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お寿司を食べることの意味に気づいた日

 そうだ、寿司を食べよう。

 コンビニの弁当で簡単に済ませる食事。スーパーで買った食材を使って自分で作る食事。お腹は空いているはずなのにお箸が進まなくなった。

 毎週同じコンビニで、同じスーパーで買うものは段々と似通う。食事の時間がただただ、食欲を満たすためのルーティーンになってしまった。

 そんなロボット化した習慣のどこかのネジを外してしまいたい。そんなことを考えているときに「そうだ、寿司を食べよう」と思いついた。

 時刻は12時。夕食に寿司を取る。そう決心してから、スマホを片手に自宅付近の寿司屋を探す。予約を取るのはまだ早い。高ぶる気持ちを抑えて、寝落ちした映画の続きを見返す。だけど、映画の内容が頭に入ってこない。頭の中は寿司を食べることに占領されていた。

 だから、少し早いとは思いながらも寿司の予約するために電話をかけた。トゥルルル。ドキドキ。トゥルルル。ドキドキ。トゥルルル。ドキドキ。呼び出し音が鳴り重なる度に心拍数が高まっていく。「お電話ありがとうございます、、、、」スマホの画面を開いて、持ち帰りセットを頼む。1人前。いや2人前で。「ひ、ひとりで食べるわけじゃないんだ」そう弁明するかのように2人前を注文した。

 受け取り時間が近づくにつれて、心のざわつきの合唱が少しずつ大きくなる。それを消し去るように部屋の掃除を始めた。いつもだったら手が届かない場所まで綺麗にしていった。

 いよいよ寿司を迎えにいく時間になった。内心はスキップしていたけども、大の大人が上下に飛び跳ねているのは不審者でしかない。地面をいつもより強く蹴り出そうとする足を押さえながら寿司屋に向かっていった。

 自宅に戻る。インスタントの味噌汁をお供に、マグロだけの行列2人前を口に運ぶ。無音の室内。気がつくとマグロの行列は半分になっていた。お箸が進まなかったのが嘘のように食欲は止まらない。サッカー選手がゴールを決めた後に両手を天に向けるように、マグロの軍艦を口に放り込んだ私は両手の人差し指を真っ白な天井に向けていた。

 20代後半を迎えて、ひとり寿司を初めて決めた私。どうしてここまで寿司にときめいたのか。思い返すと、実家で寿司を食べるのは特別な時だけだった。毎年やってくる誕生日には絶対に食べられない。部活で優勝した時、大学に合格した時、そういえば初任給で寿司を食べに行ったこともあった。

 私にとって寿司は特別な時に食べられる特別なものだった。私を戸惑わせた原因不明の高揚感の正体はここにあった。

 ・・・・・・

 私は、私の中にある大切な意味合いを変えてしまった、ような気がする。特別な存在だった寿司を、特別ではない、いつもと変わらない日常の中で食べてしまった。食事への閉塞感から抜け出すために、安易な気持ちで食べてしまった。何かをお祝いするためのお寿司が、嫌なものから現実逃避するものに変わってしまう。そう思うと涙が止まらなくなった。

 無意識に私の中にできていた「寿司を食べる」ことの意味がこれからどう変わったのか。それとも、まだ残っているのか。そんなことを考えながら、3日分の食費を1食で使ってしまったことを少し後悔していた。

 

 

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