「なぜあなたはカギカッコの最後に句点を付けるのか。」
さて、すっかり便利な世の中になりました。
ひと昔前の読書といえば、紙の本一択。新刊が出れば本屋に行き、平積みにされているお目当ての本を大事に抱えてレジに急いだものです。
ところが今ではインターネットを利用したさまざまなサービスが発達し、私たちは自宅のリビングで気軽に電子書籍を買えるようになりました。
そしてその「気軽に読める」という風潮は、それと対になるトレンドを生み出しています。
すなわち「気軽に書ける」ということです。
Amebaやexciteなどのブログサービスをはじめとして、電子掲示板、SNS(Facebook、Twitter等)小説投稿サイト(カクヨム、小説家になろう等)、あるいは今ご覧になっているnote。
これらのユーザーは基本的にお金をもらって書いているプロではありません。その多くは「単に書きたいから」書いているのです。
お分かりの通り、インターネットの発展がもたらしたのは、アマチュアが書く文章の大氾濫です。
(そんなことないとは言わせませんぜ。あなたが読んでいるこの文章こそ「アマチュア」の仕業なんですから)
これはグーテンベルクによる活版印刷法の発明に次ぐ革命と言っていいでしょう。今や、700万年に及ぶ人類史の中で最も「文字を書くこと」に親しんでいる時代なのです。
……まあ、その気軽さと匿名性がさまざまなトラブルを巻き起こすわけですが、それはこの際置いておきましょう。
強い光の前では誰もがシルエットに変わる。
プロとアマの関係も似たようなものだろうか。
—湘南海岸にて撮影
さて、そろそろ本題に入りましょうね。
僕もアマチュアとしてエッセイや小説を書いたり読んだりするのですが、ふと気が付いたことがありました。
「会話のカギカッコの最後に句点が付いている小説」を結構見かけるのです。
「例えばこんなふうに。」
広瀬は得意げにキーボードを叩く。格好つけてはいるが、前歯に青のりが付着しているのを私は見逃さなかった。
というように。
句点というのはいわゆる「マル」のことです。
普通、会話文では最後の句点は省略されます。
「その方が会話のテンポも良くなるからね」
広瀬は相変わらず青のりのついた歯を光らせて、得意げになっている。私はそれを話半分に聞きつつ、夕食の献立を考えていた。
こんなふうに。
この慣例は広く浸透していて、市場に流通しているほとんどの出版物はそうなっています。
ところが、noteをはじめとしたカジュアルなテキスト投稿サイトに上がっている小説は、かなりの割合で句点が付いているのです。
まあ、それだけなら「小説の書き方がなっちゃいないぜ!」などと偉そうに一方的にまとめることもできますが、そんなことはしません。
ことアマチュアにおいて、「書く」ということについてルールはありませんからね。
というか、ルールの話をするなら句点を付ける方が正しいのです。
小学校ではそう習うはずですから。
以下、文化庁の議事録からの抜粋です。
委員:かぎ括弧で,「はい。」のように句点を付けてから,かぎ括弧を付けるが,規則はあるのか。
文化庁:学校教育では句点を付けている。これは,先ほど出ていた「くぎり符号の使ひ方〔句読法〕(案)」を指針としているためである。
この通り。
たしかに小学校の国語の授業で原稿用紙が配られたとき、「カギカッコトジと同じマスに句点(マル)も一緒に書くように」と習いました。
皆さんもそうかと思います。
しかしその一方で、
委員:文学作品では,ほとんど句点を付けていないのではないか。
文化庁:現在の作家の中で,付けているのは黒井千次氏と吉本ばなな氏くらいである。
文学作品では句点を付けない、というのもまた事実のようです。
上では二人の作家先生の名前が挙げられていますが、青空文庫でさっと斜め読みした限りでは森鴎外や芥川龍之介なども句点をしっかりと付けているので、ここ数十年のトレンドなのかもしれません。
つまり「ものを書く」と言う場面においては、学校教育のスタンダードと文学作品のスタンダードが混在しているのです。
そしてその潮目に位置するのがここ、noteのようなテキスト投稿サイトというわけです。
その作品たちの中には「地の文がしっかり書かれているのに、会話文のカギカッコの最後に句点が付いている」というキメラみたいな小説もあったりします。
「地の文ってなに?」
困惑する彼女を見て、僕はやれやれとため息をつく。
地の文とは、小説にでてくる文のうち、セリフや会話文ではない文のことだ。つまり、あなたが読んでいるこの文である。
物語の状況や背景を描写したり、登場人物の心情を表現するのに必要不可欠なテキストではあるが、地の文が多すぎるとテンポが悪くなったり、説明くさい文章になってしまいがちである。かと言って少な過ぎれば会話文ばかりになり、演劇の台本のようになってしまう。
地の文で丁寧な情景描写がなされているにもかかわらず、会話文の句点は付いたまま。
これ、不思議じゃないですか。
会話文は登場人物のセリフを繋いでいくだけですが、地の文を書くには想像力や構成力、表現力などの総合的な文章力が求められます。
それを身に付けるためには多くの文学作品を読み、表現技法や文章の組み立て方を吸収していく必要があるでしょう。
言うなれば、地の文の上手さは「どれくらい文学作品を読んでいるか」を示す指標になります。
箸休めに猫ちゃんをどうぞ。
そもそも小説を書く人というのは、概ね「好きな作家がいる」「自分も同じように書きたい」という動機で書き始める方が多いと思います。
(乱暴に括ってしまい申し訳ありませんが、一旦このまま話を続けます)
読書経験をもとに、執筆意欲が湧く。
つまり「書く人」は「読む人」なのです。
であれば、会話文のカギカッコの最後に句点が付かないということは、小説を書く人ならば経験的に分かっているはずです。
誤解を恐れずに言えば、句点なしは文学作品によく親しんでいる人で、句点ありはそういう面では初心者である。
そう信じ込んでいた中で見つけた「地の文成熟」「でも句点は付いてる」のキメラ小説ですよ。
僕はたいへん混乱しました。
なんで地の文をそんなに流暢に書けるのに、カギカッコトジの句点は小学生の作文みたいに付いたままなのか。
その混乱に任せていくつか理由を考えてしまいました。
*とくに意識していない
句点の打ち方なんて気にしない。というか句点ってなに?というパターン。感覚派。
*あえて付けている
今でも句点を付ける数少ない作家さんや昔の文豪に倣い、あえて句点を付けているパターン。あるいは「。」の持つ語感を活かそうとしているパターン。
*小中学校における国語教育の勝利
世に出ている文学作品などを読まなくても、小中学校で勉強した「ごんぎつね」「高瀬舟」などの作品の全てを吸収し、アウトプットできているパターン。
どれなんでしょう。どれでもないのかも。
いずれにしても凄い。
僕は何事もカタチから入る人間なので、お決まりの形式を飛び越えて創作される作品に魅力を感じてしまい、「なぜあなたはカギカッコの最後に句点を付けるのか。」と聞いてみたい気持ちがうずうずと湧き起こります。
まあ、どんな答えでも僕は納得するでしょう。
我々は「表現」に対してポイントを付けたり、順位付けをしたがりますが、それ自体は本質的に無限の価値を持つものですからね。
映画や小説などの「商品」として市場に出回るときにはじめて、その表現に値段が付くのです。
それに、書き方が違っていても根底にある「書きたい」という気持ちは変わらないわけですから、書いている人すべてを博愛の気持ちでもって暖かく見守っていきたいと思います。
箸休めに行水するスズメさんをどうぞ。
ただ、一方で自分には厳しくいきたいというのが僕なりのバランスの取り方でもあります。
一度書いた小説を何度も読み返したり、気に入らないところをちょっとずつ直したり。
書いたものは自分の半身なので、おせっかいを焼きたくなる……というところでしょうか。
そんな半身、載っけておきますね。
〜話は変わって〜
ちなみに、映画やマンガなどでも句点を付けないのが一般的なようです。フキダシがあったりして、ビジュアルで会話だと分かりますもんね。
ただ、面白いことに「週刊少年サンデー」や「ビッグコミックスピリッツ」などを発行する小学館は、今でもしっかりと句点が付いています。
Wikipediaより。
マンガ愛好家の間では常識らしいですが、意外と気付いていない方も多いのでは。
たとえば小学館のレーベルの一つ、てんとう虫コミックスから発行されていた『ドラえもん』もたしかに会話の最後は句点を付けています。
てんとう虫コミックス5巻収録
『ドラえもんだらけ』より
原作のドラえもんはのび太に対して「きみは実にばかだな。」などの辛辣なセリフを結構言うんですが、最後の句点があることでいっそう突き放した感じがしますよね。
このように句点を付けることで「言い切った」感じになり、強意や終止の効果があります。
「てか、歯に青のり付いてるんだけど。」
いきなり浴びせられた冷たい声。俺は歯に青のりを付けたまま小説の技法について熱弁していたのか。恥ずかしさのあまり言葉が出なくなる。
「あーあ、黙っちゃった。さっきまであんなにベラベラと喋ってたのにねえ。」
彼女の物言いは容赦がない。言い返したい気持ちはあったが、口を開いたが最後、青のりに飾られた歯を再び晒すことになるのだ。
結局、俺は黙ったままでいるほかなかった。
それにしても、上に載せたドラえもんの一コマで「やろう、ぶっころしてやる。」がギザギザの吹き出しの中に入っているのは面白いですよね。
吹き出しの形で怒鳴っているのは分かるのですが、句点のせいで息が詰まる感じもします。
その一方で、「ビッグコミックスピリッツ」に連載中の『君は放課後インソムニア』は句点や改行による間の取り方が作風にマッチしていて、とても上手だなと思いました。
『君は放課後インソムニア』3巻より
不眠症(インソムニア)に悩む高校生の男女が主人公のマンガで、あまり会話が多くなく、初々しい思春期をやわらかく描くいい作品です。
「新しい風が
入ってくる
ね。」
なんとも言えない間の取り方。
月のある穏やかな夜の海辺のようないいマンガなのでぜひ読んでみてください。
「でもやっぱり、必ず句点を付けなくちゃいけないなんて窮屈じゃない?」
歯茎が削れるほど入念に歯磨きをした俺は、ふたたび彼女と額を突き合わせていた。さっきとは打って変わってすこぶる機嫌がいい。青のりがよっぽど気に食わなかったのか。
「たしかに、吹き出しの中に句点を付けることに抵抗がある作者さんも多いと思うよ。セリフが一文字増えるわけだし、見た目的にもちょっとゴチャゴチャしちゃうからね……」
「作品ごとに句点の有無を選べたりしないの?」
「出版社の方針だから難しいんじゃないかな。でも、抜け道はあるよ!」
「抜け道?」
長い睫毛を羽ばたかせる彼女。
「句点を付けないようにするためには、セリフの最後を『!』とか『…』にしちゃえばいいんだよ!」
「なるほどね。句点をほかの記号に置き換えちゃうのか。でも、それはそれで違和感あるんじゃない?」
「いやいや、上手いこと使えばまったく違和感はないよ。たとえば……」
週刊少年サンデー『名探偵コナン』より
すごい。
推理のシーンでは三点リーダ(…)、アクションシーンではエクスクラメーションマーク(!)を多用しており、メリハリが効いてます。
「句点を付ける」というルールの下に描かれたとは思えないくらい鮮やかに句点の使用を避けていて、こういう緻密さが人気の秘密なのかもしれません。
さて、こんなふうに句点には長短ありますが、みんなで仲良くこのちっちゃいマルと付き合っていきましょう。
すぐ使えるように、いくつか置いておきますね。
ぷ。。。。。。。。。。。。。。。。。。
(一定の間隔で句点を置いていく人)
(おしまい。)