てたみたいあるが、小説や漫画などの創作物によって「中国人っぽい喋り方」として定着していったみたいあるね。

まあ、その辺については敬愛するダ・ヴィンチニュースさんに詳しく書かれているので、読んでみるよろし。
先人たちがよく調べてくれているある。

▶︎中国人美少女キャラは、なぜ「○○○アル」と話すのか?

こういう風に、本来の文法的にはおかしい言葉が誕生して後世に残されていくのは珍しいことじゃないある。たとえば、

“Long time no see.”

これ「長い間 ない 会う」と文法的には成り立っていない英語あるが、「久しぶり」という意味で英語圏でもちゃんと通用するある。

この言葉、中国語の「久しぶり 」である「很久不見」 から来ているそうある。それぞれの意味は 「很(very) 久(long time) 不(not) 見(see)」 で、そのまま英語に直して“Long time no see.”

「言葉は生きもの」言うが、私も同感ね。

さて、そんな「アルヨ言葉」。
今はほとんど話す人いない言葉あるが、小説や漫画などの創作の場ではまだ現役バリバリある。

なぜかと言えば、めちゃくちゃ便利だからある。

ざっくばらんに言えば、詳しい描写をしなくてもとりあえず「〜ある」と語尾に付けとけば中国人っぽくなるので、キャラ付けがしやすいある。

たとえば、こんな会話文があったとするあるね。

「お客さん!こっち来て餃子を食べていきなよ。ほっぺたが落ちる美味しさだよ。さあさあ」

どんな場面を想像するあるか。
私は、おせっかい焼きな定食屋の女店主が商店街で呼び込みをしている場面が目に浮かんだある。

ところが、こうしたらどうか。

「お客さん!こっち来て餃子食べるよろし。ほっぺた落ちる美味しさあるよ。さあさあ」

一気に中華街の風景ある。
ともすればちょっと怪しげな雰囲気と、何かが始まる予感さえしてくるないか?

これが「〜ある」を付けることによる「中国人っぽくなる」チカラある。
面白いのは、本当の中国人はそんな言葉遣いじゃないというのが(うすうす)分かっているのに、中国人っぽさを感じちゃうところあるな。

そして同じようなチカラ持つ言葉は他にもあって、そういうのまとめて「役割語」言うある。

これ、日本語学者の金水敏教授が提唱していて「話者の特定の人物像(年齢・性別・職業・階層・時代・容姿・風貌・性格など)を想起させる特定の言葉遣い」というのがオフィシャルな意味らしいある。

役割語使うといろんな説明省ける。これ本当よ。

いちいち例を挙げるのもめんどくさいので、ちょっとした小話を書いてみたある。
役割語のある、ないで2パターンお見せするある。読んでみるよろし。

まず「役割語なし」バージョンある。

ガコン!

「うわーーっ!!」
「うわーーっ!!」
「うわーーっ!!」
「うわーーっ!!」

ヒューン……ドスン!

「あいたたた……。いきなり床が抜けるとは」
「うーん。でも下が柔らかくて助かったよ」
「クッションを用意しているとは。最初から落とすつもりで造られた場所なんだろうね」
「真っ暗だしカビ臭いし、どこなんだいここ。声も変な風に反響してて気持ち悪いし。こんなところにはいられないよ!」
「まあ落ち着きなよ。むやみに怒ったってエネルギーを使うだけだ。僕が思うにだね……」
「というか君たちは誰なんだ!この暗闇の中で僕に何をする気なんだよ!?」
「だから落ち着けと言ってるじゃないか」
「ちょっと静かにしなよ。発情期のパンダみたいな声出さないでさ」
「なんだって!?」
「うーん、状況を整理する必要があるね。僕が音頭を取ろう。みんな異議はない?」
「あー、僕が仕切ろうと思ってたのに。でも手に負えない人がいるみたいだから仕方ないね」
「○▼※△☆▲※◎★●!!!」
「うわっ!」

どうだたか。
これ、役割語なしのプレーンな状態ね。

地の文(会話文以外の文章)による説明がないから、登場人物の具体像がさっぱり分からないある。人数さえ不明あるな。

次に「役割語あり」バージョン読むよろし。

ガコン!

「ぬおおおおおっ!」
「きゃああああ!!!」
「わあっ!!」
「あいやー!!」

ヒューン……ドスン!

「アイタタ……。いきなり床が抜けるとはのう」
「あいやー。でも下柔らかくて助かたある」
「敷物を用意しているとは。最初から落とす心算で造られた場所なのでござるな」
「真っ暗だしカビ臭いしどこなのよここ!!声も変な風に反響してて気持ち悪い!アタシ、こんなところにはいられないわ!!」
「まあまあ落ち着きなよ。むやみに怒ったってエネルギーを使うだけさ。ボクが思うにだね……」
「てかアンタたち誰なの!?この暗闇の中で、か弱いアタシを襲う気じゃないわよね!?」
「だから落ち着けと言っておるじゃろう」
「ちょっとうるさいある。発情期のパンダみたいな声出すないね」
「なんですってえ!!??」
「むう、状況を整理する必要がござろうな。僭越ながら拙者が音頭を取らせていただこう。異存は無いか皆の衆」
「ちぇっ。ボクが仕切ろうと思ってたのにな。でも手に負えない人がいるみたいだから仕方ないや」
「○▼※△☆▲※◎★●!!!」
「うわあ!!」

どうあるか。
説明しなくてもキャラクター性が伝わるないか。これ、みんながその言葉遣いのイメージを共有してるからできることある。
役割語の持つステレオタイプの力、これあるね。

「〜じゃ」「お主は〜」と喋らせれば老人みたいなるし、「拙者」「何奴!?」と言わせればサムライっぽくなるある。なんとも便利よ。

ただ、もちろん万能じゃないある。

役割語は、言うなれば「お湯入れるだけでウマいインスタントラーメン」みたいなものある。
「っぽく」なるだけで、本物ないね。
だからリアリティが求められるような創作物には向かないある。

あと役割語、多用するとその創作物自体が陳腐になってしまうある。
なぜか言うと「多くの人が持っているステレオタイプ」を利用してるのが役割語だから、基本的にそのステレオタイプの枠の中でしか活動できないからあるね。

たとえば小説で「ワシは〜じゃ」と話す人物をサーフィンやナイトクラブに出掛けさせるには、相当の理由説明が必要ある。
言葉遣いから感じるイメージとはかけ離れた行動あるからな。

「ワシはピエール・エルメのマカロンが好きなんじゃ。あのとろける甘さがたまらんわい」
「拙者はイチゴ狩りでは練乳は付けない派でござるな。素の味わいを楽しみとうござるからな」
「ちょっしもた!おいどんのMacBookを見るでごわす!あのアニメがプライムビデオから削除されてもうた!」

イロモノ感ハンパないある。
どう説明したらこれらのキャラクター成り立つあるか、分からないあるな。

一度そのキャラクターに役割語を付けてしまうと簡単に外せないあるし、便利なはずの役割語が逆に表現の幅を狭めてしまうので、取り扱い注意ということある。

一方、自分のことを「ボク」や「オレ」と呼ぶ女子、男なのに自分を「アタシ」と呼ぶオネエ系など、意外性がウケる例もあったりするある。

こんなふうに言葉の使い方によって表現の可能性を探っていくのは一苦労あるが、創作シーンにおける醍醐味でもあるね。

私言いたいこと、小説家の清水義範さんが書いてらっしゃるある。引用させていただいて結びの言葉とするね。

 小説の中の会話は、小説用に再構成された虚構のことばである。私などは、なるべくそういう型としてのことばではなく、リアルなことばを書きたいと思っているのだが、それでも完全にそう書けるわけではない。
 そのことの、最も端的な例が、女性の台詞である。近頃の若い女性が自分のことを、ぼくと称しているだとか、暴走族系の女性が、ちくしょうめ、ざけんじゃねえや、と言っているという次元の話ではなく、実は今日では、女性ことばと男性ことばの差がほとんどなくなっているのだ。 「きったねえよなあ。やってらんないよ」 「それ、できたらすぐ送っといてよ」 「やめろってば。うっとうしい奴だなあ」 こういうことば、すべて女性もこのようにしゃべっているのである。ところが小説には、なかなかそうは書けない。特に脇役の女性にこうはしゃべらせられない。それをしてしまうと説明が必要になるのだ。男まさりの少女だがそこがチャーム・ポイントで、案外心は優しいのである、とかなんとか。でも、そこに出てくるだけの少女にそういう説明をするというのもヘンだから、ついつい、型としての女性ことばをしゃべらせてしまう。 「やめてってば。うっとうしい人ねえ」と。 かくして、小説のなかには小説の中の記号としての女性ことばが氾濫する。 (中略)
 小説とは、現実をリアルに写そうとしながら、かえって記号的に語ってしまうこともあるのだ。
— 清水義範、『日本語必笑講座』

「ステレオタイプ」は嫌われがちな言葉あるが、便利なところもあって、私たち知らないうちにその恩恵に預かっているある。

あらためて言うが、『中国の人は「〜アルヨ」と喋る』というのは、今やただのイメージでしかないある。

でも私たち、誰かに「中国人っぽく話して」と言われたら、きっと「ニーハオ。今日もいい天気あるね」なんて答えてしまうある。

役割語のハナシ通して、自分の考え方・感じ方が意外なほどステレオタイプに染まっていること自覚してもらえたら嬉しいね。
(それが良いとか悪いとかは、また別の話ヨ)

(おしまいある)


自己投資します……!なんて書くと嘘っぽいので、正直に言うと好きなだけアポロチョコを買います!!食べさせてください!!